第四章

第26話

 翌朝いつもの時間に起きる。明らかな寝不足の朝ではあるが、寝不足の原因が「眠れなかった」ことにあるため眠気はなく、それでいて憂鬱である。

 僕は洗面所で顔を洗うとそのまま台所に入った。コトコト美味しそうな音を立てる鍋の前でエプロン姿の渚が立っている。渚は僕の入室に気づくと明るい笑顔を向けてくれた。


「おはよう」

「お、おはよう」


 渚は声色も柔らかく、昨晩のことをあまり気にしていないのだろうかと些かの疑問が浮かぶ。しかしそんな直球な質問ができるはずもなく、僕は食卓に目を向けた。そこには長方形のお盆があり、その上にこの日の朝御飯のおかずが並べられている。これはじいちゃんの分の朝食である。

 僕はその中から裏向きに置かれた茶碗を手にすると、炊飯器まで行ってご飯を盛った。


「ありがとう」

「あ、うん……」


 相変わらず明るい雰囲気の渚に対して、自覚できるほどぎこちない自分の言葉が恨めしく、そしてあまり渚を直視できない。


「そんな全面に気まずさ出さないでよ」


 僕の態度はしっかりと渚に読み取られてしまっていて、そんなことを言われるものだから「ごめん」と一言しか返せない。


「ここにいるうちはたった三人だけの家族だよ?」


 そう続ける渚の意見に僕は深く納得するのだが、どうしても昨晩渚を振ってしまった気まずさは拭えず、相変わらずぎこちない返事しか返すことができない。そんな僕の様子に構うことなく渚は炊事の手を止めず言葉を続ける。


「そりゃ、私も積極的にいきすぎたなって反省してるよ? 事情を知らなかったとは言え、輝君に迷惑かけちゃったなって」

「いや。渚は悪くないよ。僕が……」


 尻すぼみになって消える言葉。この先に何を続けろと言うのか。臆病だから? はっきりしないから? 何を取っても僕が渚へ抱く好意を臭わせ、それは渚の気持ちに応えてあげることができないのに渚を期待させてしまう。だから言葉が続かない。


「私、輝君に嫌われることだけは怖いから――」

「嫌いになることは絶対ない」


 これだけははっきりと言えた。言葉を遮られた勢いに渚は一瞬目を見開いたが、その表情はすぐに柔らかくなり、癒されるような笑顔を向けてくれた。


「そっか、それは良かった。じゃぁ、これからも仲良くしてくれる?」

「それはもちろん」

「えへへ」


 はにかむように笑って再び炊事に手を戻す渚。その様子を目にして僕は渚に対して何ができるだろうかと考察する。いつも気に掛けて好意を口にしてくれた渚に対して何を返せるのだろうかと悩む。これはこの島での残りの生活の間の課題になりそうだと心の内で噛み締めた。


 渚がお盆の上に味噌汁を置くと同時に僕もご飯を置き、じいちゃんの朝御飯が揃ったことを把握する。僕はお盆を持って台所を出ると、じいちゃんの部屋に行った。


「じいちゃん、おはよう」

『おう、テル。おはよう』


 この日もよく晴れており、じいちゃんの部屋は二面の窓から涼しい風が吹き抜ける。近くにセミが止まっているのだろうか。夏の風物詩とも言えるような甲高い泣き声を屋外から轟かせている。

 僕がお盆をベッドテーブルに置くとじいちゃんが自力でゆっくりと上体を起こそうとしたので、僕はじいちゃんの背後に回った。


『大丈夫だ』


 背中を支えようとしたのだが、じいちゃんは声と手で僕を制し、ゆっくりではあるものの動作を続けた。じいちゃんの腰は本人が言うように本当に快方に向かっているようで、それを見届けろと言わんばかりのじいちゃんの意思を感じて、僕はじいちゃんの体に触れることはしなかった。


『どうだ?』


 完全に上体を起こすとじいちゃんは得意げな笑みを僕に向けるのだが、ベッドの手すりに頼ることなく体を起こしたので僕は感心していた。今までは手すりを掴んでやっとのことで体を起こし、杖を使ってなんとかトイレだけは自分で済ませていたのだが、これなら僕と渚がいる八月のうちに私生活は自力で送られると期待できる。


「安心だね。今月中にはなんとかなりそうじゃん」

『そうだな』


 ふとじいちゃんが寂しそうに呟いて箸を持つので、僕ははっとなった。家にいる時間は極力じいちゃんの部屋に寄り付き話し相手になろうとしている。それは渚も一緒なのだが、僕の発言は八月いっぱいで僕と渚がこの家から離れることを意味する。しかしこの家にいるのももう残り二週間を切っている。

 十年前にばあちゃんに先立たれてからずっと一人暮らしのじいちゃんが、この夏は僕と渚がいたことで寂しくなかったことは当たり前で、体調が快方に向かっていることは喜ばしくあるものの、それとは裏腹に寂しさも抱いているのだ。


「じいちゃん、そろそろ台所の椅子に座って食べられる?」

『おう、そうだな。いけるだろ』

「じゃぁ、今晩からあたりからどう?」

『そうするか』


 僕と渚と一緒に食卓を囲めることがじいちゃんのためになればと思っての提案だが、無理をさせてはいけないので、少しでも辛そうだと思えば延期にしようと僕は思った。


 台所に戻ると僕と渚での食事が始まったのだが、その席で渚はいつにも増して饒舌だった。僕から気まずさを少しでも解消しようとしてくれているのだろうか、もしそうなら頭が上がらない。


「でね、高校で一番仲の良い香織って子がね――」


 地元での高校生活の話をする渚は実に高校生らしいのだが、僕は渚の制服姿にはお目にはかかったことがないので、渚は高校生なのだと改めて自覚するとともに、それが感慨深くもある。


「輝君はどんな高校生活送ってたの?」


 楽しそうな渚のその表情を見ていると気まずさは徐々に解消されてきて、それとともに会話が楽しくなってくる。一度自分の話が終わると渚は僕に質問を振ってくるので、僕は咀嚼を済ませると答えた。


「仲の良い五人組でよく一緒に遊んでたな」

「へぇ。どんな組み合わせ?」

「僕の他に二人は男で、二人は女。そのうちの一人が真緒」

「あ……、ごめん……」


 地雷を踏んだと感じたのか渚が申し訳なさそうに顔を伏せるので、僕はすかさず「気にしないで」と言った。

 自分でもわかるほど穏やかな表情で言えたと思うのだが、それは僕にとっても若干の驚きを覚えるとともに、渚に対して真緒の話題に触れることに抵抗がなくなったのだと自覚する。そんな僕の様子を見て少し強張っていた渚の表情は明るくなったので、それに僕は安堵した。


「お友達の名前はなんて言うの?」


 僕の地元の友達の名前を聞いたところで渚が関わることはないと思うのだが、僕は今の自然な雰囲気を壊すことが憚られ、素直に答えた。


「淳と弘志と環菜」

「ふーん」


 それを聞いた渚は箸を口元で止め、大きな黒目を上に向けて何かを考えるような仕草を見せた。それに疑問を感じた僕だが、すぐに渚から声が返ってきてその疑問は意識の外に飛ばされた。


「環菜さんが女だよね?」

「そう」

「どっちかの彼女なの?」


 少しばかりニタッとした表情を見せる渚はやはりこういう話題が好きなのだろうか。こういう顔を見ていると渚に女子高生を感じて実に微笑ましくなる。


「弘志の方が特別仲良いけど、どっちも付き合ってないっていつも否定するな」

「ふーん。みんな今でも輝君と付き合いあるの?」


 渚のその質問に一瞬言葉を失うが、僕はこの会話の流れを止めたくなく意識を戻す。


「それなりにね」


 嘘ではない。しかし僕はグループ行動を避けている。個々とは不定期に会ってはいるし、連絡も取り合っているのだが、全員で集まるのだと聞くと途端に避ける。それはやはりその場に真緒がいないことが悲しくて、やるせない気持ちになるからである。


 この台所にもセミの鳴き声が聞こえてくるのだが、じいちゃんの部屋とは正反対の位置にあるので、家の周りにいるセミは一匹ではないようだ。乾いた空気が特徴的な島ではあるものの、北西角にある台所は少しばかり蒸し暑さも感じ、セミの鳴き声とともにまだ夏が続くことを告げるようである。

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