第25話
窓台から腰を下ろしその窓の腰壁に背中を預けて床に座ると、渚が僕の隣に座り直して肩を寄せてきた。窓から吹き込む潮風を後頭部に感じる。それは渚も同じようでセミロングの髪を胸元で揺らしていた。真っ暗な部屋ではあるが、二度目の風呂上りの渚の髪は濡れていないことがわかる。
「辛いこと言わせちゃってごめん」
渚は何か察してくれたのだろうか、気遣う言葉をくれたのだが、僕は「気にしないで」との意味を込めて弱く首を横に振った。
「いつも体寄せてくるんだな」
「迷惑なの?」
「そうじゃないけど」
拗ねたように言葉を返してきた渚だが、自分でもわかるほど僕の言い方が柔らかかったので、渚にそれほど気にしている様子は伺えない。実際、僕はこの時わずかだが吹っ切れていて、気持ちはほんの少しだけ軽くなっていた。
「誰にでもすると思わないでね。輝君のことが……」
その先を言い淀んだ渚だが聞かなくてもわかるし、聞いても言葉の返しようがない。それでも僕はこの距離に嫌な気持ちを持たないどころか、癒しを感じる自分が恨めしく、それで自己嫌悪に陥るのだ。しかし渚は僕の気持ちをよそに続けた。
「輝君のことが好きだから甘えたくなるの」
「そっか……」
渚が言い直したその言葉。とうとう口にして言われたその言葉。案の定僕はたったそれだけの言葉しか返すことができなかった。間違いなく僕も渚に対して同じ気持ちを抱いている。しかし、前に進む勇気も、前に進むつもりもない僕は、渚の気持ちにも、自分の気持ちにも困惑するばかりだ。
「自分で言うのも何なんだけどさ、私って結構モテるんだよ」
「だろうな」
「気づいてたか」
その時微笑んだ渚だが、これだけの容姿を備えているのでそれは納得である。加えて人懐っこいのだからそれは理解できる。尤も、他の男性に対してどのように接しているのかは見たことがないのだが。
「怖いんだ……」
「え……」
僕の胸の内の言葉が自然と口を吐いた。隣で僕を向いた渚は変わらず風で髪を流されていて、それが僕の頬をくすぐる。たぶん僕は今から話す。自分の過去を。そして何に恐れているのかを。今の僕にそれを止める気は更々なく、むしろ渚に話して楽になりたいとさえ思うようになっていた。
◇
高校最後の夏休みが終わり、新学期が始まると、カリキュラム以外での学校での僕の居場所は図書室になった。つまり放課後はずっと図書室にいるわけで、けどあまり読書をする習慣がない僕はただただ機械的に空調の効いたこの大空間で勉強をしていた。
校内の大抵の場所も、通学路も、果ては自宅マンションや自室まで、どこも真緒との思い出が詰まっている。
図書室の隣の空き教室は真緒が所属していた文芸部の部室であるが、図書室そのものは真緒との思い出がなく、他にやることもないのでここで勉強に集中することだけが自我を保てる唯一だった。勉強に集中さえしていれば、余計なことは考えなくて済むのだ。
「テル、一緒に帰らない?」
秋の夕日が差し込む図書室の、その夕日を避けた席でいつものように教材を広げていると声を掛けてきたのは環菜だった。この日はいつものポニーテールではなく、背中まである髪を真っ直ぐに下ろしていた。
「閉館までいるから先に帰りなよ」
「じゃぁ、私もここにいる」
環菜は僕の正面の席の椅子を無造作に引くと、鞄を机に置いて座った。しかし環菜は読書をする気も、勉強をする気もないようで、取り出した携帯電話で遊んでいるようだ。
「待つつもり?」
「そうよ」
「弘志と一緒に帰ればいいじゃん」
「いつもあいつと一緒にいると思わないでよ」
そうは言うものの、環菜と弘志がいつも一緒にいることは周知の事実で、校内には二人が付き合っているのではないかと疑っている生徒も多数いる。尤も、僕と淳はそれをいつも二人からはっきり否定されるので、そうは思っていないのだが。
陽を避けた図書室の席は照明の光のみで視界を確保していて、屋外から部活中の運動部の声が聞こえてくる。一度勉強に集中するとそれは耳に入らなくなるのだが、この時は環菜の存在から集中が途切れ、いつにも増して大きな掛け声にも聞こえた。
その掛け声に導かれるように窓の外を見ると山颪を吹き下ろす山が見え、更にその向こうに赤く染まった空が見える。引き込まれるようだった。この窓の外に飛び込めば肉体だけ置いてあの場所に行けるだろうか。そこには真緒がいるだろうか。その狂気とも言える感情を僕はこの時憧れだと錯覚していた。しかしその意識を環菜が戻させた。
「テル、私はテルが終わるまで待つからね」
溜息が出そうにもなる。もう少しで向こう側に行けたかもしれないのに。落胆を胸に僕は環菜との会話を続けることにした。
「環菜、
「テルと別れるところくらいまでは押して帰るよ」
――なんでそんなに僕に構うんだよ?――
そんなことは言えるはずもなく、僕の心の中で自分の声が反響するだけだ。環菜が構う理由は真緒を失った僕を気に掛けていること以外何もなく、環菜自身も消化できない気持ちはあるのだろうが、こうして僕に構う。ただそれは弘志も淳も同じで、日替わりで三人のうち誰かが僕のもとまでやって来るのだ。
休日になれば僕を連れ出そうと三人は頻繁に声を掛けてくるのだが、僕はそれを受け付けず、家にも居たくない僕は勉強道具を持って近くの図書館に籠る生活を送っている。そんなことだから、気に掛けてくる三人が鬱陶しいとさえ思っていた。
僕は荒んでいたわけではないのだが、一人でゲームをしていても三人と遊んでいても、その場は今まで真緒がいて成り立っていたのだと痛感し、拒否反応しか出てこない。ただただ僕は前を向くことなく塞ぎこんでいたのだ。
そんな一向に調子の上がらない僕だが、学校の成績だけは皮肉にも上がっていき、最後の定期テストでは校内で生前の真緒をも凌駕するほどの立ち位置におり、受験では県内有数の難関大学に合格した。ただ、僕に何がしたいとか、何になりたいとか、前向きな目標はなく、僕は塞ぎこんだまま高校を卒業したのだ。
◇
全てを渚に話した。真緒との出会いから、どういう付き合いをしてきたのかを。そして墓の納骨場に何を入れたのかを。更には手紙も読ませた。渚は手に持っていた携帯電話の光を頼りに丁寧に手紙を読んだ。
僕はなぜ手紙まで読ませようと思ったのだろう。考えてもわからない。この少女の小さな背中に僕の無念を一緒に背負わせたかったのだろうか。いや、そんなはずはない。ただ僕は渚に僕のことを、そして真緒のことを知って欲しかっただけなのだ。
「輝君は一途なんだね」
「え……」
手紙を僕に返すと渚がそんなことを言うものだから、僕はその意見がちょっと意外だと感じて渚を向いた。その時渚は僕に向いていて顔が近く、潤んだ瞳が心なしか暗闇に光沢を写す。お互いの吐息が掛かる程の距離に少し脈が速くなったのを感じるが、渚から目を離すことができず、僕は渚のその大きな瞳の奥を見ていた。
「小学校の時から今でもずっと好きなんでしょ?」
渚のその問い掛けに僕は答えられないのだが、その原因は今僕が見据えている少女にある。心変わりなのだろうか。それとも真緒のことが心にいるまま渚を好きになってしまったのだろうか。答えはわかっている。後者だ。それは僕を困惑される原因の一つでもあり、僕は自分のことを一途だなんて到底思えない。
「羨ましいよ、彼女さんが」
彼女……か……。元カノと表現しない渚の言葉に僕と真緒の恋人関係は、真緒がこの世にいなくなった今でも続いているのかと葛藤が芽生える。それはある意味虚しくあり、しかしある意味では嬉しくもある。もう二度と会えない真緒。だけど真緒は僕の中でまだ生きている。
最初からわかってはいたことだが、改めて僕の中に真緒がいるとわかると、僕から渚に言うことは一つしかない。
「だからごめん。渚の気持ちには応えられない」
「そっか、わかった」
渚は納得したように、そしてすっきりしたようにそう返事をすると「おやすみ」と言って僕の部屋を出た。ただ、その「おやすみ」の言葉だけはこの暗闇の中でとても弱く悲しく舞った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます