第24話

 なぜこんな物までこの家に持ち込んだのだろう。遺品は墓の納骨場に納めた赤鬼風のキーホルダーだけで良かったはずなのに、僕は無残にも皺の入った便箋と封筒をぼんやり眺めていた。キーホルダーはもう収めたため、唯一手元に残った遺品である。


 渚がこの日二度目の風呂に入っている間、僕は二階の自室で照明も点けずに薄明るさすらもない真っ暗な空間にいる。開けられた窓からはすぐ近くに見える海からさざ波の音が聞こえてきて、部屋に入ってくる風は潮気を含む。更に数少ない街灯の光が届くのだが、この明るさは気休め程度だ。

 手に持つ皺の入った便箋に書かれた文字は所々今では乾いた涙で滲んでいるが、その筆跡ははっきりと認識できる。窓台に腰掛けると辛うじて外の光が届くので、なんとか文字を視認することができるのだ。


「真緒……」


 誰もいない真っ暗な部屋で僕は手紙を読み返しながら、かつての恋人の名前を口にする。それがどれだけ虚しいことか、それがわかっていても、たとえどこから返事が返ってこなくてもこの独り言の問い掛けを止めることはできない。


「僕、どうしたらいいかな……。もう先に進んでもいいかな」


 聞こえてくるのは屋外にいる虫の鳴き声と波の音だけ。僕の脳裏に浮かぶのは二人の女性の笑顔。直接顔が似ているわけではない。それでも重なる二人。初対面の相手にあまり積極的になれない僕の懐に出会ってすぐ深く入ってきた二人。優しい笑顔と膨れた表情。所々の言動。顔は似ていないはずなのに、前髪が真っ直ぐ下りると目元に面影を感じる。

 真緒が僕の傍からいなくなってこれほどまでに他の女性に困惑したことはない。つまりそれほどまでに僕は渚に惹かれていて、それは反って今この部屋に吹き込む風を自身の臆病風だと消極的に感じてしまう。僕は目頭が熱くなりながらも手紙の読み返しを続けた。


 ◇


 テルへ、


 この手紙をテルが読んでいるということの意味するところ、とても残念です。諦めずに病気と向き合って頑張ってきたつもりですが、最悪の結果になったようですね。やっぱりその可能性を捨てきることはできずこの手紙を書きました。


 私には夢がありました。将来の職業とかの夢ではなく、それはただ、テルと一緒に老後まで健康で暮らしたいというものでした。

 心からテルのお嫁さんになりたかったです。おじいちゃんおばあちゃんになってもテルと一緒に仲良く笑い合っていたかったです。九月、テルの十八歳の誕生日が来たら、本気で逆プロポーズをしようと思っていました。その時はこの手紙を書き換えていましたけどね。けどこの手紙を読んでいるということはテルの誕生日までもたなかったんですね。


 テルの家族にも本当に良くしてもらって感謝しています。だから私は本気で宇多村家のお墓に入りたかったです。まだ子供だけどそのくらいテルのことが大好きです。この気持ちは私の命が尽きてもこの世にずっと残ると信じています。


 宇多村家のお墓は島にあるんですよね? お盆は賑やかなんですよね? どうせ眠るなら花火や民謡の音が響くその場所で眠りたかった。裏は薮なのに、花火の煙で蚊が寄って来ないなんて憧れます。

 テルが生まれた島、一度でいいから行ってみたかったな。たくさんやり残したことはあるけど、これが一番の心残りです。テルと一緒にのんびりとした町で一週間でも、いえ、たった三日でもいいから一緒に過ごしてみたかった。私も綺麗な島の潮風を浴びてみたかったです。


 キーホルダーをテルに渡してもらうようお姉ちゃんに手紙をしたためています。テルが中学の時、島のお土産で買ってきてくれた物です。良かったら受け取って下さい。


 私は心からテルの健康を願っています。心からテルの幸せを願っています。私のことを忘れないで下さい。誰に忘れられてもテルだけには忘れられたくないです。これが私の最後の我儘です。それさえ叶えてくれたらテルがこの先誰と出会って、誰と幸せになろうと、私は心から祝福し、テルの幸せを見守ります。

 テルに辛い思いをさせてしまうことをわかっていながら私の我儘を叶えて恋人になってくれたこと。そしてテルが私の病気を知ってからもずっとその関係を続けてくれたこと、申し訳なくも思いますが、本当に感謝しています。


 テル、心から愛しています。


 真緒。


 どこかで覚悟はしていたはずなのに、その覚悟は甘かったと痛感させられ、真緒の死を知ってから現実を受け入れられず、一度も泣くことがなかった僕は、この手紙を読んで初めて泣いた。手紙とその封筒に皺が入るほど強く握って泣きながら何度も真緒の名前を呼んだ。

 真緒の通夜が終わり、葬儀もひと段落して僕の家に来たのは絵美さんで、絵美さんから手紙を渡され、自室に絵美さんがいるにも関わらず僕は声を出して泣いた。その涙は真緒からの手紙を濡らしてしまったのだが、どうにも僕はそれを止める術を知らなかった。真緒は死んだ。この手紙を読んでとうとう僕は受け入れがたい現実と向き合うようになった。


「今まで真緒と仲良くしてくれてありがとうね」


 大声で泣く僕の肩を摩りながら絵美さんは声を震わせた。俯いた先には涙で霞む床と自分の足しか映らないのだが、そこに絵美さんの手と赤い何かが割り込んできた。


「これ、真緒から渡してくれって頼まれてるの」


 それは赤鬼風のキーホルダーで、僕は声を必死で止め、絵美さんが差し出すキーホルダーを受け取った。しかし声は止めたところで涙は一向に止まってくれず、僕はキーホルダーが手のひらに食い込むほど強く握り締めた。


 やっと向き合い始めた真緒の死。しかし向き合い始めたからと言ってどう受け入れていけばいいのか、それが十八歳を目前にした子供の僕にわかるはずはなく、ただただ泣いては落ちる、それを繰り返すだけの夏休みを過ごした。

 今までずっと好きだった夏。真緒と、そして仲の良い友達と過ごし、いい思い出しかなかったはずの夏。しかし高校三年のこの夏、僕の人生で初めて最悪の思い出が刻まれた。絶対に一生癒えるこのない悲しい思い出が。


 ◇


「輝君……」


 僕はその声にはっとなって顔を上げた。その時頬に涙が伝い、泣いていたのだと初めて自覚した。僕の視線の先には部屋着姿の渚が立っており、どうやら部屋の入り口を開けっ放しにしていた僕は、その入り口に立つ渚に見事なまでの醜態を晒してしまったようだ。


「ごめん、覗き見するつもりはなかったんだけど……」


 申し訳なさそうに渚が言うものだから、僕は急いで涙を拭うと無理に笑顔を作って渚に向けた。うまく笑えているだろうか、自信はない。けれどこうすることしか他に浮かばなかった。


「あぁ、気にしないで。なんか用だった?」

「あ、いや。用はなかったんだけど、電気が点いてないのにドアは開いてたから気になって」


 僕が勝手に家を出たことによる渚の不安はまだ残っているようで、その不安から不自然な様子の部屋を覗きに来たということか。照明くらい点けておけば良かったなと今になって思うが、それは後の祭りで、また僕が渚を不安にさせたことは否定できない。


「あの……」

「ん?」


 渚が言いづらそうに声を出すので、僕は渚が遠慮することなく言葉を続けられるよう、表情と声をできるだけ意識して優しくし、先を促した。


「眠れそう?」

「うーん、今すぐはちょっと無理かな」


 時刻は既に深夜一時近くに差し掛かっているのだが、今の昂ぶった感情で眠れるはずもなく、僕は苦笑いながらも正直な感想を口にした。それを耳にした渚は尚も遠慮がちに僕にお伺いを立てた。


「迷惑じゃなければなんだけど……」

「うん?」

「しばらくここに一緒にいてもいい?」

「え……」

「入ってもいいかな?」


 僕の断り無しに入室することが躊躇われるのだろう、渚が部屋の入り口から動かないのは。僕が「うん、入って」と言うと、少しだけ表情を明るくさせたように見える渚はゆっくりと僕の傍まで来た。


「それって手紙?」

「うん。僕の元恋人からの」

「そっか。別れちゃったの?」

「病気で亡くなった」


 僕の傍にちょこんと腰を下ろした渚は、暗い室内ながらも僕の手に握られている物が何なのか認識はできていたようだ。そして僕の口から告げられた事実に少し顔を伏せた。

 この時不思議と僕は渚からの質問に一切の抵抗がなく、本当のことを答えていた。先ほどまで取り乱して硬く口を閉ざしていた自分が嘘のようだった。

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