第23話
真っ暗な海面を照らすのは付近にある二本の鉄柱程度の灯台のみで、小さな波の音は防波堤の端にいる僕と渚を今にも引きずり込みそうな錯覚に陥りなんとも不気味だ。
「やっぱり答えてくれないんだね」
やや顔を下に向けた渚はその真っ暗な海面が目に映っているのだろうか、声はとても寂しそうである。尤も、渚を寂しそうにしたのは僕だからなんとも居た堪れない。
「私、とんだ勘違いばっかで惨めだ……」
その声はこの日一番、いや、この夏この島に来て渚と出会ってから一番の悲しそうな声だった。ただ、その言葉の意図するところが読み取れず、僕は渚に聞き返した。
「勘違いってどういうこと?」
「輝君と出会ってからね……」
渚は少しずつ言葉を繋ぐようにゆっくりと話してくれた。僕はさざ波とフナムシの足音を耳に感じながらも、しっかりと渚のか細い声に意識を向けた。
「輝君にどんどん魅かれていって、それで、時々悲しそうな表情は見せるけど、輝君も私といるのが楽しそうだなって、勝手に思ってたの」
間違いではない。臆病な自分の内面が表情に出ていたことは不覚であるものの、渚と一緒にいることは心が和らぎ、癒されていくことが手に取る様にわかっていた。だからこそ、僕の心からあの子の存在が消えることとか、また同じことが起きたらとか、僕は恐怖に打ち勝てないでいるのだ。
「だからね、期待してたんだ。もっと輝君のことを知れたら恋人同士になってくれるかなって」
「そっか……」
「勝手に期待して、勝手に勘違いしてごめんね」
「そんなことは!」
真っ暗で静かな防波堤に僕の声が響いた。それほど大きな声ではなかったが、この静けさの中、少しでも強い声を出せば発した本人が驚くほどに他の音がなくなる。
「そんなことは?」
渚が鸚鵡返しで質問をすると同時に、正面を向いていた顔を僕に振り向かせたのだが、僕はその渚の悲し気な表情が心に痛く、見ていられない。しかし視線を逸らすわけにもいかないから、方向だけ渚を向いたまま目を強く瞑った。
◇
夏休みに入ると真緒が生活する病室はクーラーの風が涼しいのだが、真緒の体調管理を考慮してあまり設定温度を低くしてはいない。穏やかな表情でベッドに横になる真緒を見る僕は、いつも真緒に負けないくらい穏やかな表情を意識しているのだが、うまくできているだろうか。
「どう? 体調は」
「うん。今日は幾分楽かな」
嘘ではないのだろう。しかし元より華奢な真緒が日に日に痩せていく姿は僕の目には痛く、病気の進行を止められない自分が歯がゆい。真緒の病気のことはあらゆる媒体を駆使して調べたのが、悲しくも僕にできることはほとんどなく、自身への惨めさを痛感する日々である。
「テルが毎日来てくれることが今は一番の楽しみ。本当救われる」
健気にそんなことを言う真緒の言葉に救われているのは僕の方で、込み上げてくるものがあるが、それを真緒に見せることなどできるはずもなく、僕はそっと唇を噛み締める。
「早く病気を治してテルが生まれた島に行きたいな」
更にそんな健気なことを言う真緒は、日を追うごとに弱っている体に反して意思まで弱っていることを感じさせないので、僕も強い意思を持って答える。
「今だと歯鰹が美味しいかな」
「へー、そうなんだ」
「うん。海は綺麗だし、暑いけどカラッとしてて過ごしやすい」
「いいな、いいな」
真緒のベッドの枕棚には、真緒の通学鞄に付けられていた赤鬼風のキーホルダーが置かれている。それを見るたび、そしてこうして真緒と島のことを話すたび、真緒が島に行きたいという憧れは本物だと実感する。
日曜日のこの日、真緒と2人いつものように病室で過ごしていると、扉が乾いた音を2度発したのでノックされたのだとわかった。一度真緒を見ると穏やかな表情で首を縦に振るので、あまり大きな声を出すこともできなくなった真緒に代わり、僕が「どうぞ」と言って入室を促した。
「まぁお~」
「あ、環菜。弘志と淳も。来てくれたんだ」
スライドドアを目一杯開けて入室してきた学友を目にして真緒の表情が綻ぶ。真緒が首を伸ばして身を乗り出したそうにするので、僕は真緒の背中を支えて真緒の上半身を起こしてあげたのだが、明らかに軽い真緒の体は僕の手に物寂しい感触を残す。
部活を引退した三人も週の半分ほどは足しげく真緒のお見舞いに通ってくれる。引退前からも週末などは欠かさず顔を出してくれていて、こうして気に掛けてくれる友達がいることは何とも頼もしい。
ただ残念ながら、もう真緒の高校三年の出席日数は足りない見込みで、僕達と一緒に卒業することは叶わないと言われている。しかしそんな非情な現実に真緒は顔を背けることなく、僕が持ち込む日々の学校課題を着々とこなしていた。
「元気そうじゃん」
弘志の言葉に真緒は満面の笑みを浮かべてはっきりと首を縦に振った。三人とも真緒の体が日に日に弱っていることは口に出さずとも感じているだろう。弘志のこの言葉は真緒の表情を見てのものだが、彼が言うと一切の嫌味を感じないのは得な性分である。
「ほら、淳。報告あるでしょ」
「あ、おう」
「何? 何?」
環菜に背中を押される淳を見て真緒が興味を示すのだが、その淳は気恥ずかしそうに俯いている。僕の口からは教えていないあのことを真緒に話すのだろう。
「か、彼女が、できた」
「うそー」
真緒が目を見開き、弱くはあるものの感嘆の声を発する。淳は夏休み前に同級生から告白をされており、めでたく初めての交際相手ができたのだ。それからは淳の話を中心にこの病室は盛り上がった。
もちろんこの時は既に真緒の病気のことは周知の事実で、それでもみんなで真緒を励まそうと、そして完治に向かって一緒に戦おうと躍起になっていた。皆一様に自分にできることを模索し、悩み、そしてできていたことはこうして真緒に明るい話題を届けることだった。
しかし、月が八月に変わってすぐの頃、容態が変わり真緒は亡くなった。
◇
「帰ろう」
渚のその言葉を皮切りに真っ暗な空の下、家路に就く僕と渚だが、渚の斜め後ろを歩く僕の気持ちは沈んでいる。それは渚も然して変わりはないのだろう。歩き始めてからの僕達に一切の会話はない。
結局僕は今渚に抱く気持ちも、過去の足枷も何も話すことができなかった。渚の質問に答えられない僕を渚はどういう顔で見ていたのだろうか。ただ穏やかな声で「帰ろう」と言ったことで僕はやっと目を開け、渚に付いて家まで帰って来たのだ。
「汗、掻いたよね? もう一回風呂入る?」
玄関に立ってすぐに渚に聞いた僕だが、言い切ってすぐにそれは地雷であると気づいた。なぜこんな雰囲気の時にまで気が回らないのかと、自分の無神経さが腹立たしい。
「ううん。怖いから」
渚から返ってきた返事は案の定否定で、それは事の始まりが僕にあることを示す。渚が風呂に入っている間に携帯電話を置いて黙って家を出たのは僕だから。
「本当は汗流したいんだけどね」
渚はそんな恨み節まで言い加えるのだが、どう考えても僕に非があることなので、僕は何も返すことができない。そんな僕を見てか、靴を脱いだ渚は玄関の框を上がりながら薄く笑みを浮かべて背中越しに言った。
「輝君が一緒に入ってくれるなら入れるけど……」
「え……」
一瞬で頭の中が真っ白になる発言に僕は付いていくことができず言葉を失ったのだが、その時僕の反応を確認するかのように渚は振り向いた。僕は片方の足からは既に靴が脱げていて、動作が完全に止まってしまっている状態だった。
「冗談だよ、ばーか。想像するな、エッチ」
薄い笑みを万遍なく嫌味な表情に変えた渚は、僕に背中を向けて洗面所に消えた。それを確認して僕はやっとゆっくりともう片方の靴を脱ぎ、玄関から框を上がったのだ。軽口を叩くことで今の重い空気を変えようとした渚なりの配慮だったのだろうが、また気を使わせてしまったことに何とも自分が情けない。
すると渚が洗面所から顔だけ廊下に覗かせた。その時一瞬だけ同時に見えた渚の肩は素肌だった。
「やっぱりお風呂入る。今度勝手に出て行ったら本気で怒るし、次会った時輝君の前で大泣きするから」
一方的に言いたいことを言って渚は洗面所のドアを閉めたのだが、それを見てどうやら僕は渚には敵わないと悟った。こんなことがあった直後だから黙って出るだなんて考えには到底及んでいなかったが、それでもそんなことを言われては素直に従う他ない。
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