第22話
ストレスを感じた僕が黙って家を出て、その僕を探しに出たのであろう渚を結局探しに出るという何とも皮肉な結果に僕は自己嫌悪が増大し、家を飛び出すと駆け出した。
渚が何度も来ている町とは言え、彼女はこれほど長く連続的に生活をしたことがないので、土地勘がないのはわかっている。せいぜい生活圏の行動範囲のみで、細い路地までは知らないはずだ。
治安が良く平和で事件とは無縁の町ではあるものの、事故の類は時々あり、真夜中の今、僕の抱く不安は心臓を押し潰そうとする。交通事故などはほとんど聞かないし、そもそもこの時間帯の車の交通量はないに等しい。この町で耳にする事故とは専ら水難事故で、漁船の難破であり、遊泳中の子供が溺れたりなどだ。
結論から言うと渚はすぐに見つかった。事故の心配を考慮したことと、陸地の端からローラーで探そうとしたことで僕は真っ先に漁港に行ったのだが、携帯電話で渚の電話番号をコールしていると徐々に着信音が聞こえてきたのだ。
その音は防波堤の先端に取り付けられた鉄柱程度の小さな灯台付近から聞こえてきて、その鉄柱の脇に髪を靡かせて座る人影と、光る携帯電話らしきものを確認した。僕はその少女に近づくと彼女が渚であるとはっきりとわかり、丸めた背中に声を掛けた。
「渚」
船着場をぐるっと囲うようにCの字型に形成された防波堤の先端。その反対側の背の高い防波堤の先端には暗闇でも漁港がここであると示す鉄柱の灯台が、今居る脇のものよりも強い光りを放っている。
「輝君……」
鉄柱の灯台の下で振り返った渚の顔は暗闇に紛れているが、もうずっと暗闇にいた僕の目は悲しいほどに慣れていて、その目に写った渚の表情はとても悲しく、今までずっと泣いていたことすらもわかってしまった。何をしても裏目に出る僕の行動は、暗い海面が波紋を広げるかのように広く僕の心を罪悪感で蝕んでいく。
「心配かけてごめん」
やっとそれだけの言葉を搾り出したのだが、渚からすぐに言葉が返ってくることはなく、さざ波の音と防波堤を行き交うフナムシの足音だけが響く。僕に出会ってから一番の寂しそうな顔を向ける渚は、今の時間では気味が悪いとも言えるこの場所でどのくらい一人でいたのだろうか。その心中を思うと言いようのない重圧が僕にのしかかる。
◇
僕は高校三年に上がると同時にバレーボール部を退部した。理由は入院した真緒とできるだけ一緒にいたいからである。真緒は検査入院が終わってから、検査結果が出てすぐに再入院となったのだが、つまり病気は最悪の方向に転がってしまった。僕は学校帰りに毎日真緒の病室に足を運び、顔を出し、そして休日は一日中真緒の病室で過ごした。
「あ、テル。……真緒、テルが来たわよ」
「本当?」
閉じられた扉をノックして病室に入るなり、真緒のお姉さんの絵美さんが僕を捉え、ベッドで体を横にしていた真緒が声を弾ませた。
「じゃぁ、私はそろそろ帰ろうっかなぁ。テル、あとよろしくね」
「あ、はい」
微笑ましいと言わんばかりの綻んだ表情を僕に向けて、絵美さんは真緒の病室を出た。個室であるこの部屋は、あまり自然換気も勧められておらず、専ら機械換気だ。静かな病室を遠慮がちに小さく換気扇の音が響く。
真緒のベッドテーブルの上にはタブレットとスマートフォンが置かれており、ベッド脇のテレビが点いているのは見たことがない。時々僕が持ってきた学校の課題やノートもベッドテーブルに広げられているが、真緒の時間の大半は勉強と通信機器のようだ。
ただ、真緒に課題や授業のノートを届けるようになって学習の手を抜けなくなった僕の成績は皮肉にも向上した。高校三年のクラス編成で念願叶って真緒と同じクラスになれたのが、僕が真緒の勉強の面倒を見ることができる理由ではあるのに、まだ一度も教室で顔を合わせたことがないのは何とも悲しい。
「テル」
真緒が僕の名前を呼ぶとベッドに座ったまま両手を広げて僕に乞うのだが、これは真緒が入院してから毎日求められるもので、抱擁である。それを向けられると僕はいつも頬が綻んでしまい、真緒を優しく抱きしめて頭を撫でるのだ。
僕の胸の中で心地よさそうに頬ずりをする真緒は、検査結果が出て入院が決まってから僕に甘えることに遠慮がなくなった。常々真緒のために少しでも何かがしたいと思っている僕は、真緒にはっきりとした意思表示を向けられるのが嬉しく、真緒の要望には何でも応えようとしている。
ただこれは、悲しい行動でもある。それを二人ともわかっているから真緒は甘えることに遠慮がなくなり、僕は尽くすことに自己満足を感じる。つまりは、病気が最悪の方向に転がったことに対して、「今しかできないかもしれない」とか「今できるうちに」とか、心のどこかで悲しい現実を受け入れているが故である。
どうして真緒なのだろう。なんで真緒が完治見込みの極端に低い、そして治療が大変な病気と闘わなくてはいけないのだろう。入院の影響か、少し髪に艶もなくなったように思う。それでも真緒の綺麗な髪を僕の口元に感じながら、そして真緒の頭を撫でながら僕は理不尽な現実を恨んだ。
「今日も勉強教えてくれる?」
「うん、もちろん」
「えへへ、ありがとう」
実に嬉しそうな声を出す真緒は僕の胸からまだ離れようとはせず、それどころかより強く僕の背中に腕を回す。まさか僕が真緒に勉強を教える日が来るとは思っていなかった。今まではずっと教えてもらっていたのだから。だがこれは、生きることを前向きに捉えた最悪の場合に目を向けない僕達二人の抵抗である。
僕達二人の明日は来る。真緒はこんなにも元気なのだから。本心ではわかっている。僕の知らないところで辛い治療に耐え、僕には見せたことのない苦しい表情を真緒がどれほど浮かべているのかを。
だがそれを想像しても真緒の苦しみはわかってあげることも、ましてや代わってあげることもできない。それでも明日が積み重なれば真緒が言った「ずっと」は高齢になるまで続き、今の苦難を乗り越えた先に幸せが待っていると僕は前向きに真緒を励ます。
◇
「本当に心配したよ?」
か細い声でそう言う渚は眉をハの字にして、綺麗な瞳を潤ませている。自己嫌悪から衝動的に家を出て、結果渚に心配をかけ、そして気の利いた言葉も発せないというこの体たらくだ。僕はまだ高校生の渚にどれだけ甘えているのだろう。情けなくてやるせなくて今目の前にある真っ暗な海面に飛び込んで居なくなりたいとの思いまでもが駆け巡る。
「ここで生活してるうちは私と輝君は家族だよ?」
「そうだよね、ごめん」
「ずっと探したよ?」
「ごめん」
「臭うけど、お酒飲んでるの?」
「うん……。ごめん」
「私が嫌いになって家に居たくなかったの?」
「それは違うよ」
「私って鬱陶しい?」
そんなことを聞く渚の視線は僕には痛く、続けて「私ってお節介?」と聞く渚の声は幼気な少女を不安にさせたと自分が情けなくなる。疑いようもなく渚は、自分の何が原因で僕を追い込み衝動的な行動を取らせたのかを理解している。原因があるからと言って渚に非はなく、僕の行動がただ単純に幼稚なだけだということだ。
「私の気持ち、さすがに気づいてるよね?」
未だ尚、か細い声で言う渚から顔を背けたくなる質問であったが、その言葉にまで顔を背けられるはずもなく、苦しくも僕は渚を見据えた。
「だからって自分の気持ちを押し付けるつもりはないよ? だから迷惑なら言って」
迷惑……言葉を選ばないのであれば確かにそう言えるのかもしれない。しかしそんなことを言えるはずもなく、僕は思考がまとまらない頭の中で必死に返す言葉を探した。けれど僕より早く渚が言葉を続けるので、か細い声とは裏腹に渚には思うところがあるのだと読み取れる。
「もし迷惑じゃないなら、少しずつでもいいから輝君と距離を縮めたい。だから輝君のことを知りたい。なんでそんなに悲しそうな目をするの?」
ここでとうとう僕は顔を背け俯いてしまった。視界の上端に捉えた座ったままの渚は顔を正面に戻し、真っ暗な海に向いた。
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