第21話

 抱擁とか添い寝とか、なぜ毎度毎度僕は拒否をすることなく応えてしまうのだろう。後から冷静になって思い返すと、それ故の罪悪感に押し潰されそうだった。自分が雰囲気に流されて甘えていると思っていた。渚が覗かせる感情にも、じいちゃんが向ける期待にも、何もかもが鬱陶しくも感じ、反発したかった。だから僕は衝動的な行動を取ってしまった。


 頭ではわかっている。僕が臆病なだけなのだと。それでも四年経った今も尚その恐怖心は拭えず、僕の心を見えない殻で覆う。その殻は何人たりとも寄せ付けることを認めず、万が一破った相手がいたとするならば、より強固に修復し、その相手を跳ね除けてしまう。


 大学に入学して二年目の頃にも一度あった。高校時代に憔悴しきって、年数が経っても一向に調子が上向かない僕を気遣い、僕とは違う大学に進学していた環菜が女友達を紹介してくれた。しかし連絡先を交換してすぐ、これからと言う時に僕は携帯電話を機種変更し、電話番号を変え、SNSのアカウントも取り直した。

 親しい男友達には新しい連絡先は教えていた。すると弘志から僕の連絡先を聞いた環菜が電話を掛けてきた。それはとても悲しそうな声だった。あの時電話口から耳にした環菜の啜り泣く声は今でも耳にこびりついている。


――ごめんね。余計なことして本当ごめんね。テルにはまだ早かったね――


 環菜は悪くない。それなのに環菜はそう言って何度も何度も僕に謝罪の言葉を向けた。一番悪いのは前に進めないどころか、進むことを意図的に拒んでいる僕だ。環菜の謝罪は余計に僕が抱く罪悪感を募らせた。


 朝と昼に渚と心身ともに距離を詰めてしまったこの日、僕は夕食を終えると渚が風呂に入っている間に家を出た。しかし後に痛感する。それこそが最大の甘えだった。


 かろうじてというくらいの街灯がまばらにあるこの町の生活道路を、鈴虫やヒキガエルの鳴き声を耳にしながら歩を進める。港から届く潮風は夜も更けたこの時間、涼しくて心地いい。しかしその潮風は正に今情けないと自己嫌悪に陥る僕にとって残酷なものにしか感じない。


『あら、テル。よく来たね』

『おう、テル。飲んでけ』


 夜道を歩いて僕が行き着いた先は良平の実家。じいちゃんの家からは徒歩五分も掛からない距離で、僕は携帯電話すらも持たずに出て来ていた。そこで良平の両親が僕との再会を懐かしむように、最近やっと耳に馴染んできた方言で迎えてくれる。


「親父が入ったら朝まで飲むだろ? テルは俺の部屋で飲むから」

『なんだよ、つれねーな』


 息子が父親を拒む……そんな良平の家庭での会話を耳にして、僕は二階にある良平の自室へ通された。最後に良平と会ったのは中学生の時だが、その時僕は良平の家の中には入っていない。だから僕が知る良平の家は小学二年の時までで、その頃良平は自室をまだもらっていなかったと記憶している。

 その良平の自室はベッドに学習机に幾らかの本棚があって、壁にはプロ野球選手のポスターが貼られているのだが、高校生くらいの学習部屋の印象を受ける。つまりは大学進学と同時に東京に出た良平は、高校生の時の部屋をそのままに、実家を出たのだと想像ができる。


「飲むだろ?」

「うん。そのつもり」


 こういう気分の日は不思議なもので、人と関わりたくないと思うのに酒に加えて人に縋ってしまう。僕は良平が掴み上げた麦焼酎のボトルに心なしか胸を弾ませた。


 ◇


「え……、今、なんて……」


 その日の通院を終えて制服姿の真緒が僕の部屋に来たのは、夕方の六時を過ぎた頃だった。年も明けて今にも雪が降るのではないかと思わせるほど外は寒く、既に日も暮れてしまっている時間、真緒は床に正座をして折りたたんだコートを膝に乗せている。


「入院することになった」

「なんで? 体調は大丈夫だって……」


 毎日、毎日、鬱陶しいだろうと自覚しながらも、僕は真緒に体調を確認していた。真緒はいつもの柔らかい笑顔で「快調だよ」と答えてくれていたので、抱いている不安が増すことはずっとなかった。それなのに……。


「ここ一週間くらい本当は体調があんまり良くなくて……」

「え……。嘘吐いてたの?」

「ごめん……」


 頼ってもらえなかったことと無力な自分への悔しさから真緒を責めるように言ってしまったのだが、それは心配を掛けまいとしている真緒の気遣いだとなぜ理解できないのか。顔を伏せてしまった真緒を見て僕は、とにかく真緒を責めている場合ではないと自分を戒め、状況を確認する方に意識を切り替えた。


「どんな状態なの?」

「検査が必要だって。何もなければ三日で退院できるらしいけど、最悪の場合はしばらく入院みたい」

「そんな……」


 今まで通院治療などはあっても普通に私生活を送ってきた真緒だから、入院と聞くと最悪のことが頭に浮かび、僕を絶望感が襲う。


「テル……」


 一度顔を上げて僕の名前を口にする真緒の表情は今にも泣き出しそうで、いつもの気丈な様子はなく、不安を全面に押し出していた。僕は真緒を体ごと引き込むと強く抱きしめ、回した腕で真緒の肩を摩った。


「大丈夫、僕は離れない。毎日会いに行くから」

「うん、お願い。テルが来てくれるのを待ってるから」


 真緒の声は震えていた。真緒が抱く恐怖心は計り知れず、僕の腕に縋る真緒の手はギュッと力いっぱい僕の袖を握っていた。その手も震えているのが痛々しく、真緒の心中を思うと重圧に押し潰されそうで、呼吸が苦しくなる。そんな中、搾り出すように僕の胸の中で真緒が口を開いた。


「学校にも検査結果は報告しないといけないし、最悪の場合は環菜たちにももう黙ってられない」

「最悪の結果は絶対にないから」


 僕は真緒を励ますつもりで返したのだが、これは何の根拠もない言葉で、空しくも無音の僕の部屋で消えるだけだった。


 真緒の家族と僕以外、真緒の病気は誰も知らず、学校にすら詳しい症状は伏せてあると聞いている。真緒と同じクラスの淳がどれだけのとこまで察しているかは計り知れないが、それでも真緒のこの言葉からは最悪の場合への覚悟が読み取れ、もう隠し切れないのだと重くのしかかる。


 ◇


 頭に若干の浮遊感を漂わせて夜道を帰って来た僕は、玄関の引き戸を開ける前に時刻を確認しようと思ったのだが、携帯電話を置いて出てきたのだと思い出した。確か、良平の家を出る前に視界に入った部屋の時計は十一時を過ぎていた。もしかしたらもう十一時半を過ぎたくらいの時刻なのかもしれない。


 引き戸を開けると今まで聞こえていた虫の泣き声をかき消すように耳に届いたのはじいちゃんの鼾で、見渡す限り廊下は真っ暗である。居間に続く襖から光も漏れていない。酔いで回る頭を一度しっかりと保たせ目を凝らすと、洗面所や台所からも光が漏れている様子はなく、鼾の主以外一階にいないことがわかる。


 僕は靴を脱いでトイレに寄ってから二階に上がり、短い廊下を進んで現在の自室に入った。――瞬間、僕は再び廊下に出た。


 とっくに寝ていると思っていた渚だが、その隣の渚の部屋から常夜灯の明かりが廊下に漏れていないことに気づいた。酔いが回る頭をなんとか稼動し、通常を思い出してみる。確か渚は真っ暗では寝られないと言っていたことがあり、実際に部屋から常夜灯の明かりが廊下に漏れているのを確認したこともある。

 そこまで行き着いて僕は渚の部屋をノックした。


「渚? いる?」


 僕の声は短い廊下で反響するだけで、その声に返ってくるものはない。


「渚? 開けるよ?」


 渚が室内で眠っているかもしれない可能性も捨てきれない僕は、遠慮がちに渚の部屋の扉を開けた。するとそこに広がったのは真っ暗な部屋で、既に暗闇に目が慣れていた僕はそこに渚がいないことをすぐに理解した。

 はっとなった僕はすぐに一階へ下り、居間に放置してあった携帯電話を拾い上げた。そこには渚からの着信が一回とメッセージが残っていた。他にも淳から着信が残っていたが、今はそれどころではなく、焦りの原因は渚からのメッセージである。


――どこに行ったの? お願い、黙って出て行かないで――


 背中を冷たいものが駆け巡る。恐らく渚は僕を探して家を出てしまった。良平の実家かもしれないという心当たりはもしかしたらあったのかも知れないが、そもそも渚は良平の実家の場所を知らない。

 一気に酔いが醒めた僕は携帯電話を握り締めて再び家を出た。

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