【コミックス4巻発売記念】可愛い我が子



 その温かな重みをこの腕に再び抱けることがあろうとは。

 腕の中の赤子が小さな口で必死に乳を吸う様子を見て、千雲ちうんは思わず涙が込み上げてきた。

「やっぱりお乳だったのね」

 少し前までむずかって泣いていた赤子をどうしようかと皆でおろおろしていた。母親と引き離された所為だろうか、と憐れに思っていたのだが、乳に近づけてみると吸いついて泣き止んだので、ようやく人心地だ。

「お前には酷なことかも知れないけれど、しばらくその子に乳をやってくれるかい?」

 廟主の声にハッとして顔を上げる。赤子の様子に見入っていてすっかり忘れていた。

「酷なことなどと」

 大丈夫だ、と首を振るが、気遣ってくれる廟主の優しさが嬉しかった。


 千雲はふた月程前に我が子を亡くしたばかりだ。まだ乳が必要だった幼子である。

 大きな商家に後妻として入り、年の離れた夫とはそれなりに睦まじく暮らしていた。親子ほどに年齢が離れていたが、確かに愛し合っていたし、幸せだった。

 そんな夫との間に授かった娘も可愛くて、夫婦揃って目に入れても痛くない程に愛しんでいたのだが、その夫が半年前に亡くなってしまった。

 夫が亡くなると同時に、家は義弟と前妻の息子達に奪われてしまい、千雲と娘がほとんど着の身着のままで追い出されたのは、葬儀からたった半月ばかりが過ぎた頃のことだ。

 遺産はすべて取り上げられ、渡されたのもほんの少しの路銀程度。とにかく働いて糧を得なければ、と結婚前まで働いていた食堂を訪ねてみたが、人手は足りていると断られてしまった。申し訳なさそうにする女将の表情から、義弟達から手を回されていたのだと悟る。彼等は千雲の出自も気に入らなかったのだ。

 乳飲み子を抱えて働けるような環境に心当たりはなく、元々親族がなく孤児だった千雲は今後を頼る当ても一切なく、とにかく娘だけでも守らねば、と行き着いた先がこの御廟だった。


 心配そうな顔を向ける廟主を見て、千雲はゆっくりと首を振った。

「私の乳がまだ出てよかったです。喜んでこの子の乳母となりましょう」

 しばらくの放浪生活の間に弱ってしまっていた我が子は、軽い風邪にも耐えられず、あっという間に衰弱して亡くなってしまった。

 与える相手のいなくなった乳はそれでも枯れず、悲嘆の涙と共に幾度も零れ落ち、乳房をひどく痛ませていた。

 きっとこの子を待っていたのだわ、と千雲は思った。この子を満たす為に、自分の乳は枯れずにいたのだろう。


「この子の名はなんと?」

 つい先程、両親が預けに来たのを知っている。生まれてすぐに御廟の前に捨てられていたわけではないので、名前がある筈だ。

 施療院と孤児院も兼ねているこの御廟には、手許で育てられない事情があったりする子供が預けられたり、捨てられたりすることがよくある。この子もそういう子なのだ。

銀珠ぎんしゅ様……と、おっしゃるそうよ」

「銀珠」

 とても美しい響きの名だ。清潔に整えられた着物にも、まるくつややかな健康的な頬にも、両親からの愛情を感じられる。千雲の亡くなってしまった娘と同様に、とても大切にされていたのだろう。

「銀珠ちゃん……ふふっ。可愛いわねぇ」

 吸う力が弱いのか、亡くなった娘と違って飲むのに時間がかかる様子を愛しく見つめていると、また涙が溢れてきた。


 一歳になったばかりだった娘に比べるととても小さい。生まれてからふた月になるかならないかぐらいだろうか。

 着物に上等な布地が使われていることからも、困窮して預けに来たのでもなさそうだ。後頭部の歪みが少ないことからも、まめに向きを変えて、まだ柔らかい骨が歪に固まらないように手をかけていたのだとわかるし、大切にしていたのだろう。

「こんなに可愛い子を、手放さなければならないないなんて……」

 ご両親のお気持ちは如何ばかりだろうか、と涙を拭っていると、廟主が躊躇いがちに「それがね」と話を切り出す。

「不吉な託宣を授かった子らしいのよ」

「まあ……」


 このしゅん国に生まれた者は生後数日のうちに占者にせて、運命を予言してもらうことが多い。そうして我が子の多幸を願うのだ。

 大抵は「健康な働き者に育つだろう」とか「人々の助けになる賢き人になろう」など、よい言葉をかけられるものだが、稀に「病がちで苦難が待ち受ける」などと悲しいことを言われたりもする。

 もちろん、この生後託宣がすべてではない。言われた通りの人生を歩むとは限らないし、悪いことがすべて当たるわけでもない。ただの指針だとみんな思っている。

 けれど、貴族などになれば話は別だ。

 何人もの腕利きの占者に視せることもあり、生後託宣はかなり重要視されると聞く。それこそ、家の存続にも繋がるとか。


「この子は、どのような託宣を?」

 ようやく乳を飲み終わり、満足したようにとろんとした顔になったところを見つめながら尋ねると、廟主はなんとも気不味そうな顔つきになった。

「詳しくはお聞きしませんでしたが……国王様を害するような存在になると、そう言われたそうです」

 胸の奥に憐れみを感じながら、どのような事情でここに預けられたのかと問えば、なんとも恐ろしい答えが返ってきてしまった。思わず言葉を失う。

「国王様のご温情を賜り、この御廟で生涯を終えることを条件に処刑は免れたそうです」

「そうなのですね……」

 生まれながらにしてなんとも苛烈な運命を背負ってしまったものだ。すやすやと眠り始めた赤子を見つめながら、千雲はそっと顔を顰めた。


「でもね、どのような事情であろうとも、赤子は赤子でしょう? 健やかに育って欲しいと私は思うのですよ」

 重苦しくなってしまった空気を振り払うように、廟主は少し明るい声音で言った。

 その言葉に千雲も頷く。

「はい、確かにその通りです」

 思い返すのは亡くなってしまった我が子のことだ。あんなに幼いうちに亡くなってしまうなんて、母親である自分が悪かったのだ、とずっと責め続けていた。

「この御廟で、きちんと育てましょうね」

 そう言って廟主は微笑む。

 孤児院も兼ねているこの御廟には、当然他にも幼い子供が何人かいる。その子等と同じように育てていこう、と彼女は言っているのだ。不吉な託宣を授かっていようとも、子が宝であることには変わりない。

 唯一違うところは、孤児達と違って、この子は一生を御廟に仕えて過ごさなければいけないところだ。

 それでも、神仏の御許にお返しするよりはずっといい。


 千雲は抱いていた赤子をそっと降ろす。起きることなくすやすやと眠り続ける様子は、本当に可愛い。

「それでね。新しい名前を授けようと思うの」

「法名みたいなものですか?」

「というより、ご両親がお家とは関係ない者とすると仰られていたので、新しい名前を授けた方がいいかと思ったのよ」

 王命で捨てざるを得なかった娘とはこの先もう二度と会えないと覚悟をして、亡くなった者と思うことにしたのだそうだ。

 そんな両親の覚悟を冷たいものだと千雲は思ったが、二人ともすっかりと憔悴して大変に痛ましい様子だったそうなので、彼等も苦渋の決断だったのだろうと理解した。

「あなたが名前をつけておあげなさい」

「えっ!? そういったことは、廟主様の方が相応しいかと……」

 千雲はただでさえ学がない。富裕な商家の奥方に納まりはしたが、簡単な読み書きが出来る程度だった。そんな自分に名付けなど出来よう筈もなく、亡き娘には夫が可愛らしい名前をつけてくれた。


 すっかりおろおろする千雲に、廟主は優しい眼差しを向けてくれている。名前を付けるのを待っているようだ。

 どうしよう、と千雲は考える。

 銀珠という素敵な名前をつけられていた赤子――そんな子に、自分のような学のない者が新しい名前を付けてもいいものだろうか。

 悩んで、躊躇って、まだ悩んで。心優しい廟主に見守られながら、千雲は必死に考えた。

 そうして、ようやくひとつの名前を思いついたのだった。





小花しょうか

 姿の見えなくなった幼子の名を大きな声で呼べば、何処からか「はぁい」と元気な返事が返ってくる。それからいくらもしなうちに、ぱたぱたと跳ねるような軽い駆け足の音が聞こえてきた。

「はたけのくさむしり、してたよ」

 顔を真っ赤にして駆け戻って来た幼子は、どっこいしょ、と雑草でいっぱいにした籠を重たそうに降ろした。

「あら、こんなに……。頑張ったわね」

 この小さな手では小一時間で済むような量ではない。感心して頭を撫でてやれば、照れ臭そうに、けれど誇らしげな笑みを浮かべて頷いた。

「とても偉いけど、ちゃんと笠を被りなさい。もうすっかり暑いんだから」

 まだ真夏ではないとはいえ、外に長い時間いればかなり暑い。陽射しに当たり過ぎるのは身体に毒だ。

「さあ、お水を飲んで、お部屋に入って少し休みなさい」

「はぁい」


 元気よく駆けて行く姿はまだまだ小さく幼いが、もうお乳は必要ない。可愛らしい丸みを帯びた足でしっかりと立って走り回り、ぷくぷくと小さな手でお手伝いも一生懸命にする。

「千雲は小花贔屓だ」

 あまりにもあれこれ心配したり小言を言ったりするので、神女しんめ仲間達からはそう言って揶揄われるが、千雲は小花のことが殊更に可愛くて心配で仕方がないのだ。自分の乳を含ませて育てた所為もあるのだろう。

 怪我をしないか、病気をしないか。人様に迷惑をかけたりしないか、他の子供達と喧嘩をしたりしないか、そんなことばかりが気にかかって仕方がない。


「いい子に育ったこと」

 井戸端にいた神女に水を汲んでもらい、真っ赤になった顔を洗っている小花の姿に目を細めていると、傍らに来た廟主が同じように目を細めながら呟いた。ええ、と千雲は頷く。

 野に咲く名もなき花のように、小さく可愛らしくも逞しく育って欲しい――そんな願いから小花と名づけた。その願いの通りにすくすくと健康に育ってくれている様子が、千雲は堪らなく嬉しかった。

「お前の育て方がよかったんだね」

「まあ。そんなことはございませんよ。あの子を育てたのは、ここに暮らす皆ですもの」

 この御廟に暮らす神女達も千雲と同様に、まっすぐにすくすくと育っていく小花の成長を見守ってくれている。小さな小さな小花は、御廟のみんなの『我が子』だった。

 神女達の中には望んで修行に身を投じた者もいれば、千雲のように家族を失って身を寄せた者もいる。数年前に少し深刻な飢饉があった所為か、愛する我が子を失った者も多かったのだ。

 だからこそ、小花の成長をみんなが喜んでいた。


 きゃはは、と楽しげに笑う小花の声が聞こえてくる。一緒にいた神女が水をかけてやったようだ。暑い中にいたので冷たい水は気持ちがいいのだろう。

 その生涯をこの御廟の中で終えることを課せられていても、このまま健やかに、いつも笑顔で過ごして欲しい。そして、叶うことならば、ずっと自分といて欲しい――千雲はそんな願いを抱いていた。


 けれど、そんなささやかな願いすらも叶わず、小花は十一になった年に連れ去られてしまった。


 千雲にとっては、我が子を二度も失ったような衝撃だった。

 苦しくてつらくて、悲しくて悔しくて。声を張り上げて呼び止めても停まらず、どんどん遠ざかって行く馬車と、そこから小さく聞こえてくる「出して!」という小花の悲鳴に絶望が押し寄せてきた。

 取り返そうと伸ばした手は空しく宙を掻き、千雲の無力さを嘲笑うかのようだった。


 突然の出来事に、千雲以外も茫然としていた。

 走り去る馬車を相手にどうすることも出来なくて、遠くに消えて行く砂煙をただただ眺めることしか出来なかった。

 いったいなにがどうして、あの小さな子が連れて行かれなければならなかったのだろうか。あの子を連れ去った男達は、本当に国王の遣いだったのだろうか。

 あまりにも突然すぎた別れに言葉もなく、見送ることしか出来なかった。


 躓いた姿勢のまま泣き崩れていた千雲の肩を誰かが叩き、そのまま抱え起こす。ぼんやりと振り返れば、それは廟主の手だった。

「しゃんとしなさい」

 穏やかながらも厳しい声音で叱咤すると、手を掴んで無理矢理立たせる。されるがままになった千雲はその場に立つが、涙は止まらない。

「小花は元々、神仏の御許へお返しされるところだった子です。それを許され、生き永らえました。そして、千雲のお陰であんなにも素直で優しく、健やかに育った」

 そんなことはわかっている。その優しく健やかな働き者の子が、連れ去られてしまったのだ。

「あの子は強運の持ち主なのです」

 泣き止まない千雲に言い聞かせるように廟主は言った。

 その声に他の者達も顔を上げ、一様に廟主の方へ視線を向ける。

「豪運と言ってもいいかも知れません。それぐらいの子です」

 視線を向けられたことに気づいた廟主は、皆に言い聞かせるように続けた。


「心配しなくても大丈夫です。小花はきっと、その運の強さで生き延びます。そうに決まっています」

 力強く響いたその言葉に、千雲は少しだけ安堵を得て肩の力を抜いた。

 小柄な廟主はいつも穏やかでおっとりと優しい。けれど、その声にはいつも強い力が宿っている。特にこういう風になにかを言い聞かせるようなときは、彼女の言葉こそが正しいのだと信じさせてくれるようななにかが在る。

 ようやく涙の止まった千雲の顔を覗き込み、廟主はいつもの穏やかな笑みを浮かべた。

「私達の大切な子の運命に、少しでも力を添えられるように、無事を祈りましょう。きっと祈りは届く筈です」

「はい」



 国王との婚儀が執り行われたという話を伝え聞いたときも、離宮に追いやられて不遇に際していると噂を聞いたときも、千雲は祈り続けた。

「どうか私達の子が、今日も健やかでありますように」

 幼い御子達を呪い殺しているなどという恐ろしい噂を聞いたときには、無実を信じて更に祈りを捧げた。

「あの心優しい子がそんな恐ろしいことをするとは思えません。そんなことは決して致しません。正しき目がお救いくださいますように」

 離宮から王宮に戻ったという噂を聞いたときも、少しでも平穏が得られるように祈った。

 どんなに小さな噂話でも耳にすれば、健やかであれ、正しくあれ、と心から祈り、願い続けてきた。

 もちろん、王都で反乱が起きたと聞いたときも――


「どうか、どうか。私達の可愛い子が、今日も無事でありますように」




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雪花妃伝~藍帝後宮始末記~ 都月きく音 @kikumine

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