【コミックス3巻発売記念】総領姫の矜持



 秋晴れの空の下、少年の泣き声が響き渡った。

「ぅわあああああぁぁぁっ! 痛い! 痛いよぉぉぉっ! ははうえぇ――――!!」

 あまりにも情けないその泣き声を聞き、芳蘭ほうらんはうんざりと顔を顰めた。


 半年ばかりの差はあるが、こいつは確か同じ年だった筈だ。つまり、芳蘭と同じ十二歳になっている筈なのだ。

 十二歳ともなれば、ほとんど大人として扱われる年頃だ。まだ元服前であろうとも、男子なら大抵の場合は父親に従って見習い仕事を始め、女子は縁談などが寄せられ始めて嫁入り支度に着手する頃である。

 それなのに、こんな五つや六つの幼児のような泣き方をして、恥ずかしくないのだろうか。対峙しているだけである芳蘭はとても恥ずかしい。


「どうしたの、宝昌ほうしょう!?」

 その情けない泣き声を聞きつけ、母上こと芙蓉ふようが走り出て来た。

 普段は『常に優雅におっとりと構え、嫋やかに麗しく振る舞うのが女性というもの』と尤もらしく訓示を垂れているくせに、裾を蹴立ててドタバタと騒々しい足音と共にやって来るのが滑稽だった。

「母上ぇ……うっ、うっ、痛いよぉ、母上ぇ~」

「痛いの? 何処が? ……んまぁ! 赤くなってるじゃないの!?」

 既に腫れ上がり始めている宝昌の手首を見て、芙蓉は金切り声を上げる。常に優雅におっとりと、の心得は何処に行ったのだ。


 そんな親子のやり取りをうんざりと見ていた芳蘭を、芙蓉は顔を真っ赤にして睨みつけてきた。

「芳蘭さんッ!!」

「はい、叔母上」

 耳に痛い金切り声に辟易しながら、無表情のままに涼しい声で答えてやると、それは余計に怒りを煽ってしまったらしい。人間の顔というのはこれほどまでに歪むのかと驚くほどに、芙蓉は眉と目を吊り上げ、口角は下がって歯を剥いていた。

「あなた、いったいどういうおつもりなの!? 宝昌にこんなことをして!!」

 甲高い怒鳴り声は本当に耳に痛い。鼓膜が破れそうだ。

「お言葉ですが、叔母上。突っかかってきたのは宝昌殿ですし、この勝負を持ちかけてきたのも宝昌殿です。怪我をするなどご自身の鍛錬不足の結果なのでは?」

 芳蘭はうんざりとした気持ちを腹の奥に隠し、淡々と言葉を紡いだ。その態度がまた芙蓉の怒りの炎に油を流し込む行為だとわかりながらも。


 案の定、芙蓉はこれ以上ないぐらいに顔を真っ赤にして目を吊り上げる。あれ以上に眦が吊り上がることに驚いた。

「芳蘭さん! あなっ、あなたっ! あなたねええぇぇっ!」

 怒りのあまり言葉が続かなくなったようだ。

 こんなところで芳蘭を怒鳴りまわしてないで、可愛い可愛い息子ちゃまをさっさと医者に見せてやればいいのに。

 幼稚に泣き叫んでいた宝昌も、母親の裳裾の陰でニタニタしているとは随分と余裕だ。本当はたいして痛くないのではないだろうか。


「だいたいその格好はなんなのです!? 女が脚を見せるなんてはしたない!」

 言われ、芳蘭は自分の足元を見下ろす。長い裾が邪魔だったからたくし上げて縛り、膝が見える程度の長さになっている。

「小言なら宝昌殿に言ってください。我は着替えて参ると申し上げたのに、聞き入れてくださらなかったのはそちらだ。――宝昌殿」

 淡々とこの姿の経緯を説明し、また金切り声を上げそうになった芙蓉を無視して宝昌を呼んだ。

「な、なんだよ!?」

「これに懲りたら、もう我に突っかかって来るのは止せ。次は加減などせぬ」

「な……っ!? な、な、なん……!?」

 これは返す、と持っていた棒を放り投げる。足下に転がってきたそれに、宝昌は「ひっ」と悲鳴を上げて身を竦ませた。

「其方もこれ以上の恥の上塗りは望むまい?」

 そう告げ、周囲でおろおろとしている少年達の姿を見遣る。彼等は宝昌の友人――家柄に釣られた取り巻きと、お供を申しつけられている家人の子供達だ。

(くだらない)

 縛り上げていた裾を解いて直し、芳蘭はその場を立ち去った。

 芙蓉がなにか叫んでいるようだったが、足を止めてやってもこちらになにも益はない。無視してしまっても問題などあるまい。


 自室にと宛がわれている離れに戻ると、日中の定位置である窓辺の椅子へと腰かける。

 出歩く為に簡単に結い上げていた髪を解き、手足を軽く伸ばして息を吐き出すと、椅子の周囲に山積させている書物の内の一冊を手に取って開いた。

「お戻りですか、お嬢様?」

 何処まで読んだのだったか、と頁を捲っていると、奥の方から侍女の小瑩しょうえいに声をかけられた。視線を向ければ、水桶を抱えてこちらを覗き込んでいる姿が見える。

「今戻ったところだ」

「お怪我などはございませんか?」

「ああ。問題ない」

「ようございましたわ」

 なんともないように手を振って見せる芳蘭の様子に、小瑩は明らかにホッとした様子を見せる。それに芳蘭も笑みを浮かべて応じた。


 水桶は汗や汚れを拭く為に用意して来てくれたらしい。せっかくなので使わせてもらうが、拭き物が必要になるほどに汗も掻いていなければ汚れてもいない。

「宝昌坊ちゃまにも困ったものですね」

 軽く首筋を拭って戻した手巾を受け取りながら、小瑩は大袈裟な溜め息をついた。

「そうだな。鍛錬も受けていない女に簡単に打ち据えられるのだから。あれでは決して武官にはなれぬであろうな」

 苦笑しながら芳蘭が応じるが、途端に小瑩は変な顔になった。どうしたのだろうか。

「私は、あの泣き声のことを言ったつもりだったのですが……」

 内心で首を傾げた芳蘭に、小瑩は呆れた声で呟いた。

「そんなことをなさって来たんですか、お嬢様? 私はまた、駆けっこかなにかの勝負を申し込まれたのだと思っていましたよ」

「仕方がなかろう。あれが絡んで来て鬱陶しかったのだ」

 芳蘭だって好き好んで棒を振り回して従兄弟を打ち倒したわけではない。あちらから槍術訓練用の棒を持って来て、やれと言うからやってやっただけだ。


 あの情けなくも阿呆な従兄弟と共に暮らすようになって、もうすぐ一年が経とうかという頃合いだが、日に日に幼稚具合に拍車がかかって行っているような気がする。生まれたのはあちらが半年ほど遅いといっても同じ年なのに、あれは本当に恥ずかしい。

 同年故か、なにかと張り合ってくる。あれそれが出来るか、どれそれが出来るか、と挑発的に言ってくるのだが、そのすべてが芳蘭よりも出来が悪いのだからどうしようもない。

 これでもしも芳蘭が同性だったとしたら、いったいどうしていたのだろうか。

(――…いや……)

 そこまで考えて軽く首を振り、もう一度本を手に取った。

(我が男子おのこであったなら、疾うに儚くなっていたであろうな……)

 女だから生かされたのだろうと思う。女は政略の駒として使い道があるからだ。


「芳蘭お嬢様、宝広ほうこう様がお呼びだそうです」

 本を読む手を止めたまま物思いに耽っていると、小瑩が苦々しげな声で告げて来た。顔を上げつつ彼女の背後の戸口を見遣れば、芙蓉の侍女が立っている。

「……すぐに伺うゆえ、そこな者には引き取ってもらえ。髪結いを頼む」

 簪を挿したりすると首が重くて本が読みづらいので、普段は下ろしたままにしているが、人と会うのにそのなりではさすがに礼を欠く。小瑩に手早く結い上げてもらい、飾り紐と小さめの簪でまとめてもらった。

 面倒事が待ち構えているのは容易に想像がつくが、相手は一応今この家を預かっている男だ。家人達のことを思えば、あまり愚かな真似をするのは得策ではない。


 母屋の、嘗ては芳蘭の父の居室であった部屋の前に辿り着くと、先程離れまで呼びに来ていた芙蓉の侍女が待ち構えていた。

 侮蔑的な視線を投げかけてくる生意気な中年女へ一瞥を向けることもなく、顎先を軽く振って扉を示し、中への取り次ぎをさせる。侍女は一瞬顔を顰めたが、仕事が出来る人間ならばなにも言われずとも意を汲むのが常なので、不満そうな顔つきで扉を開けた。


 中には部屋の主である宝広と、鼻息の荒い芙蓉の姿があった。

「お呼びと伺ったが」

「おぉ、芳蘭。離れから足を運ばせてすまなんだな。まあ、座っておくれ」

 示された宝広の対面の椅子に腰を下ろせば、それを待ち構えていたかのように芙蓉が声を上げる。

「旦那様、この芳蘭さんはなんとも残忍で恐ろしい娘ですわ! 宝昌の腕を折りましたのよ、腕を!」

 芳蘭が来るより前にその説明は終わっているだろうに、わざわざもう一度口にして詰り、それを聞かされている宝広も「なるほどな」などと尤もらしく頷いている。


「……と、妻は言っておるのだが。これに関してなにか言うことはあるかね、芳蘭?」

 申し開きでもしてみせろということなのだろうが、生憎と、芳蘭にそのようなことをしてやるつもりは一切ない。

 骨が折れていたのは可哀想だとは思うが、それも自業自得だ。己が優位に立てる勝負を仕掛けて来て負けているのだから、ただの間抜けである。

「宝昌殿は、もう少し真面目に鍛錬を積まれるがよろしいかと」

「ほう?」

「なんですって!?」

 抑揚を欠いた調子で淡々と発せられた芳蘭の言葉に、宝広が意外そうに片眉を上げるのと、芙蓉が金切り声を上げるのは同時だった。

「事実を申し上げただけだ」

「そういうことではないでしょう、芳蘭さん! ここは、あなた、謝るべき場でしょうが!」

「我が怪我を負わせた宝昌殿に謝罪をするのならばまだわかるが、何故なにゆえ叔母上に謝罪せねばならぬのです?」

 怪我をした原因はすべて宝昌自身にあるようなものなので、負い目など一切ない芳蘭は謝るつもりなど毛頭ないが、物凄く譲歩して謝罪をするにしても、その相手は宝昌であるべきだ。金切り声を上げているだけの芙蓉には関係がない。


「あたくしは母親ですもの! 黄家の大切なに怪我を負わせてしまい、申し訳ございませんでしたと、素直にそう仰い! 居候のくせに!」

「総領息子?」

 その呼称を聞き咎めた芳蘭の目つきが険を帯びる。

「芙蓉、お前はもう下がっていなさい。これでは話が進まぬ」

 芳蘭の気配が変わったことに気づいた宝広は即座に妻を止める。

 そんな制止が気に食わない芙蓉はすぐに文句を言うが、宝広はそれには一切取り合わず、表の侍女へと声をかけ、不満気な芙蓉を自室へ下がらせた。


 二人きりになった室内で、芳蘭は対面の叔父を静かに見つめた。

「細君に事実を話しておられぬのか。それとも、あのような勘違いを産む話をされておるのか」

「芳蘭、これは……」

「もしくは、叔父上ご自身が勘違いされておるのか」

 ピリッと張り詰めた刺すような気配に、宝広は静かに息を呑んだ。

 まだ十二の少女に気圧される。目上だろうが年長であろうが、不届き者は誅する気概を持っているのだから、生来卑屈で小心者な宝広には耐え得る胆力が足りなかった。

「黄家は、嫡出長子相続が原則。成人前に当主が身罷れば、縁戚より当主代理を立てるものとする」

 目線をうろうろとさせている宝広へ向かい、芳蘭はぴしゃりと言い放つ。

「其方は我が婿を取り、家督を継ぐまでの当主代理にすぎぬ。都合よくお忘れになられたか?」

 父母が身罷り、家政を管理する成人として叔父一家が移り住んで来ようとも、芳蘭がこの家の次期当主であることには変わりない。居候なのは叔父達――家内のことをなにもしていない宝昌の方なのだ。


 黄家は芳蘭の曽祖父に当たる人物が創設した王家傍流の家柄だ。病弱ゆえに面倒な王位争いになど巻き込まれたくなかった曽祖父は、十二の年に父王に申し出て王族としての籍を返上し、かくの姓も捨て、領地だけは王族直轄地の一部を割譲して得たそうだが、一貴族として家を構えたのだ。

 王宮に変事があり、他に候補がいなければ王位に就くこともあるだろうが、基本的には「権力を有さぬこと」を信条とした家柄である。

 男はすぐに権力を欲する――それが曽祖父の持論だったそうだ。王位争いから遠ざかる為に創設した家なのだから、王家の脅威になるような一族ではいけない。脅威にならぬ為には、宮廷での発言権などは弱める必要がある。それならば、まつりごとへの参加を容認されない女性が当主になればよい。故に、女が当主に就くことも想定しての家訓だ。


「宝昌殿は、次期当主とはならぬ。蔭位おんいで官吏にはなれるであろうが、あの勉強嫌いぶりでは文官は到底無理であろうし、初めて武器を手にした女子に簡単に打ち据えられて泣き叫ぶようでは武官も無理であろう」

 官吏になる為には、本来ならば科挙という大変に難関の試験を受けなければならない。しかし、高位貴族には蔭位と呼ばれる制度があり、試験を受けずとも官吏として宮廷に出入り出来るようになるものなので、あの宝昌でさえも、出仕する年齢となればなにもせずとも役職を得ることは可能なのだ。

 けれど、その先はない。勉強嫌いで地頭もたいして利発ではないので文官仕事は向かないし、専属の師がついて鍛錬している筈なのに芳蘭に泣かされる程度の実力で、武官も無理だろうと思われた。ちょっとした努力も好まないようなので、早晩頭打ちになるのは目に見えている。

「己が子息が可愛ければ、甘やかすのではなく、厳しく躾けるべきだな」

 慈悲の心でそう忠告してやると、話を一方的に打ち切って立ち上がる。そのまま踵を返しても、宝広はなにも言わなかった。



 その一件から数年――卑屈で小心者であると同時に姑息で小狡い宝広は、コソコソと実に上手く立ち回り、芳蘭の縁談をまとめて来た。

 正当な跡取りである芳蘭を合法的に追い出してしまう為に、婿取りではなく、断ることの出来ない嫁入りの算段を整えて来たのである。



「――…やってくれたな、叔父上」

 芳蘭の嫁ぎ先は、後宮――異母兄達が王位簒奪を狙って起こした内乱を収めたばかりの若き王・藍叡らんえいの側室という立場だった。

 縁談相手の吊り書きと称して届けられた書状を握り潰し、芳蘭はギリギリと奥歯を噛み締めた。

 権力に固執した無能だと思っていたが、一族から側室を出す程度の根回しと立ち回りは出来たらしい。真実無能であればよかったのに、よくもまあ、こんな余計な才能を隠し持っていたものだ。

 床に叩きつけられた書状を拾い上げながら、小瑩が心配そうに芳蘭を見上げる。

「お嬢様……」

「わかっておる。皆まで言うな、小瑩」

 憎々しげな声で呟かれた言葉に、芳蘭の怒りと無念さが溢れている。


 この縁談は打診ではない。既に決定事項として日取りが定められ、過不足なく支度を整えるように、という状況だった。つまり、本来ならば今から半年は前に、前段階である打診があった筈なのだ。その時点まででしか断ることは出来ない。

 叔父が諾と応じたのか、もしくはこちらから持ち込んだのか。どちらかはわからないが、当主代理の権限を最大限に活用して決定させたのは間違いない。

 こういう横暴なことがあるから、曽祖父は男は権力を欲しがると判じていたのだろう。


 怒りにはらわたが煮え繰り返る心地でいると、芙蓉からの呼び出しがあった。

 芳蘭を毛嫌いしているのに珍しい、と思うが、後宮入りの話がまとまったので宝広から報告でも受けたのだろう。そして、一応は母代わりとして、嫁入り支度を整える采配を振るうつもりなのであろうと思われた。

 嬉々として待ち構えているのであろうな、とうんざりしながら芙蓉の部屋へ出向けば、想像通りに喜色満面の笑顔で出迎えられた。

「まあまあ。芳蘭さん! この度は本当におめでたいことですわね。心よりお慶び申し上げますわ」

 あまりにも想像通り過ぎる態度に思わず閉口する。もう少し取り繕って見せたらどうなのだろうか。

「お衣裳とお道具とね、大急ぎで用意しなければなりませんわね。なんといっても、この黄家の姫が嫁ぐのですから。ねい家の娘になど負けぬよう、美しく立派で質のよいものを取り揃えませんとねぇ」

(……あぁ、そうか。行き先は後宮なのだったな)

 弾む芙蓉の言葉から拾った名に、藍叡にはまだ正室はいないが、既に一人側室がいることを思い出した。

 幼い頃より婿取りをするつもりでいたので、他の女と夫を共有する立場になろうとは想像だにしていなかった。

(面倒が起きなければよいがな……)

 ひっそりと案じたその危惧は、数日後に、別の形で降りかかってきた。


 嘗てないほどに現状にうんざりとしていた芳蘭が想定外の面倒事に遭遇したのは、縁談を聞いてから三日程経った晩のことだった。

 元来眠りは浅い方だし、起きている時間は読書に費やしたいので短めである。だいたいが日付が変わって少しした頃に床に就き、日が昇り始めた頃に起床する生活だった。

 珍しくいつもより少し早めに床に入ったこの晩も、寝入ったか寝入らないかという日付が変わる頃に、本来ならある筈のない人の気配を感じ、はっきり目を覚ました。

 寝ている間にこっそり小用を済ませようという小瑩か使用人か、はたまた物盗りか。

 たとえ物盗りであろうとも、金品をさっと持ち去る程度ならば見逃してやる。あまり気に入りのものを持たない芳蘭にとっては、宝飾品などを盗まれても気にはならないし、唯一大事にしている母の形見の品々は、芙蓉に取られるのを是とせず厳重過ぎるほど厳重に保管してある。

 それでも念の為、枕の陰に忍ばせている短剣を握り締めた。


 侵入者は足音を忍ばせてはいるが、興奮か緊張をしているのか、はあはあふうふうと荒い息遣いが漏れている。

 それが寝台のすぐ傍にまでやって来た。――狙いは金品ではなく、芳蘭だったようだ。

 寝台が軋んだ瞬間、芳蘭は短剣を引き抜いて飛び起きる。

「何奴か!」

「うわぁっ!!」

 侵入者は悲鳴を上げて寝台から転げ落ちた。

 その声には聞き覚えがある。芳蘭は剣先を転げ落ちた人物に向けたまま顔を顰めた。

「宝昌殿?」

 無様にひっくり返っているのは、最近あまり顔を合わせなくなっていた従兄弟だった。


「人を訪ねるにはあまりにも不適切な刻限であるぞ。そのようなこともわからぬのか」

 呆れた、と呟きながら燭台に火を点ける。照らし出された宝昌の顔は、屈辱に歪んでいるようにも見えるが、そんなことはどうでもいい。問題は、その手が掴んでいるものだ。

 床についている宝昌の手には縄が握られているように見える。それをいったいどうするつもりだったのか、と芳蘭は目を眇めた。


 咎められている宝昌は、ふん、と鼻を鳴らすと、性根のいやらしさを感じる笑みをにたりと浮かべる。

「後宮入りが決まったそうだな」

「……そのようだな」

「お前みたいな生意気な女が嫁になるなんて、主上も可哀想だよなぁ」

 生意気かどうかは知らないが、小賢しくて可愛げがないとは自分でも思っている。確かにつまらない妻となるだろう。

 だが、藍叡王は寡黙ではあるが果敢であり、文武に秀でて勤勉な人柄であると聞いている。この宝昌とは正反対の人格者であり、それだけで芳蘭は好もしくは感じていた。想定外に嫁ぐことが決まってしまったが、妻として心を込めて尽くすことに否やはない。

「我が主上の許へ行くとわかっていて、斯様な刻限に忍び込んで来たのか? それがどういうことになるかわかっていてやったのか? それともわからずにやっているのか?」

 わからないのならば馬鹿だし、わかっていてやっているなら更に馬鹿だ。軽率に過ぎる。

「うっ、……うるせぇ!!」

 叫んだかと思うと飛びかかって来た。


 芳蘭も既に身構えていて応戦しようとしたが、さすがに十六にもなると体格でも腕力でも男子には勝てない。揉み合いの末に寝台に押さえつけられた。

「……どうするつもりだ」

 息を荒くしながら尋ねると、同じく息を荒くしている宝昌がにたりと笑みを浮かべた。

「主上の妃になるのだから、生娘なのが条件だろう?」

「だから?」

「お前を犯して、その条件を違えさせてやる。他人の手垢つきの女に、主上はどうされるかな」

 にやにやと下卑た笑みを浮かべる宝昌の告げた計画に、芳蘭は心底呆れ果てた。こいつは真正の知恵足らずだったらしい。

 そんなことになれば芳蘭が処罰されるだけではなく、家にも罰が及ぶとは考えも出来ないのだろうか。ここまで愚か者だとは思わなかった。


 そして、この大馬鹿者は並行してなにかをすることが出来ないのか、本当に知恵が回らないらしく、間抜けにも芳蘭を掴んでいる手を緩めた。恐らく、先程手に持っていた縄で芳蘭を拘束しようとでもしていたのだろうが、片手を離した上に身体まで起こして体重をかけるのをやめてしまったので、押さえつけている意味をなさなくなった。

 そもそも芳蘭の手にしていた短剣を取り上げることもしていない。間抜けが過ぎる。

 さっと短剣を握り直し、宝昌の太腿へと突き刺した。うっかり致命傷になりそうな腹を刺さないでやったのは慈悲ではなく、ただ単に、こんな阿呆の為に殺人者になりたくなかっただけだ。

「うっ、……あっ!? い、痛ぇ!!」

 一拍遅れて刺されたことに気づいた宝昌は、その場にひっくり返った。その弾みで短剣が抜け、再び襲った痛みにまた「痛ぇ!」と悲鳴を上げている。

 芳蘭はそこをすぐさま蹴り飛ばした。股間を狙ってやったので相当の痛みがあったようだ。

 耳障りな汚い苦鳴を漏らしている宝昌の腕を、彼が持ち込んでいた縄で縛り上げ、足早に部屋を出た。

 向かった先は叔父の居室だ。


 声もかけずに扉を乱暴に開け放つと、寝台に入っていた宝広はお楽しみの最中だった。相手は芙蓉ではなく、彼女の侍女だったが。

「な……っ!? ほっ、芳蘭!?」

 寝台の上の二人が慌てて離れ、着物を整えようとしている様子を一瞥しながらも、気にせずに芳蘭は口を開いた。

「我の部屋に賊が入った」

 淡々と告げられたその言葉に、宝広はさっと顔色を変える。そして、芳蘭が血に濡れた短剣を握り、白い夜着には返り血が散っていることに気づいた。

「それは賊の血かね? お前にはなにもなかったのかい?」

 慌てて帯を縛りながら駆け寄って来た叔父の表情は、本気で芳蘭の身を案じているように見える。それがまた腹立たしかった。


「我は何事もない。……が、あの不届き者を処罰したい」

「そうだね。それはもっともだ。今、誰か呼んで……」

「呼ぶ必要はない」

 捕縛か連行の為に家人を起こそうとする宝広を止め、共に部屋に来るように告げた。宝広はおおいに不満そうな顔をしている。

「他人に知られぬ方がよいと思う。叔父上だけ共に来られよ」

 芳蘭が手傷を負わせているとしても、賊を捕らえるのならば人手がいるだろう、と本気で思っているらしく、宝広は怪訝そうな顔で「どういうことだね」と言うが、無視して歩き出した。


 足早に自室へと戻った芳蘭は、宝昌がまだ蹲って悶えているのを一瞥したあと、小走りでついて来た叔父を振り返った。

「ほれ。他人に知られぬ方がよかったであろう?」

 室内を見た宝広は、まさに愕然としていた。

「そんな……! 宝昌? お前、いったいなにを……っ」

「主上の許へ、己の手垢をつけた女を送り込み、処罰させたかったそうだ」

 悶絶している宝昌に代わり、芳蘭は淡々と答えた。宝広は薄暗い中でもわかるぐらいに血の気の引いた顔で振り返る。

「甘やかすのではなく、厳しく躾けるのが宝昌殿の為だと申し上げた筈だが、結局はこれか」

「ほ、芳蘭……こ、これは、……これは、なにかの、ま、間違い、では……」

「ほう? 面白いことを申される」

 昏い笑みに口許を歪めた芳蘭は、蹲った宝昌の背を踏みつけた。

「こんな時刻に、ここに宝昌殿がいる――これにどのような間違いがあると? 間違って、己の居室と反対方向の我の部屋へ入ったとでも?」

 道に迷うほどの不慣れな敷地内でもなく、酔っている様子もないのでそんな言い訳は通用しない。誰が見ようとも、宝昌が自らの意思で、非常識な時間帯に従姉妹の部屋に押し入って返り討ちにされた状況としか思われないだろう。

 小狡い宝広も、なんの言い訳も思いつかないらしい。握り締めた拳がぶるぶると震え、言葉を紡ぐことのない唇も戦慄き、顔は青褪めている。


「のう、叔父上」

 そんな宝広の元へ、芳蘭はゆっくりと歩み寄る。

「我の提示する条件を呑めば、此度のことは不問にし、隠蔽にも協力しよう」

 静かに告げられた提案に宝広はハッと顔を上げる。淀んだ瞳の中に、僅かな希望へ縋りつく様が見えた。


「我が家を出るまでの間に、暁辛ぎょうしん殿を当主として迎え入れよ」


 暁辛は曽祖父を同じくする又従兄弟であり、芳蘭の婿候補として最有力とされていた人物だ。

 父も生前に、口約束ではあったが婿入りの話をしていたらしい。その約束を守ってかどうかはわからないが、暁辛は二十六になる今もまだ独身でいる。

 五年前、彼が遠方への配属辞令を受けずに地元にいれば、叔父夫婦が乗り込んで来ることはなく、当主代理は将来の婿である彼が引き受け、芳蘭が十五、六になる頃に結婚することになっていたかと思う。父が亡くなった時期が悪かったのだ。


 言葉を失って双眸を見開いている宝広に、芳蘭は更に言う。

「今宵のこと、そして、其方が我が父にを公表されたくなくば、これを受け入れよ」

 宝広は短い悲鳴を喉の奥で凍りつかせると、驚愕というよりも恐怖に打ち震えた。

 怪物を見るかのように芳蘭を見上げる。

「知らぬとでも思うていたか?」

 そんな宝広を見下ろしながら芳蘭は首を傾げて見せた。

 父が体調を崩すようになって、芳蘭はお抱え薬師と共に様々な薬草を調合してみた。あれこれと試していくうちに毒消しを混ぜると復調することに気づき、毒を盛られているらしいことを突き止めたのだ。


「其方が父に毒を盛っていたことも、母を手籠めにしようとして自害に追い込んだのも、我はすべて知っておるぞ」


 そう――父の死の原因も、母が何故、父の葬儀の晩に喉を突いて死んでしまったのかも、すべて知っていたのだ。

 けれど、まだ十一という幼い芳蘭にはどうすることも出来ず、信頼していた暁辛も遠方へ行ってしまったばかりで、頼れる大人が周囲に誰もいなかったのだ。暁辛が任期を終えて戻って来るまでの四年をやり過ごす為に、当主代理として家に乗り込んで来た叔父一家に従うしかなかった。

 しかし、暁辛は任期を延長されて戻って来なかった。

 恐らく宝広が手を回していたのだろうと思う。芳蘭が幼い頃から暁辛に懐いていたのは知っていただろうし、彼が有能な好青年だというのも評判だった。

 その間に、当主になる筈だった芳蘭は後宮に送り込まれることが決まり、代理であったはずの宝広はそのまま正式な当主になるつもりなのだろう。その次はこの浅慮で間抜けな宝昌が跡を継ぐことになる。

 無用な争いを避ける為に臣下に下った家門だが、王家の傍流という矜持と理念がある。それをこの知恵足らずな男共に踏み躙らせるわけにはいかない。


「この提案を呑むのが得策ぞ。呑まぬなら、我はこの不埒者の陽物を切り取り、手籠めにしようとした罰を下す。そして、今宵のことも、其方が我が両親に行った所業も、すべての醜聞を白日の元へ晒す」


 宝広は言葉もなく震え上がった。血の気が引ききって土気色じみてきた顔の中で、怯えた目がぎょろぎょろと動いている。

「さあ、選ぶがよい」

 哀れで醜悪な叔父を睨み据えたまま、芳蘭は最後の選択を突きつけた。




 任期途中であったが、暁辛には帰還命令が速やかに発せられ、王都へと戻って来た。

 後宮入りの準備を整える慌ただしい中で芳蘭は、暁辛に家のことを任せることを頼み、小瑩を妻として迎えてくれるように頼んだ。彼女は芳蘭と共に、父が体調を崩したところからすべての出来事を見聞きしてきた。宝広がなにかしかけて来たとしても、彼の悪事のほとんどすべてを把握している貴重な人物である。

「きみの夫となることを楽しみにしていたのだけれどね」

 芳蘭のことは、変わったことをする興味深い娘として、幼い頃から気に入ってはいたそうだ。年が離れていたので、成長するのをゆっくりと待っていてくれたらしい。

 久々に会った暁辛はそう言って苦笑したが、すべての提案を受け入れてくれた。

「あなたが家を守ってくださると思えば、我は安心して後宮へも参れる。小瑩のこと、どうぞ宜しくお頼み申し上げる」

 芳蘭も暁辛のことは好きだった。彼からも好意を寄せられていたのだとはっきりと知り、少しの面映ゆさを抱きながらも、晴れ晴れとした心地ですべてのことに決着をつけた。


 思わぬ成り行きでの入宮となったが、既に取り決められたことを覆すことも出来ない。これも政のうちだ。そういう環境に生まれ育ったのだから、受け入れるしかない。

 今後は後宮から、黄家を支えられるように生きるのが自分の務めだと、芳蘭は微笑んだ。



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