後日譚 《また逢うときまで》

 青き山野を男がゆく。

 男は常盤緑の着物に黒い帯を巻いて、女物の長羽織を肩に掛けていた。友の残していった数多の羽織のなかの、一枚だ。緑の着物に羽織っても違和のない、千歳緑の羽織を選んだ。下界は既に夏を迎えたが、嶺の中腹はまだまだ肌寒い。羽織を着てきてよかったなどと考えながらも野辺を歩き続ける。草履が青い草を踏む。荒漠としていた雪霜の野も、いまは芽吹きの季節を迎えていた。雪が融け、緩んだ大地に緑の息吹が満ちて、ところどころに紫や黄の山野草が咲き群れている。

 美しい季節だ。ともすれば幾百年振りの春の如く、麗らかに野は萌えていた。

 朧はこの地に由縁のない身だ。されど、約束を果たしに戻ってきた。

 浅からぬ縁のある、亡骸のもとに。

 

 今生の別れから一年と数カ月が経っていた。いったんは庵に帰り、数カ月暮らしてからまたも街道を旅してきたのだが、ずいぶんと長かったようにも、はたと気づけば季節が巡っていたようにも想える。庵に暮らしていると嵐の晩や曇って昏い朝に旧友が派手な羽織をなびかせてふらりと帰ってくるのではないかという想いが胸にふつふつと湧き、朧は我ながら苦笑してしまうのだった。それもこれも、あの友が悪いのだ。

 後悔や未練のかわりに細やかな約束を残して、かれは逝った。約束は呪いだと、みずからが語ってみせた癖に。その約束が果たされるのはいったい、いつになることだろうか。せめてもうひとつの約束だけは、今生のうちに果たしてもらおう。

 

 樹の残骸を捜して野を見渡せば、紫がに映った。

 羽織かと想ったが、違う。樹そのものが紫に染まっている。山藤が絡まっているものと疑わずに近寄ったが、あらためて確かめれば、裂けた幹から若い枝が芽吹いて紫の花房をつけていた。ひとつひとつは細やかな花だが、身を寄せあい、細い枝が撓るほど華麗に咲き誇っている。桜、藤、牡丹。如何な花とも異なる花のけいだ。そうしてその紫の花影に身を寄せるようにして。


「津雲」


 紫の羽織を纏った骸が横たわっていた。

 乾いた、白骨。これがあの《津雲》だったのだと受けいれることは、難しい。されど髑髏には赤き呪の紋様が刻まれている。悲しくもそれが、津雲の亡骸だという証だ。崩れた呪詛は燃える蛇の如く骨に巻きつき、額を、喉を締めつけていた。死後も、かれは呪に苛まれているのだろうか。

 禍々しい呪にも竦むことなく、朧はその骨を拾いあげた。ひやりとした頭蓋の骨を掲げ、囁く。


「約束を、果たしてもらいにきたよ」


 呪の紋様が薄らいだ。

 墨が融けるように、赤き呪詛の群が散り散りになっていく。骨から浮かびあがった呪は黒い靄となり、搔き消えた。後には、しらじらと美しい骨が残される。呪の紋様は名残すらない。

 津雲は祖の骨を拾い、呪を解いて故郷の地に葬った。だが最後の末裔であるかれの骨は、誰が拾うのだと想っていた。誰がその呪を解いてやるのか。

 死後も呪いに苛まれ続けるとしても、津雲は救われたいなどとは望まないだろう。他者に救いをもとめるようなことはしない。これまで救いをもとめられ、縋られ続けた審神司故に。

 されど、そんなかれを救いたいと。

 救われてくれと、願う者はいるのだ。


 ひとつ、息をついて、朧が安堵の微笑を浮かべた。

 樹の根方に腰をおろす。馨しい花の香があたりに漂っていた。そうか、これが栴檀の樹か。黒ずみ、立ち枯れていた樹が何故、甦ったのかはわからないが、もとより津雲のまわりには理解を超えることばかりが起こる。

 津雲の骨を隣に添えて、朧がつぶやいた。

 

「津雲。いつだったか、輪廻転生を信じるかと尋ねたね。僕は五分だといったが」


 栴檀に縁取られた青空を眺めて。


「いまは信じているよ」


 津雲が嘘になるような約束をするとは思えない。幾百年後かはわからないが、またかならずや、巡り逢う時がくるのだろう。覚えてはおらずとも、きっと互いがわかるはずだ。


 また逢おう。

 故にいまは、暫しの眠りを。


 風が吹き渡る。八の峰は青く透きとおり、僅かに残った雪が清かな光を帯びていた。野の草をなぜつけて、朧の頬をかすめていく。夏だというのに、頂から吹きおろす颪には細かな珂雪がまざっている。雪は地に触れることもなく、日差しのなかで瞬きながら涙の如き雫に変わった。

 一陣の風が津雲の紫の羽織を浚った。朧は驚いて手を伸ばしかけたが、長羽織は蝶のように羽搏きながら軽々と野を渡っていった。追い掛けることはせずにただ立ちあがり、羽織のゆくえを眺める。

 ふわりと舞いあがった羽織のかなたに、見慣れた背中が見えたような気がした。

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生魑 -いきすだま- 夢見里 龍 @yumeariki

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