其の参 《斯くして雪に眠る》

 見渡すかぎりの野辺原が拡がる。


 白紙しらがみを敷きつめたかの如き、雪の野だ。

 いま積もった雪でもあるまいに、獣が踏んだ跡すらない。風の渡った後の細かな紋様だけが残されている。晴れていれば、雪の鏡に透きとおった青が映り、絢を為して輝いていたであろう。いまは垂れさがる雲の影が落ちて、薄墨を流したかのように陰影がうねっていた。神の一族が暮らしていた名残どころか、鬼が棲むという凄みもなく、ただ途轍もない寂寞に満ちている。

 野を一望し、津雲の側で朧が疑わしげに眉根を寄せた。彼とて別段、劇的なものを想像していたわけではなかった。神と称された一族が暮らし、滅ぼされた地。津雲の祖の故郷。それを地獄の如き僻地だとも、まして極楽だとも想ってはいなかった。されどこれほどまでにむなしい荒野だったとは。失意を覚えたのは事実であろう。

 例えば焼け落ちた庵の残骸、幾星霜も変わらぬ栴檀せんだんの巨木、神殿の跡などがあれば、此処が紛れもなく言司の郷であったのだろうとも得心できた。しかしながらこの有様では、朧には到底納得がいかなかったに違いない。


「……ここがそうなのか」


 相棒の言葉に津雲は頷いた。


「ええ」


 津雲が前に踏みだす。鹿の轍もない、命の悉く絶えた地に末裔の足跡を刻むように。津雲は真直ぐに荒寞の地を臨み、静かに言葉を紡いだ。


「あたしの、故郷です」


 白栲しらたえの野にはぽつりぽつりと、赤が散らばっていた。

 季節外れの曼珠沙華でも咲いているのかと疑い、続けて霜雪そうせつに血が零れているのかと想った。されど理解する。これは。

 津雲がたまらずに走りだす。緩慢に膝を折り、赤き華のかたわらに跪いた。


「……ああ」


 嘆きも憤りも湧きあがってはこなかった。感情の域から心は遠く離れ、純然なる悼みだけが胸を満たしていく。背後にたたずむ朧にむけ、津雲は両腕に抱えた《それ》を掲げた。

 しらけた、髑髏しゃれこうべ――

 白骨の額から頭蓋に掛けて、朱の紋様が浮かびあがっていた。蛇の絡むが如く、赤き呪詛は微かに脈を打ち続けながら骨を蝕んでいる。袖で拭おうとも雪で洗おうとも、呪を取り除くことはできない。幾百、幾千年の時を経ても、野ざらしの骨が地に還ることも許さぬ呪だ。涙ひとつ流せない眼窩がふたりを振り仰ぐ。


「やはり、ここにまだ」


 津雲の指が、禍々しき朱の紋様をなぞる。


「おられたんですね」


 涙はなかった。乾いた息を洩らして、かれは暫し黙祷する。野に転がる数多の赤を見まわし、あまりのむごさに朧は眉根を寄せて真横に首を振った。凍てつく荒野はどこまでも続き、骸もまた数えきれぬほどに落ちている。果てはない。津雲の祖は幾百年もこの地に曝されていたのだ。

 既に滅びた一族。だが悲しむべくことに、滅びとは終わりと同義できないのだ。滅びてなお、終われぬものもある。骸がこの地に曝され、呪に縛られているかぎり、かつての悲劇は終わらない。

 死に絶えたものはすべからく眠るべし。眠らなければ、新たな目覚めはない。終わらなければ、再びにはじまることもかなわぬのだ。


「終わらせましょう」


 津雲が筆を抜いた。黒髪の穂が、骨に刻まれた赤い呪詛を吸いあげる。

 崩れた文字が浮かびあがり、言葉をともなって津雲の鼓膜に障った。骨に浸みた呪詛の意をはじめてに覚る。

「救ってくれ」「救われたい」「何故に救ってくれないのか」と地獄から響くような声が囁きかけてくる。縋りついてくる。さきほどの生魑の残滓とまったくおなじだった。

 朧には聴こえていないようだ。津雲は目を見張り、やがて静かに眉根を顰めた。髑髏を蝕んでいた呪が解かれ、穏やかな白骨となる。津雲が筆を振ると、血潮のような赤い雫が雪に散った。

 朧はそれを眺め、双眸を細めたものの、悔む言葉は持たなかった。このような悲劇を前にして、縁もゆかりもない異境の男が果たしてなにを語れるだろうかと、その背が云っていた。朧は黙っていたが、おもむろに雪と土を掘りはじめた。頭蓋ひとつ埋められる程度の穴を堀って、かれは津雲を振りかえる。


「かたちだけだよ。けれど、僕にできるとむらいなど、燃やすか埋めるかくらいのものだからね」


 津雲は柔らかく微笑み、呪の解けた髑髏を朧に渡す。剥きだしの髑髏には塞いでやれる目蓋もない。骨に雪まじりの土を被せ、手頃な石をひとつふたつと積みあげる。


「ありがとうございます」


 ふたりは骸を拾っては生魑の呪を解き、懇ろに葬った。

 野ざらしにされているのはすべて頭骨だ。呪詛が刻まれた髑髏を残して、他の骨は長い時に曝され、崩れ落ちたのだろう。

 黄昏も迫り、遂に雪が降りはじめた。叢雲のあいまから差す朧げな黄昏を帯びて、赤き雪が舞い散る。紅桜の如き雪が、ふたりの背に吹き掛かる。総髪に白斑が浮かびあがり、羽織の肩にも雪が積もった。寒さが身に浸みる。津雲は下駄だけで足袋も履いていないので、素足で霜を踏んでいるようなものだ。されど津雲は眉の端すら動かさずに、雪の野を歩き続ける。寿命の縮んだ身はさぞや重いだろう。咳をし、血を吐きながらもかれの眸は静かだ。


「我が祖を滅ぼしたものがなんだったのか。ようように理解できました」


 津雲がおもむろにそういった。


「一族を滅ぼしたのは《生魑いきすだま》です。それは、おおよそ想像がついていましたが」

「問題は、何者が生魑を巻き起こしたということだね。朝廷か、それとも同族であった呪司かな」


 綿雪の被った総髪を振って、津雲は否定する。


「いいえ、違います。正確には、朝廷も含まれてはいたでしょうが」


 津雲は遠くを眺め、いったん目蓋を塞いでみずからのうちなる記憶を甦らせるように集中する。短くはない沈黙をおいて、津雲は続けた。


「一族を滅ぼしたのは《民》だ」


 強い風が吹きつけた。雪が巻きあがる。

 それでも津雲の言葉は、吹き荒れる白い嵐のなかに重く響いた。  


「……民、か」

「意外ですか」

「いや、確かに神の一族に最も縋り、後に最も怨んだのは民だろうね」


 津雲がかみ締めるように頷いた。


「ええ、如何なるちからも持たず、如何なる真実も知らぬ民は、それ故に一族を神と奉って縋りついた。そうしてその身勝手なる信仰が裏切られると途端に、一族を嫌悪し、恐れ、疎んだ。一族を疎んずる大衆の念は、一族が下界との係わりを絶った後も多様に語りざまを変えて残り続けた。斯くして、盃に一滴ずつそそがれ続けた水が不意に溢流するように、生魑を巻き起こしたのではないでしょうか。或いは朝廷が一族を恐れる念とまざりあい、急激に膨れあがったのか」


 津雲は語る。語りながら、かれは足もとに転がっていた骨を拾いあげた。呪詛が巻きついた骨はやけに重い。雪に濡れた骨のおもてに筆を走らせた。筆は呪いを吸いあげ、祖を不眠の地獄から解き放つ。


「生者の強すぎる念は、無意識のうちに理を崩し、因果の糸を縺れさせ、あらゆるものに影響を及ぼす。その現象を生魑という――あたしが幾度も繰りかえし説いてきたことです。他者の魂のゆくえを奪い、輪廻の環を絶つなど造作もないことだ。そうして生魑にはかならず《もと》がある」


 津雲は寒さに急きたてられるように語り続ける。

 ふたたび颪が吹きつけ、骨を埋め終えた朧が濁った黄昏を振り仰いだ。山の頂は雲に遮られて、臨めない。なんと悲しい天候だろうか。嘆かぬ曝骨ぼうこつのかわりに、空が嘆く。風が憤る。


「みずからを救済してくれる神を崇め、救済を施さぬ神を切り捨てた民の業が、この生魑の《もと》です」


 言司の一族は、かれの祖は、神ではなかった。神だと名乗ったこともない。されど神の如き異能があった。悲しむべきことに。


「その証拠に、我々の骨に浸みていた呪詛は呪いの類ではなかった。単なる人の言葉。救済を欲して祖に縋りつき、やがては失望して放ったその言葉でした。驚きはありません。馴染んだ言葉です。救ってくれ、何故救ってくれないのか――貴方も、聞き覚えがあるのでしょう」

「なるほどね。故に、先程の幻影か」


 またひとつ、雪に覆われた枯草に埋もれて、骨が落ちていた。小柄な骨。生前はまだ幼かったはずだ。骨はなにも語らず、ふたりだけが静まりかえった野に声を響かせ続ける。


審神司さにわとして旅を続けていた時も、誰も彼もがあたしに問うのです。救ってくれるのですか、とね。救ってくれと縋られたことも数知れず。貴方もご存知でしょう」

「だから君は繰りかえさねばならないのだったか。救いはしないのだと」

「ええ、それでも怨まれるときは怨まれますがね。――救われたいと願い、縋ることが罪だとは云えません。悪だと断ずることもまた。ですが救いを求めるその念は、過ぎれば呪いになる」


 祖を神と崇め、縋ってきた者にはそれぞれ、切実な事情があったに違いない。子どもの脚が動かない。妻の病が癒えない。飢饉で年貢が納められない。貧乏で母親を棄てねばならぬ。


「人は常に救いをもとめている。仏教がこれだけ布教されたのも衆生済度を謳ったからだ。人は、救われたい。それだけこの世には悲惨な巡りあわせが多すぎるとも云えるがね。君のいうところの、憂鬱なことか」


 されども、だ。


「救済を求めるほどに、救いからは遠ざかる。まして他者に、その者の業が救えるはずがないのです」


 津雲は嘆きのやり場も無く、頬をゆがめた。

 野を見渡し、慨嘆の息を落とす。


「斯くして、一族は滅ぼされた」


 畢竟ずるに、ひとりとして救われはしなかったのだ。


 津雲が輪廻転生できていることを考えれば、おそらくはこの地を棄てて、どこかに逃げ延びたのだろう。民が恐れたのは八峰に根づいた民族だ。この地を離れれば、その概念からは逃れられる。骨に浸みる呪が未だに受け継がれているところからすれば、完璧に逃げおおせるには及ばなかったようだが。

 

「――もっとも、生魑に滅ぼされずとも、我が祖は蝦夷として朝廷に征伐されていたでしょう。運命は変わらない。輪廻転生の環から外れることはなかったでしょうが」


 津雲の言葉の端々には嘆きこそあれども、怨みはなかった。怨んで、どうなることでもないのだ。業とはそういうものだと、津雲は悲しいほどに理解している。

 いまはただ、祖の骨を葬ることしかできない。


「憂鬱な、ものです」


 

 晩になると雪はやみ、盆の月が顔を覗かせた。月あかりを頼りに、骨を拾い続ける。積もったばかりの雪の鏡に清光が映り、静かな輝きが野に満ちる。颪に乗って散る雪は玻璃の如く瞬き、星が燃えながらゆらゆらと落ちてきているかのような様であった。雪は音を吸う。下駄と草履が連れだって野を渡る、微かな夜陰の震えさえ、凍える真綿につつまれてしんと還る。

 祖の魂は何処に還っていくのか。雪は大地に降り積もり、春になればとけだして大地に浸み、地下を流れ、また大地に湧き川となりて雲に吸い込まれていく。それを空に還ると云うか、土に還ると云うかは個々による。

 命は絶えず巡る。魂も然りだ。

 死は赤だと津雲はつくづく想う。溢れる血潮も絡みつく呪も、現幽の境界も、赤だ。ならば、白は解放か。あらゆる束縛、概念からの解放。朱にまじわれど赤くはならない、完璧なる無垢。死のその先。人は白に産まれ、白に還る。

 

 また陽が昇る。朝霜が津雲の睫毛を飾った。

 寝ずにとむらいを続け、疲れはとうに限界を越えていたが、不思議と身体は軽かった。飢えや渇き、寒さを感じることもなく、既に魂が肉体の域を脱しているのではないかと疑うほどであった。ふたりは休息を取ることもなく、八里の野辺を巡った。燃えつきかけた蝋燭を吹雪に曝すような、無謀なことだという自覚はある。だが時を掛けてとむらうだけの猶予は残されていないと、津雲は他でもないみずからの身体のことはよく理解していた。朧も津雲の意を察し、普段の面倒見のよさをもってしてかれをとめることはせず、案じる言葉を掛けることすら我慢して、伴われた。

 幾度夜の帳が空を覆い、幾度朝焼けに照らされ、幾度の黄昏を迎えたのか。

 最後の骨を拾いあげた。かじかんで思うように動かない指で筆を走らせる。


「おやすみ、なさい」


 津雲の声が薄墨のように朝霞に融ける。

 呪詛が解けたのがさきか、ぐらりと風景が歪んだ。前触れもなく変わっていく風景に津雲が息を呑む。

 瞬きのうちに雪原には草が繁り、あたりに合掌造の郷が拡がった。苔むした藁葺の屋根に蔦の巻きついた緑の土壁。畑には作物が豊かに実り、鶏が朝を報せながら走りまわる。藁葺のあいまからは暖かな飯の白煙があがっていた。朝の陰りにぼうと浮かびあがる郷の景は、如何なる者の胸にも望郷の念を甦らせる麗しき原風景であった。

 里の真中には樹があった。紫の樹、否、紫の花が数えきれぬほどに咲いているのだ。天を擁くように拡がった枝には、紫の風変わりな花が無数に咲き誇り、樹そのものが紫に染まっていた。草の香りにまじって、馨しき花の香が漂う。その香が、津雲の古い記憶を揺さぶる。


「栴檀、でしたか」


 津雲がぽつりと零す。


「なんと……懐かしい」


 かれは、この風景を覚えている。

 時が朝から昼に移ったのか、わあと郷に人の姿が溢れた。人々の面影がぼんやりと浮かびあがる。顔を窺い知ることはできないが、老いも若きもあざやかな着物を纏っていた。美しい絹に袖を通し、されど暮らしぶりは慎ましやかとみえて、釣りざおを担いだものがいる。山菜を摘んで籠にいれたものがいる。

 かれらが言司の一族なのか。

 明らかに現実ではない。されどただの、雪のみせた夢幻ゆめまぼろしだと断ずることはできなかった。

 津雲がその風景のなかにまざろうと前に踏みだす。途端に風景がぶわりと暈け、はたと気がつけば、最後の骨を抱き締めたままに雪の荒れ野にたたずんでいた。


「大丈夫かい」


 側から朧が案じるように喋りかけてきた。暫く惚けていたようだ。津雲はまだ遠くを眺めながらも、首を縦に振る。

 津雲はあらためて腕に抱えていた骨を見た。

 

「これが最後、ですね」


 朧が頷き、呪いが解けた白骨を埋葬する。土を掛け、雪で塚を築いた。

 最後の骨を還してはたと気がつけば、透きとおる青空が拡がっていた。珂雪かせつが瑠璃の輝きを帯びる。あらためて振りかえると、幾百もの雪の塚とふたりの足跡が野に残されていた。瑠璃の陰影が曼荼羅の如く、白紙の野に浮かびあがっている。


「後は、かのじょを」

「いいのかい」

「ええ、眠らせて……差し上げたいのです」


 津雲は母親のかたみである筆を雪に埋めた。故郷の地に擁かれ、筆に浮かびあがる呪の紋様がするするとほどけていく。母親の片身を葬る津雲の心は驚くほどに静かだ。一族の風習とは言えども、長きに渡り、生魑の縺れた糸を質すべく母親の骨と遺髪の力を借りてきた。きっと穏やかに眠ることもできなかったに違いない。母親の骨を故郷の地に葬ることも、津雲の細やかな望みであった。


 振り仰げば、龍。紺碧に潤んだ八の峰は美しくも神々しく、その寂寞も僅かながら癒えたように想われた。

 不意に津雲が雪に膝をつく。朧が側に寄り添い、津雲の肩を支える。


「終わったよ、津雲」

「終わり、ましたね」


 我が身もいとわず、後先のことも考えずにとむらいを続け、終えた途端に糸がぷつんと裁たれたのだ。

 先ほどまで微塵も覚えなかった節々の痛みと極寒が急激に身を苛む。物理の疲労とはまったく異なる、骨が焼けつくような激痛があった。これは、決していまにはじまったことではない。江戸を後にした頃から始まり、段々と痛みに見舞われる頻度は増えていった。これが骨に浸みた呪なのだと、津雲はすぐさま理解し、故に痛みを緩和する術を捜すことも町医者たる朧に相談することもせずにこらえ続けてきた。僅かにでもそうした素振りがあれば、勘の鋭い朧のことだ、気がついてしまう。何食わぬ表情で隠してきたが、さすがにこれは。

 

「くっ……」


 ぼたぼたと、血潮が唇の端から溢れた。


「津雲……」


 赤は、死を表す。死期がせまっていることなど、いまさらに言葉にするまでもない。津雲は霞んだ視界であたりを見渡す。

 野辺の真中には立ち枯れた樹の残骸があった。幹は裂け、焼けたように黒ずみ、無残だ。然れども津雲は、重い腕を持ちあげてその樹の亡骸を指す。


「あそこまで」


 死に場所を、決めたのだと。

 朧は津雲の真意を理解して、異境の眸を細める。様々な感情が一瞬巡り、されどすぐに静めて、頷いた。

 津雲に肩を貸して歩き始める。霜を踏みしめ、緩い坂をのぼる。たった数十歩の距離が果てしなく遠く感じられ、幾度も倒れそうになっては朧が踏ん張り、進んだ。樹の根方にたどり着く。

 純黒の幹は黒檀のようで、側に寄れば微かだが香のようなかおりが漂ってきた。

 津雲は倒れるように根方に腰をおろす。意識が朦朧として、激痛だけがかろうじて津雲をうつつに留めてくれている。だが段々とそれも麻痺してきた。睫毛にふり掛かる風花が暖かい。死が、緩やかに満ちてくる。

 恐怖はない。後悔もない。

 津雲は赤く濡れた唇を震わせる。


「朧……さん、ありがとうございます……ありがとう、ございました」


 津雲の言葉を受け取り、朧は激情を堪えるように強く握り締めた拳を震わせる。かれは決して津雲の手を取らない。最期の時になってうつつを振りかえらせるようなことはせず、静かに葬送おくる。それだけが、死に逝く友にたいする慰めだと、かれは心得ていた。

 祖の悲劇はしかと終わらせた。やり残したことはひとつもない。

 晴れた空を仰ぎ、津雲は眩むように双眸を細めて息をついた。長きに渡り、ひとの業を眺めてきた疲れと憂いをすべてはきだすかのような、重い息だった。

 数多の人の業を見詰め、幾多の人の死を静観してきた。だがみずからの死は如何なる死よりも惨たらしいものになるだろうと考えていたのだ。身をうちから呪の紋様に焼かれ、無残に死に絶えた母親の死に様を覚えているが故に。それでも救いはもとめないと誓っていた。

 けれど現実はどうだ。


「ああ、空が、綺麗ですね」

「そうだね」

「夏になれば、花は咲くでしょうか」


 朧が数秒黙り、なだめるように頷いた。枯れた枝に花は咲かぬとわかっていながら友の夢を肯定する眸は、悲しいほどに優しい光に満ちていた。


「きっと、咲くだろうね」


 それを最後に、津雲は目蓋を塞ぐ。長い睫毛が絡んで、痩せた頬に陰りが落ちる。紫の羽織に流れる黒髪は融けた雪に濡れ、鴉の羽根を想わせる艶を帯びている。


「暫し……眠ります」


 洩れる息に、細かな響きを乗せて、津雲はそういった。


「起きたら、また釣りでもしながら……酒を、飲みましょう」

「ああ、僕と飲み明かせるのは君くらいのものだからね」


 朧の声が僅かに濁る。どこまでも穏やかであろうと努めるはずが、言葉の端がひるがえるのを堪えきれなかった。


「また逢おう、津雲」


 津雲は穏やかに微笑んで、微かに頷いたようであった。

 息が段々と薄くなり、鼓動が緩やかにとまる。

 津雲は眠るように、息絶えた。首が項垂れ、さらりと髪がひと房、胸に落ちる。季節を咲き終えたはなびらが潔くしぼむような。未練も禍根も残さぬ、やすらかな最期だった。



 神と崇められ、鬼と貶められた一族の末裔は幾百年もの時を経て故郷の地に帰還し、眠りについた。墓標はなく、一枝の桜もたむけられることなく、ただ凍える雪霜の野に臥す。美しきしろの大地に横たわる。

 雪嶺は遥かに晴れ渡り、颪が吹きおろすと紺碧の映る雪鏡に細波が走った。

 颪よ、吹き渡れと。ひとり残された男は、この時ばかりは強く願った。ほたほたと零れ落ちる涙を、一陣の嵐が浚っていく。堪えきれず喉を震わす嗚咽もどうか、掻き消してくれと望まずにはいられない。

 黄昏が雪を燃やし、夜の帳に月が満ちても、男の影は其処にあった。明月は清かに光を投げ掛け、時の移ろいは実に緩やかだ。男は時折誰かに語りかけるような響きをもっては言葉を紡ぎ、ひとりでからからと笑ってみせ、ぽつりとか細いつぶやきを落とした。

 男はそうして夜が明けるまで、そっと、友の亡骸に寄り添い続けた。

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