其の弐 《影を斥けて》
風景そのものが息絶えているような寂寞たる獣道を、下駄と草履が踏み分けていく。空は掻き曇り、重い雲が帳のように垂れていた。山巓からとも雲からともつかない雪が、はらはらと降っている。美しい朝焼けは天候の崩れる前触れだというが、まさしくである。凍曇に響くは雷鳥の声。他には風の音を除いて、しんと静まりかえっている。静寂を割るように、ふたりの足跡がさくさくと霜を踏みながら獣道に続いていく。麓までは積雪もほとんどなかったが、山の中腹に差し掛かるにつれて薄らとではあるが雪が残っていた。いま、散っているこの雪は、果たしてどれほど積もるだろうか。
「寒くはないか」
「ええ、まったく」
津雲には進むべき道がわかっている。導かれるように坂をあがり、沢を渡る。かれの魂は既に想い出している、故郷の場所を。故に、標のない冬枯れた林のなかでも迷うことはない。黙々と進み続ける。
雪は時が経つほどに激しくなり、視界が
ぬっと帳を破り現れた黒装束の群に、ふたりが緊張を走らせる。
「影か」
まさかこのような地まで追い掛けてくるとは。
如何にして津雲の生存を知ったのか。考える暇もなく、相手は無言で斬りかかってきた。
「津雲ッ」
「だいじょうぶです、戦えます」
朧は相手の攻撃を避け、津雲とともに刺客から距離を取る。まわりを取りかこまれていたので、背中あわせになって構えた。筆を抜き、津雲が背後の朧に尋ねた。
「殺生は避けられませんか」
「君は不殺を貫けばいい。だがこの度ばかりは、僕にそのつもりはないね。以前加減したせいで君が殺されかけた」
「それは、そうですが」
津雲が眉根を寄せる。
ここは祖の故郷にして、眠れぬ骨が曝された地だ。夥しい血潮が流れた地ではあるのだが、幾百もの時が流れたいま、さらなる死を積みあげることはためらわれた。津雲が言いよどんでいると、朧がため息をつく。
「……善処するよ」
朧が野を蹴った。刺客の斬撃を鉈ではじき、足ばらいを掛けて首の後ろを殴打。続けて背後からせまっていた刺客の斬撃を受けとめようとして。
ぞわりと、朧の背筋に悪寒が走った。朧は素早く跳び退る。
されど間にあわず、着物の袖が裂けた。腕も一緒に斬られたのか、血潮が積もったばかりの雪を赤く
振りかえれば、確かに気絶させたはずのひとりが、平然と刀を構えていた。朧が眸を細める。
「様子がおかしいね」
「わかっています。これはいったい」
津雲はその場から動かずに筆を振るい、押し寄せる敵をさばいていたが、敵が異様なほど頑丈になっていることに不穏なものを感じ取っていた。「――
業を煮やしたのか、朧は鉈を回転させ、刺客の喉を裂いた。
血煙が噴きあがる。即死。どれほど武芸に優れていようと、如何な訓練を積んできた隠密であろうと、喉を斬られれば死に至る。されど刺客は地に崩れ落ちることなく踏みとどまり、あろうことか喉が裂けたままで反撃に転じてきた。
「――――ッ」
朧もおおよそこうなることを予期していたので、反撃を受けることはなかったが、驚愕は拭えない。
「どうなっているんだね、これは!」
まるで亡者と戦っているようではないか。
怒涛の攻撃を順にさばき、的確に避けながら、津雲は思考を巡らせる。真にこれは、あの刺客なのか。津雲が生き残り、祖の故郷にむかっていることを朝廷が察知したとし、あらためて影を差し向けてくることは充分に考えられる。だがなにか釈然としないものがあった。そもそもかれらは、尋常な様子ではない。殴りつけられても、斬られても、息絶えるどころか気絶すらしない。死という概念がないかのように。
その様は、赤ん坊の怨嗟が寄り集まった、あの《生魑》を彷彿とさせた。
それに加えて、気に掛かることがある。刺客が側を横切る度に、なにやら不穏な囁きが鼓膜をかすめるのだ。はじめは風斬りの震えかと思っていた。だが段々とその響きは怨嗟をともないはじめ、津雲は呪詛の類であろうと予想をつけた。
だとすれば。
「――っかはッ」
急に胸が焼けるような激痛に襲われ、津雲が激しい咳をする。咳はとまらず、喉から血がせりあがってきた。咳をしていても刺客の攻撃はやまない。ふらつきながらも絶えず筆を振るい続ける。
「津雲!」
離れたところで戦っていた朧が乱暴に敵を横薙ぎにし、津雲のもとに走りだそうとして足がとまる。倒したはずの刺客がなおもしぶとく斬り掛かってきたのだ。振りかえり様に斬撃を避け、そのまま影を縫いつけられたかのように朧は動けなくなる。
刺客の顔を覆っていた黒い布がはらりと落ちた。
津雲はなにか嫌な予感を覚え、刺客のほうに視線を投げる。刺客の素顔をみて、津雲もまた息を呑んだ。
やつれた頬にくっきりと浮かびあがった眉骨。鼻筋も整っているが、あまりにも痩せすぎている。やせ衰えた美人――かのじょは紛れもなく。
「お黒さん……いえ」
そのようなはずがない。小仏峠で逢ったあの女は、最愛の娘が為に旅人を殺め続け、最期には愛する娘に殺された。娘は母親の所業を許せなかったのだろうか。それとも、他のわけがあったのか。真意はわからないが、女は確かに息絶えた。このようなところにいるはずもない。
だが霧雪の幻と断ずるにはあまりにも。
「救ってはくださらないのですか」
斬られた額から血を流し、微かにうつむきながら、かのじょは縋りつくようにつぶやいた。
あたりを見渡せば、影の群が顔に巻きつけていた黒い布を一斉に解いていた。
妬みと妄執に身を滅ぼした厭魅の女がいた。みずからの嘘に溺れた生き神がいた。愛故に華を喰らった武士がいた。ひとなみの欲にかまけて、他人を斬った刀鍛冶がいた。互いを映して傷つけあう夫婦がいた。
誰も彼もが騒めくようにその《呪詛》を落とす。
「救ってくれ」「何故救ってくれないのか」「何故」「救えたはずだ」「救って」
津雲は理解する。果たして、如何なる現象に襲われているのか。
なれば、朧は影の素顔になにを重ねるのか。
朧の動きは依然停まっていた。目を剥き、鉈を握る指が僅かに震えている。敵がこのような隙をみすみす逃すはずもない。小仏峠の、少なくとも津雲にはそう視えている幻影が、刀を振りあげた。
「朧さん――」
津雲は迫っていた厭魅の女をなんとか振りほどき、筆を振るった。
間に合え。
朧を斬り裂くはずだった刀が、間一髪で墨の斬撃に弾かれる。朧は間近で爆ぜた墨に驚き、すぐに我にかえった。惑いを振り払うように眉根に皺を寄せ、朧が勢いよく鉈を振るう。幸いにも敵の真横が崖になっていた。斬りつけると同時に敵に足ばらいを掛け、朧は敵を崖の真下に蹴り落とす。
津雲が激しい咳に背を折りうずくまったのをみて、今度は朧が津雲にせまっていた敵を斬り倒していく。おおよその敵を斥け、ふたりして影の群から距離を取る。
「すまない」
「あんたに残していく借りにくらべれば、この程度」
朧の謝罪に津雲は胸の激痛に頬をゆがめながらも、微かに笑った。
「さて、《もと》を質しますか」
津雲はあらためて呪の浮かびあがる骨の筆を構え、敵を睨みつける。みな一様に、救いを欲しながら亡者の様相で襲い掛かってくる。これが如何なるものなのか、津雲には既に理解できていた。《もと》が理解できれば、事はさほど難解ではない。筆を振るい、かれは叫ぶ。
「――――解」
刺客の姿がぶわりと、黒き靄のように搔き消える。
先程までの厳しい戦況が嘘だったかの如き呆気なさで、敵は悉く失せた。脅威は去ったのだと充分に確かめてから、朧は鉈をおろす。
「いったいなんだったんだね、あれは」
津雲は唇を濡らす血潮を拭い、呼吸を整えた。返答を待っている朧に、津雲はまるで脈絡のないことを尋ねる。
「救ってくれ、助けてくれ、或いは許してくれ――そうしたことを希われたことはありますか」
津雲の問い掛けに朧は片眉を持ちあげ、一瞬の逡巡を経て、首を縦に振る。いまだに頬が強張っているのは傷のせいでも、寒さのせいでもあるまい。
「憶えがあるね」
「それは、医者としてですか。或いは」
朧の表情が曇ったのを見て取り、津雲は追及をやめた。
かれが祖国である大陸から遥々この島国に渡ってきたわけを、津雲は知らない。だが察することはできる。それなりに愛着のある祖国を棄ててでも、あちらに置き去りたい過去があったのだろうということもまた。それはかれがいつか清算するべき業で、かれ自身もそれを理解している。もしくは清算するべく、いまの職を選び、生涯をかけて償うつもりなのか。
「先程のものは言わば、業の残滓が具現されたものです。あたしらにまとわりついてきた業の残滓が、この地に残っていた生魑の影響を受け、あのようなかたちになって襲い掛かってきたのでしょう。始めは、ふたりの気掛かりだった追い手のかたちを借り、続けて――」
言葉をいったん綴じ、津雲はひとつ、咳をしてから続けた。
「この数カ月のあいだに縁をもった生魑の張本人らのかたちを取りました。それはあたしからみて、ということです。他のものがみれば、また違ったものに変わるでしょう」
「なるほどね。だが何故そんなことが」
「おそらくはおなじような業が、この地に浸みついているのでしょう」
救いを願い、救われなかったことを怨む業が。
そうしてそれは、津雲にも朧にも、縁の深い業だ。故にあのようなかたちになって反復された。幾百、幾千もの時を経ても、いまだにこの地に根づいた業は残り続けている。それは、鬼が棲むという言い伝えが残り続けているのとおなじことだ。
朧は腕を斬られたが、津雲も肩や腕を負傷していた。朧は喋りながら、手際よく津雲の傷に布を巻きつけ、縛っていく。
「ありがとうございます」
朧が苦笑する。
「君が素直だと吹雪にでもなるんじゃないかと不安になるね」
「あたしはもとから、あんたのようにはひねくれてはいやしませんよ」
ふたりして雪の帳をくぐり、ふたたびに道なき道を進んでいく。その後も津雲は発作のような咳に繰りかえし襲われ、その都度、雪に赤い血潮が散った。寿命はますますに縮んでいる。されど津雲の足取りが鈍ることはない。死地に進みいくような潔さで、赤い鼻緒の下駄がからんと鳴った。
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