エピローグ ライク・ア・ローリングストーン

 時間が経って。

「案外、重症だったわね、お互い」

「案外、じゃねえよ」

「今度は、朱里ちゃんにどんな言い訳をする?」

「さすがに、じゃ済まないな、これは」

 赤部は、そう言いながら左目の眼帯に手をやった。赤部が退院してから既に二ヶ月。しな子はそれよりも更に前に退院していた。

 赤部も、しな子と同じくらいのタイミングで骨折などの怪我は完治していたのだが、目のこともあって手術や検査のため入院期間が長くなった。右目の視力は回復したが、左目の視力は戻らぬままであった。もう、今後、赤部の左目の機能が回復することは無いのだと医師は言った。

「さて、新居に帰るとしますか」

 そう、赤部は腕の中に語り掛けた。

「煙草、止めたのね」

「ああ、子供のためなら、ヘビースモーカーだって卒業出来るさ」

「今のところ、いいお父さんね」

「それは、これから、が決めることさ。そうしてはじめて、こいつの母親も喜んでくれるだろう」

 赤部はそう言って笑ったが、しな子は笑わない。

「死んだ人は、喜んだり、笑ったりはしないわ。生きている人にだけ、それは出来ることよ」

「――そうだな。お前の、言う通りだ」

 でも、としな子は言う。

「だからこそ、生きていることは、とても大切なことなのね。痛みも、苦しみでさえも」

「そうかもしれない」

 赤部は、そう言いながらラッキーストライクの代わりに胸ポケットに忍ばせているミントのタブレットを一つ口に入れた。容器の中でタブレットが踊る音が一歳児の興味を引くのか、それに手を伸ばそうとした。

「こいつには、おしゃぶり。俺には、ミントさ」

 赤部はそう言って笑い、二人が座っているカフェのオープンテラス席から立ち上がった。

「これから、どう?」

「何だよ」

「いつもの、居酒屋。何ヶ月ぶりでしょ」

「帰るんだよ、今から」

「あら、いいじゃない、少しくらい」

 そう言って、しな子は三本ラインのジャージのポケットから鍵を取り出し、赤部に向かって放り投げた。赤部はそれが何か分からず受け取ったが、掌の上で使い古された光を放つそれが鍵であることと、それに見慣れたマークがあしらわれていることで、表情を変えた。

「しな子、お前、まさか――」

「隣のコインパーキングよ。ぶつけそうで怖かったわ」

「お前の方から珍しく会いたいと言い出すからなにごとかと思ったら、そういうことかよ。全く」

「お誕生日、おめでとう」

 赤部自身、慌ただしさの中で忘れていたが、この日は赤部の誕生日であった。しな子がそれを覚えていたり気にかけていたりするのは驚きであったが、嬉しさのあまり思わず笑みが浮かんだ。

 隣のコインパーキングには、赤部が乗っていた古いアルファロメオと同じものが停められていた。八十年代後半の型で、その四角いボディと、当時鮮やかであったであろうくたびれた赤が良い。

「車はボロでも、チャイルドシートは新品よ。取り付け方が分からないから、とりあえず放り込んである」

 赤部は抱いていた子供をしな子に渡し、彼女から渡された鍵で後部座席のドアを開けると、無造作に突っ込まれたチャイルドシートを素早く取り付けた。

「これからは、ここがの席ね」

「そうだな」

 赤部は苦笑して、しな子のために助手席のドアを開けてやった。

「あら、紳士ね」

「せっかく、お前がくれた車だ。またドアを乱暴に閉めて壊されちゃかなわない」

「わたしがいつ、ドアを乱暴に閉めて壊したのよ」

「ドアどころか、車ごとぶっ壊しやがったくせに、よく言うぜ」

「何よ」

 しな子は、助手席に乗りながら、頬を栗鼠のように膨らませた。赤部がくすくす笑いながら、子供をチャイルドシートに載せる。

「でも、壊してくれてよかった」

 子供を赤部の腕に再び渡してやりながら、しな子は膨れたままの頬を赤部に見せてやった。ボンネットを回り込み、運転席のドアを開けて乗り込み、シートやミラーの位置などを好みに合わせ、エンジンをかけた。

 聞き慣れたエンジン音と、ストーンズのサウンド。

「お、CDがもう入ってるじゃないか」

「ええ、そうよ」

「やっぱり、壊してくれて良かったよ」

「どうして?」

「おかげで、最高のプレゼントを貰えた」

「馬鹿ね。わたしが壊したのと、同じ車よ」

 しな子はようやく膨れた頬を元に戻し、眉を下げて笑った。

「いいや、全然違うさ」

 そう言って赤部はくたびれた赤いアルファロメオを発進させた。


 向かった先は、いつもの居酒屋。

「あら、赤部さんに、しな子ちゃん。久しぶりじゃない」

 朱里が、満面の笑みで二人を迎えた。その笑顔が、凍り付いた。

「もしかして、その子」

 はじめ凍りついた顔が、赤部が抱く子供を見て、見る見る嬉しそうなものに変わってゆく。

「いや、違うぜ、ちょっと理由わけあって預かることになってな」

「なんだ、わたしはてっきり」

「おいおい、いくら何でも、そりゃ気が早いな」

 赤部は、話題を変えて、少し畏まった様子で朱里に向き合った。

「この前は、騒がせて悪かった。大丈夫だったか?」

「すごく、びっくりした。警察の人も来て、大変だったんだから」

「済まなかった。あの後も、なかなか来れなくて」

「あ、気にしないで。赤部さんのせいじゃないわ」

「店の調子は?」

「うん、おかげさまで。常連のお客さんがあんなことになったのはショックだけど、あの人ももう退院して、皆変わらず来てくれるわ」

「そりゃ、何よりだ」

 しな子は、赤部の腕の中で言葉にならぬ声を上げる子供の頬を指先で優しく突いてやっている。子供は手を伸ばし、しな子のそれよりも更に小さく、柔らかく、無垢な掌でしな子の指を包んだ。

「それに、赤部さん。その眼」

 話さなければならないこと、聞きたいことがありすぎて、朱里がようやくその話題に触れた。

「ああ、これは――」

 赤部が眼帯に手をやりながら言い澱む様子を見て取ったしな子がすかさず、

が、悪化したの」

 と言った。

「この前はお尻で、今度は眼?」

 と朱里がくすくすと笑う。

「不潔な手で、眼をこすってばかりいるからよ」

 しな子が眉ひとつ動かさずに言うものだから、朱里は我慢出来なくなって腹を抱えて笑い出した。

「おいおい、ひどいな、しな子」

「あら、そうじゃない。あなたが手を洗っているところ、見たことないわ」

 そう言いながら、しな子は朱里に目配せをした。朱里は頷き、キッチンへ。

「全く。また、かよ」

 赤部はぶつぶつと文句を言いながら、いつもの座敷席へ。

 そこで普段なら朱里が伝票を手に注文を取りに来るのだが、この日彼女が手にしていたのは伝票ではなく、小さなケーキ。それに赤部の歳の数だけ蝋燭を刺すわけにはいかぬから、申し訳程度に花火が刺さっている。

 残った眼を丸くしながら、赤部はぱちぱちと音を立てて咲く火を見つめた。その向こうには、嬉しそうに笑う、しな子。

 失ったものは多いし、大きい。

 しかし、残った眼で、赤部は今、この世で最も美しいものを見ている。

「こうしてると、赤部さんとしな子ちゃん、ほんとうの家族みたいよ」

 朱里が感慨深そうに言う。

「おいおい、朱里ちゃん。待ってくれよ」

 赤部は頭を掻いてしな子を見たが、彼女と視線は合わない。しな子は、微笑みながら赤部の胸の中で寝息を立て始めた小さな命を見つめている。

「わたしがあなたのお母さんになれるまで、待っていて」



 赤部のささやかな誕生会はそう長くない時間で終わり、二人はちょうど陽が暮れる頃、居酒屋を出た。コインパーキングまでの道、無言。赤部がいつものように精算し、フラップ板が降りる音をしな子はただ聴いている。

「どうした、乗らないのか」

 助手席のドアに手をかけずにいるしな子を、赤部は不思議そうに見て言った。

「ええ。歩いて帰るわ」

「なんだよ。乗って行きゃいいのに」

「ううん、いいの」

 あれから、目立った事件もなく、世の中は静かであるし、変わり者のしな子が今借りているマンションまで、徒歩三十分ほどの距離だから、歩けないことはないと思い、赤部もそれ以上言わず、運転席のドアに手をかけた。

 コンクリートの隙間から、西陽。

 それが古いアルファロメオのくたびれた赤を鮮やかなものにし、世界をも同じ色に染めてゆく。赤部は、それらに眼を細めながら運転席に乗り込むことなくエンジンのみをかけた。聞き慣れた低いエンジン音と、ストーンズのメロディも、紅く染まる。

「なあ、しな子」

 同じ紅になった赤部が、しな子の方は見ずに呼びかけた。しな子は、眼だけを赤部の方にやった。

「さっき、居酒屋で言ったこと」

「なに?」

「いや、わたしが、この子のお母さんになれるまで、って話」

 赤部は抱いている子を後部座席のチャイルドシートに載せてやりながら言った。

「それが何?」

「いや、だから、それはつまり、俺と――」

 赤部は、世界よりも更に濃くなった紅を顔に浮かべた。

「ねえ、赤部さん」

 しな子はジャージのポケットに両手を入れて、少し首を傾げた。

「この曲、なんてタイトルだっけ」

 はぐらかされたのかと赤部は思い、赤部はがっかりしたが、その意味を考えて再び顔を上げた。

「スタート・ミー・アップ。おい、そういうことかよ?」

「さあ。好きに考えて」

 いつもなら、ここから冗談めいた空気になるのだが、この日は違った。

「わかった。待ってるから」

 と残った眼にも強い紅を宿す赤部が言い、そのままアルファロメオを発進させた。

「ああ、そう」

 しな子は呟き、アルファロメオが走り去ったのとは別の方向へ。

 節回しを確かめるように、何度も下手な鼻歌を歌いながら。

 佐藤加奈子の代わりは出来ぬかもしれない。しな子は、しな子なのだ。

 だが、彼女にも、誰かに何かを伝え、受け継ぐことは出来るだろう。

 それが、例えば、この歌であったりするのかもしれない。

 おそらく、生きるということは、そういうことなのだろう。

 物理的な意味にせよ比喩的な意味にせよ、生きるということにおいて、戦いそのものは決して目的にはならぬ。

 それは、あくまで、手段である。

 歪んだ形であったのかもしれぬが、彼女に出来うる手段を最大限に行使して、最大の目的を、しな子は見出したのかもしれない。


 金髪のメッシュの入ったおかっぱ頭が、揺れている。左耳の無骨なピアスは、それから遅れて揺れている。しな子が着るには大きすぎるジャージの三本ライン。それに繋がる星のマークのスニーカーが、アスファルトを叩き、奏でている。

 彼女の生を。

 彼女が奪われたものを。

 彼女が与えられたものを。

 彼女が自ら手にしたものを。

 それは、彼女と、世界を繋ぐリズム。

 今、彼女は、燃える紅を背にして、黒になろうとする青へ向かって歩いている。

 長く伸びる、自らの影を踏みながら。



 紅の蓮 完

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紅の蓮 増黒 豊 @tag510

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