ほおずき提灯

田所米子

ほおずき提灯

 湿った空気を震わせる祭囃子は女の耳には賑やかにすぎ、傍らの良人の存在すら曖昧にさせた。夏の日差しは着物からはみ出た手足を刺す針がごとく、冬ともなれば夜すらも白く塗り替える雪に閉ざされる貧村と比すれば、遠く海の向こうの仙人が住まう桃源郷か極楽さながらの賑わいである。この蠢く人の海――女が数えで十四の少女の頃に離れた海沿いの村の、青く、けれども澱んだそれとは異なる塊に呑まれては、己一人では帰路すらも危うい。

 女の旅立ちの前年に天狗に拐かされたとされた姉やと並んで星を見上げた乾いた夜の空気。微かに肌で覚える故郷の名残をこそぎ落さんとするばかりの熱気は、男達の息遣いにも、舌にも似ていた。かつての幸せは指の合間からさらさらと零れてゆき、もはや面影すらも女の掌にはない。

 露わにした項を這う生温かな肉に、柔肌どころか思い出すらも啜られながら、女は生きてきた。遊里の片隅、一発五文の鉄砲女郎にいつ堕とされるかも分からぬ小見世の端女郎として。艶やかな打掛を羽織り禿を従えた、足元を覚束つかなくさせる高下駄を履いてもなお誇り高い天女の道中を引き合いに出して女の店の小汚さを嘲笑う男達に抱かれながら。艶やかに咲き誇る彼女らに憧憬を募らせていた心は、肉体同様に男達の手垢と吐き出したものに塗れてしまっている。であるからこそ長い長い地獄の終わり――年季明けを迎え、傍らを歩いているだろう男の手を取ることができたのだ。

 落籍を申し出るのではなく、女が無理やりに括りつけられた荷物を下ろすことを赦されてから妻問うてきた良人は、まったくうだつのあがらぬ男だ。額は禿げあがり、腹にはでっぷりと脂肪を蓄えている。ほんの一月前までは女郎として、現在は妻として重い身体に押しつぶされながら見上げる顔は蝦蟇の化物そのもので、口が裂けても美男とは称せない。

 良人が冴えないのは外見だけでなく、気の利いた洒落の一つも言えぬ割りには尊大な男に苛立ちを覚えたのは十では済まなかった。これでは、置物の蝦蟇の方が幾分かましだ。あれの方がまだ愛嬌があるだけ良い。だが土塊でできた蝦蟇は銭を稼がない。 

 北生まれの証左たる抜けるように白い肌を除けば、女には男心を捕らえる魅力など何一つなかった。鬢付け油を塗りこめても、火事場の煤けた梁さながらに乾いた髪に、珊瑚や鼈甲の簪を飾ってもみすぼらしさが際立つだけ。ゆえに良人は妻となった女に簪の一つもくれぬのだろうか。

 あるいは凡庸な女に許される最大の幸福こそ、この退屈な日常なのだろう。飢えた子供にとってはお歯黒どぶの澱んだ水でさえも甘い玉露なのだ。現在の夫ではない馴染みの客が、女とも仲が良かった女郎を身請けする祝いにと、同じ小屋の全ての女郎に振る舞った鼈甲飴の味など知らない。あえかな恋情ごと、お歯黒どぶに投げ込んでしまったから。

 だから、八に近い歳月を経ても未だに蘇るのだろうか。強風が吹けば儚く舞い散る桜の薄紅のごとき淡い恋慕を踏みにじり引き裂く紅蓮が。舌を刺す丸い実の酸味が。

 端に細かな皺が寄った小さな目は、ほおずきの朱に染め抜かれた旗を捉える。厭な色だが、記された文字は悪くない。

「ねえ、あんた」 

 故郷の訛りを泥臭いと嗤う女将に褥の上での作法と共に教え込まれた都の言葉は、未だに女の舌を強張らせる。

 ――あたし、甘酒が飲みてぇんだ。

 それでも慣れが、沁みついた媚態が、縮こまっていた桃色の肉を滑らかにする。己が肌の上を幾度となく這った芋虫に絡めようとした細い指は、着古された袖ではなくひやりと小さな柔らかさを掴んだ。

「かあちゃん」

 女の着物を掴む童子は、数えで七つか八つといったところだろう。擦り切れた藍の袖なし羽織はみすぼらしいが、肌の白さを引き立てている。提灯の朱い――ああ、どこもかしこも厭な色だらけだ――光に照らされた頬は、透けるようだった。切れて血が出るまで突かれてもいないのに、腹の奥が、叫んだ。

「あたしはあんたの母ちゃんじゃないよ」

 いつの間にやら消えていた夫に対する腹立ちをぶつけても、幼子は女の小紋の袖を握り締めたまま、離す素振りはない。

「かあちゃん」

 ず、と洟を啜る幼子の親はどこにいったのだろう。こんなに小さな子供と逸れて、心配ではないのだろうか。

「あんたのおっかさんはどこに行ったんだい。こんなガキを放って、男のとこにでも行ったのかい。――悪い女だねえ」

 見ず知らずの女に罵声をぶつけると、幼子は急に黙り込んだ。母が悪し様に罵られては、幼いながらも子としては良い気はしないのだろう。噛みしめられた口元はあどけないが、円らな瞳は潤んではいない。子供のくせに、一人前に涙をこらえているのだ。 

「……あたしが悪かったよ。ちと、言いすぎたかね」

 女が薄い唇を緩めると、幼子も薄い口元をほころばせた。何故だか面白かった。

「お詫びに、おっかさんの代わりにあたしが何か買ってやるよ。あんた、何が欲しいんだい」

「なんにもいらねえ」

 に、と威勢よく広がる笑みに締め付けられるのは胸の奥だけではない。

「だって、かあちゃんあんまり銭もってねえだろう」

 つられて女の齢以上に老け込んだ面に広がるのもまた、満面の笑顔だった。

「洟を垂らしたガキのくせして、あたしを揶揄おうなんていい度胸じゃないか……と言ってやりたいけど、悔しいけど当たりだねえ」

 道中財布の紐を解き、ひっくり返して口から零れ落ちたのは、蕎麦一杯すら贖えぬ端銭だった。だがこれでも、朝顔ぐらいは買ってやれるのではないか。

 ――あー、朝顔、朝顔。ほれ見てくれよ、そこのべっぴんさん。今は萎んじまってて分からねえけど、これは切れ込みが入った、桔梗みたいに咲くんだ。青打込桔梗笹葉淡藤桔梗咲、風流だぜ。

 鰻か鯉を思わせる、商魂たくましくよく通る掛け声につられて振り返る。真っ先に目に入ったのは、青打込桔梗なんちゃら、との経も顔負けの長ったらしい名の朝顔ではなかった。

 海原に沈む夕陽、とするにしては先端が尖った珠が、鈴なりにぶら下がっていた。右隣の朝顔売りの爪の垢を煎じて飲め、と常ならば囃し立てたくなる仏頂面を引っ提げた男の、鉢巻の下の団栗眼が女をぎろりと睨む。     

「……かあちゃん」

 ほおずき売りは、小さな顔を蒼ざめさせ、これまた小さな身体を震わせる子供を一瞥もしない。項に冷や汗を垂れる女の、傍らの子供以上に赤みが引いた顔を、見つめている。獣じみて鋭い眼光を放つ両目の他は、ほおずき売りは極めて凡庸な顔立ちをしている。だが女の汗ばんだ肢体は数え上げることなど当の昔に諦めた痛みに貫かれた。

「かあちゃん」

「何だい」

 あたしはあんたの母ちゃんじゃないって、何遍教えたら分かるんだい。

 苦笑は乾いた口内をひり付かせるばかり。

「おれ、あれはもういやだよ」

「そうかい……」

 艶のない髪を撫でて整え、子供の手をそっと握ると、怯えた面に喜色が滲んだ。着物と同じくらい、とはいかずとも死人と見紛うぐらいには蒼ざめた頬は、死人のままだった。子供がどのくらい長く親と逸れ、親を求めて独り彷徨い歩いていたのかは分からないが、疲れ切っているのだろう。

「あんた、もう家にお帰りよ。特別に、あたしが送ってやるからさ」

 赤い塊から尾びれを優美に翻させる金魚を生み出す細工飴師の手際に見惚れ、立ちすくむ幼子の手は、やはり死んだように冷たい。けれども女の指先を握り返す小さな指は力強かった。

 朱塗りの鳥居には眼もくれず、縁日の賑わいから遠ざかる。厚い雲の向こうに隠れた満月は頼りなく、一寸先は鼻を摘ままれても分からない闇に包まれているが、子供の歩みに迷いはなかった。朧な記憶を頼りに思い描いたうらぶれた長屋に挟まれた道の先には、歪な朱色が浮かんでいる。ぼうと夜闇を照らす提灯は先が細く尖っていた。

 ほおずき提灯と思しき朧な光を目にした子供は、笑った。一寸先さえ分からぬ闇の中であっても、彼の微笑みに胸が締め付けられる。

「おれの家、ここなんだ」

 柔らかな手が女の手から離れた。本来聞こえて然るべき、軽やかな足音は響かない。八の歳月をもやすやすと飛び越えてきた、乾いた植物の根を己が胎に差し込む苦痛を凌駕する激痛に耐えかね、女はその場に崩れ落ちた。

「じゃあな、かあちゃん」

 幼い声が、擦り切れた藍の袖が闇に融ける。吹き荒ぶ風は垂れ込める雲を蹴散らす。黄金の月明りは、女の眼に路傍の地蔵が纏う袖なし羽織の藍を届けた。柔和な笑みを湛えた地蔵の傍らには、ほおずきが実っていた。小さな小さな、熟れる前にもぎ取られた朱い実が。

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ほおずき提灯 田所米子 @kome_yoneko

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