ミステリーとファンタジーの間

屋根裏

ミステリーとファンタジーの間

楽しい。手持ちのお金が底をついてなお、川島杏はこの状況を楽しんでいた。

「どこだっけなあ」

誰もいない部屋でにこにこするのは変だと思いながらも、膨らむ期待が杏の顔を綻ばせる。ここかここかと部屋を漁っているうちに、あっという間に床は空き巣の被害にあったかのような荒れ具合となった。

「ここだ!」

次に標的にされたのは本棚の上に積み重なった単行本たちだった。一番下に置かれた単行本とその一個上の単行本の間、ジャンルで言えばミステリーとファンタジーの間に、それはあった。

「見つけた!」

本に挟まれて体の一割ほどしか見えないそれを慎重に摘んで引き抜く。崩れそうな本の山を整え、ぐらぐらと不安定な椅子から軽くジャンプするその間も、杏の手にはしっかりと茶封筒が握られていた。

セロハンテープで止められた封を切ろうとしたタイミングで、玄関の方からドアの開く音が響く。何の連絡もよこさずに杏を訪ねてくるのは、彼女しかいない。

「香澄ちゃん」

部屋のドアを開けて玄関を見ると、玄関の鍵をかける従姉の後ろ姿があった。

「杏、鍋しよ、鍋」

一つ上の従姉は訪ねてきた理由を端的に述べながら、両手に下げたスーパーのビニール袋をガサガサ言わせながら忙しなく動き回っている。長ネギの飛び出したビニール袋を台所に置き、手を洗う頃になってようやく香澄ちゃんは私の方を見た。

「もしかして杏、またへそくり漁ってたの」

香澄ちゃんの切れ長の目は、対峙した相手を少し威圧する。

「へそくりじゃないってば」

杏は従姉の鋭い視線から逃げるようにして体を小さくすぼめると、そのままの体勢でそそくさと台所へ移動した。

香澄ちゃんは私よりも頭一つ分背が高い。それも威圧感を与える原因だろうか。本人にその気はないのだろうが、面と向かって話をすると、責められているような感覚に陥る。

「こっそり貯めたんだからへそくりでしょうが」

「こっそりって、内緒にする相手すらいないんだから」

彼氏もルームシェアをするような友人もいない杏にとって、この貯金を隠すような相手は、香澄ちゃんか母くらいしかいない。しかし二人とも杏の趣味には気がついているから、本当に隠す相手など一人もいないのだ。

「まあそれもそうか、なんだか杏は自分に隠し事してるみたいだね」

自分に隠し事。考えたこともなかったけれど、私は私に何かを隠したいのだろうか。なけなしの貯金をいくつかの封筒に分けて、家の中の様々な場所に隠す。杏が一人暮らしを始めてからの趣味。趣味というよりは、一人遊びのようなものだ。最低限使う分は銀行に預けておいて、それ以外に出費が必要な場合は隠した貯金を探し出して使う。数ヶ月前に隠した封筒が出てきた時の興奮がたまらなくてやめられない。子供の頃に戻ったような懐かしい気持ちで、宝探しを楽しむ。そしてなにより、節約になる。思えば、節約のために始めたこの貯金方法が、いつの間にか一人遊びとして定着してしまったのだ。

節約方法兼、一人遊び。その程度の認識でしかなかったが、私は私の気づかないうちに何か隠し事をするために貯金を隠しているのだろうか。それも、私に対して。

杏がぐるぐると思考を巡らせているうちに、香澄ちゃんは着々と鍋の準備を進めていた。野菜や肉を食べやすいように切り、沸騰させたお湯に鍋つゆを大胆に注ぐ。料理においてスピードと量を重視する香澄ちゃんは、出汁をとったり、調味料で少しずつ味を調整したりといった工程を嫌う。

台所にいながらぼーっと立っていただけの杏は、慌ててテーブルの準備を進めることにした。テーブルを拭いて、取り皿とお箸を、鍋を挟んで向かい合うように並べる。実家から送られてきた漬物と冷えたグラスとビールを置いたところで、香澄ちゃんが台所から切った食材を持ってやってくる。

「今日は寄せ鍋でーす」

「いつもじゃん」

「文句言わないのー」

香澄ちゃんと食べる鍋は、寄せ鍋と呼ぶにはあまりにも雑多としすぎている。香澄ちゃんが食べたいものを買ってきて、鍋に放り込んで行く。それが私たちの寄せ鍋だ。何を入れても不思議と美味しく感じてしまうのは、お酒のおかげなのか、二人だからか。

「なにぼーっとしてんの、杏。乾杯するよ、乾杯」

見慣れた闇鍋を前に、またぼーっとしていたようだ。

「乾杯って、なにによ」

「いいじゃん、なんでも。はい、乾杯」

コツンとぶつけた冷えたグラスの中で、軽い津波が起きる。しゅわしゅわの黄色い液体をぐいっと流し込んだ香澄ちゃんは、早くもほんのりと赤みを帯びた顔で私を見つめる。

「どうしたの香澄ちゃん、顔に何かついてる?」

「杏は可愛いなあ」

「なに突然、もう酔っちゃったの?」

冗談交じりに言ってみたものの、思いの外香澄ちゃんの表情が真剣で、こちらの顔まで赤らんでしまう。

「照れんなって。なんで彼氏できないんだろう、ほんと」

「やめてよ、別に可愛くないって。私は今が楽しいからいいの。香澄ちゃんとこうして鍋してるだけで幸せなの」

「なにそれ、愛の告白?だとしたら残念だけど、私にはもうお相手がいるからごめんなさい、あなたを幸せにしてあげることはできないの」

「やめなさい」

かっかっか、と香澄ちゃんの乾いた笑いが響く。響いて、鍋の湯気と混ざって消える。こういう時間が好きだ。幸せなのは、紛れもなく事実。でも、この場合の幸せが、香澄ちゃんの言うそれと違うことに、杏は気づいていた。それもまた、事実。

「そうね、まずあんたは周りに興味を持つところから始めなくちゃね。私以外に仲良い子、いるの?」

「…いない」

充実した学生生活を楽しむ大学生たちに、杏は苦手意識を持っていた。授業をサボることにも、飲み会で騒ぐことにも怯えていて、うまく馴染めない。

「バイト先にも?」

「お店が暇な時に少し話すくらいだよ。連絡取り合ったり、遊んだりはしたことない」

「…まあいいや。杏みたいな人、たくさんいるだろうし。気があう人の一人や二人、でてくるでしょ」

もちろん今まで、友達が一人もいなかったわけではない。中学生までは無邪気に誰とでも仲良くできていたし、高校に入ってからも一緒にお弁当を食べるような友人はいた。しかし心が大人になるにつれて、人の裏側に敏感になってしまい、深い関わりを持つことを恐れてきたのだ。その点、香澄ちゃんは裏表がなくて底抜けに楽しい。明るいとか優しいとかじゃなくて、楽しいのだ。

「気長に待つことにするよ」

香澄ちゃんが二本目の缶のプルタブを開ける。ぷしゅ、と軽快な音が響く。

「彼氏はいないの?」

「友達もいない人に、恋人なんてできると思う?」

「そうとも限らないじゃない。お店のお客さんとか、出会いなんていくらでもあるでしょう」

とくとくとくとく。楽しげなリズムとともに、グラスにビールが注がれていく。

「ないない。もしできたら、最初に香澄ちゃんに報告するよ」

「報告する相手、私くらいしかいないでしょ」

ぐびっと香澄ちゃんの喉が鳴る。

「その通り」

戯けたように肩をすぼめてみせる。

「難儀ねえ。友達も彼氏もいなくて、楽しい?」

「私には香澄ちゃんがいるもん。楽しいよ」

「だからそうじゃなくって」

「香澄ちゃんこそどうなの。彼氏と上手くやってるの?」

グラスが机に置かれる音がする。ことん。

「ご心配なく。今はちょっと喧嘩中だけど、別れるとかそういうんじゃないから」

「喧嘩中なの?」

「喧嘩ってほどでもないか。一応記念日だからご馳走の準備してたのに、飲み会だって。イライラした勢いで言いたいこと言って、買ってきた食材全部鍋にぶち込んじゃった」

なるほど、今日の鍋の動機はそれか。香澄ちゃんが押しかけてくるのは、大抵いいことか悪いことか、そのどちらかがあった時だ。今日は後者のようだ。

「だから今日の鍋はちょっと豪華なのね、蟹も入ってるし」

「そうそう、まあ心配いらないわよ。今頃一人で大反省会してるんでしょうけど、明日帰ったらどうせケロッとしてるから。私も寝て起きたら怒るのに飽きちゃう性質だし」

「ちょっと待って、泊まってくの?」

「そのつもりだったんだけど、だめ?」

元々お酒に強くない香澄ちゃんは、既にとろんとした表情をしている。この状態で帰れと言うのも酷だ。

「いいけど、ここで寝たら風邪ひくよ」

うん、とうなるような返事は聞こえたものの、もう動くのは無理そうだ。あとで部屋から毛布を持ってこなきゃなあとぼんやり考えながらビールを煽る。もう少し酔いたい気分だったが、新しい缶を開けるのももったいない。香澄ちゃんの残したビールをちびちび飲みながら、ぬるくなった鍋の残りをつつく。

記念日のご馳走になるはずだった蟹の身をつつく。食べるところがなくなった頃、香澄ちゃんの身体がもぞもぞと動く。

「…幸せ?」

切れ長の目が、しっかりと私を見据えている。不思議と威圧は感じなかった。

「香澄ちゃんが、とかは無し」

自信を持って答えることはできなかった。友達も恋人もいない生活。人との関わりは、香澄ちゃんとアルバイトくらい。随分と、閉じた生活。

「杏は、自分に隠し事してるみたい」

数時間前にも聞いた言葉が、すっかり静かになった部屋に溶ける。

「杏の趣味、変だよ」

香澄ちゃんがそう思ってることは、杏にもわかっていた。責めているのではなく、心配してくれているのもわかっている。それでも、一番仲のいい香澄ちゃんに自分を否定されたみたいで、ふいに涙が溢れる。

「わかんないよ」

零れる。

「わかんないことが多すぎるんだよ。自分以外の人は、みんなわかんない。香澄ちゃんもそう。私は新しいこととか、変わることが怖いから、自分の周りに予防線みたいなものを引いちゃう。それ以上踏み込んだら危険なライン。人間関係もそうだし、貯金だってそうなのかもしれない。むやみにお金を使ったら、新しいものが増えて、何かが変わってしまう。だから節約する。漠然に節約したいって思っても上手くいかないから、封筒に分けて隠す。それが思っていたより楽しかったって、それだけの話だよ」

的外れだったかもしれない。それでも言葉は涙とともにとめどなく落ちていった。

「そっか」

香澄ちゃんは怒っただろうか。呆れただろうか。香澄ちゃんの言わんとしていることはちゃんと理解しているのに、噛み砕こうとしない自分に腹が立つ。自分のことも、わからない。不意に寂しくなって、名前を呼ぶ。

「香澄ちゃん」

返事は無かった。意外にも頭は冷静で、嫌われたかなと悲しくなる。悲しくなって、ふと香澄ちゃんを見る。杏の唯一の友人は、切れ長な瞳を閉じて、すーすーと静かな寝息を立てて眠っていた。


かき混ぜられたかのように荒れ果てた部屋の奥、クローゼットをがさごそと漁る。荒れた部屋を、さらに荒らす。香澄ちゃんが泊まることは久しぶりだったから、しばらく使われることのなかった毛布は思いの外奥の方にしまわれていた。ようやく毛布を見つける頃には、部屋は足の踏み場がないほどの荒れようだった。明日香澄ちゃんに手伝ってもらって片付けよう。そう思いながら毛布を引きずり出すと、一枚の茶封筒が足元に落ちた。

これが部屋からなくなる頃には、抜け出せてるといいな。何もわからない現状から。自分に隠し事をする自分から。ミステリーとファンタジーの間から。

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