023
ベーリング海峡を抜けて、ノーチラス号は一路、北へと向かう。目指すは北極点。氷に閉ざされた世界のさいはて。
「ううぅう……寒いぃぃいいいい……寒いよぉぉぉおおおお……死んじゃうううううううううう……」
軽快に波を切って走るノーチラス号の甲板上で、ピッピ・ザ・ロングストッキングは歯をガチガチ鳴らし、カラダを小刻みに震わせていた。吐く息は白く、鼻水が凍りついている。
モーグリはスッカリあきれ返って、「だから言ったじゃないか。チャント毛皮のコートを着ないと寒いって」
「だってさ、だってだって、女海賊はセクシーじゃないとダメじゃないの。着ぶくれしてたらダサいもんね」
「アン・ボニーとメアリー・リードって知ってるかい? ……ていうか、寒いなら下へ降りたら? 艦内は暖房であたたかいよ。ミスター・ニルソンも、キミのベッドでスッカリ丸まってるし」
「ダメだよ。ダメダメ。せっかく浮上してるのに、太陽の光を浴びないなんてもったいない。航海中はほとんど海中ばっかで、こうして海上で長時間いられるチャンスなんて、メッタにないんだから」
「まったく、キミっていう女の子は……しょうがないなァ……ほら、コレ飲んで。アンニカが作ったショウガ湯だ。温まるよ」
「えー、ショウガ湯ぅ? そこはウイスキーじゃないのぉ? イシュメイルって元捕鯨船乗りのおじさんが言ってたよ」
「あ、そう。ピッピがいらないんだったら、僕が飲むけど」
「ウソウソ! いるいるいる!」ピッピはショウガ湯をモーグリからひったくって、イッキにあおった。そしてすぐにむせ返ってせき込む。「――熱ぅッ! ていうか辛ァ! 辛いって! チョットこれ、ショウガ多すぎだってェ――」
「あわてて飲むからだよ。もう……ヤケドしなかった?」
「うん、ヘーキ」とはいえさすがにこりたのか、ピッピは残ったショウガ湯に吐息を吹きかけて、慎重に冷ましながら口をつける。
彼女は波に漂う流氷を見つめて、「すごく綺麗な景色だよね。でも、チョットさびしい景色……まだ見たコトはないけど、ここはきっと天国に似ているし、あるいは地獄にも似ている気がするな。誰も生きられない死の世界……」
「そうは言うけれど、実際のところたくさんの動物たちが暮らしているんだよ。シロクマとかペンギンとか」
「ペンギンかァ……知り合いの武器商人に、ペンギンってあだ名のひとがいてね。……いや、その話は今しなくてもいいや。……ねえ、ホントにこんな場所に、怪物なんているのかな?」
「間違いない。アザラシのコチックが教えてくれたから」
「でも記録だと、北極点で焼身自殺したって話じゃなかった?」
「それは違うよ。あくまで自殺するために北極点へ向かうところが、最後の目撃例だっただけ。たぶん結局は死ねなかったんだ」
今から百年以上前、北極探検隊のロバート・ウォルトン氏は、北極点への航海の途上、ひとりの不気味な怪物と、それを追う復讐者に遭遇した。ウォルトンは姉へと宛てた手紙に、復讐者から語られた怪物にまつわる物語を書き残している。
狂気の科学者ヴィクター・フランケンシュタインが生み出した、新たなる人類。名もなき怪物。生まれつき善良と美徳そなえていながら、造物主への抑えきれぬ憤怒と憎悪に身を焦がして、悪辣な殺戮をくりかえした殺人鬼。
その醜くおぞましい容姿のせいで、誰からも受け入れてもらえなかった悲しい生き物。自分と同じ存在であれば愛してくれるのではないかと、造物主に伴侶を求めたが聞き届けられず、ついには死こそがゆいいつの救いと悟るに至ったという――。にもかかわらず、彼は北極でたったひとり、百年以上生き続けている。その心中はいかばかりか。モーグリには想像もつかない。
人体を素手で引き裂けるほどの怪力と、その図体に似合わぬ敏捷さ。さらには隠密行動に長け、狙った獲物は確実に仕留める狡猾さ。もしも彼が〈ワイルドハント〉に加わってくれれば、厳重に守られたMを暗殺するのも夢ではないだろう。
しかし、はたして説得できるだろうか。彼はおのれを受け入れなかった人類を、深く憎み切っている。とてもではないが、人類のために戦ってくれるとは思えない。ヘタに機嫌を損ねてしまえば、最悪の場合、今度こそ怪物は殺戮の権化と化して、人間社会に終焉をもたらそうとするのではないか。モーグリの胸に一抹の不安が湧き上がる。
むろん、何の策も用意して来なかったワケではない。ひとつはジキル博士の秘薬だ。組織に潜入しているポーロックから入手したものである。怪物にコレを飲ませれば、心の奥に眠る善心が呼び起されて、人類への献身に目覚めるかもしれない。だがその結果、善良さに見合った無力な肉体へ変身してしまうおそれもある。それでは本末転倒だ。あるいは怪物の本性が悪で、善の魂がそれを必死に抑え込もうとしていたのだとしたら――。
やはり可能なかぎり、秘薬には頼りたくない。何よりこれを使用するコトは、Mの思想を認めるも同然ではないか。
となると現状、残された切り札はひとつしかない。
「けど、怪物か……怪物なんて、ホントにいるんだろうか……?」
怪物などより、人間のほうがはるかに怖い。モーグリはそれを知っている。Mのコトは当然そうだし、フランケンシュタインの怪物にしても、彼の優れた身体能力など関係なく、その手口は人間らしい悪辣さに満ちている。だが何よりむしろ、モーグリはおのれ自身が怖い。かつてインドのジャングルで暮らしていたとき、敵対していた虎のシア・カーンをやっつけた手際は、思い返してみれば実に怪物的だった。実際、人間はおそるべき怪物なのだ。
「ええ? なにおかしなコト言ってるのモーグリ? さっき怪物はいるって、自分が言ったばっかじゃない」
「ああ、いや、そういうんじゃなくて、観念的な話というかね」
「何それ。意味わかんない。モーグリってたまにヘンなコト口走るよね? ひょっとしてバカなんじゃないの?」
「……そうかもね。……うん、きっとそうだ。キミのほうが僕なんかより、よっぽど頭がいい」
モーグリの見つめる視線に、ピッピはいぶかしんで、「ん? なに? あたしの顔になんかついてる?」
「いや、べつにそんなコトはないけど。いつもどおりかわいいよ」
「じゃあ、なんでそんなジロジロ――あ、もしかしてモーグリ、怪物が怖いの? そんなんじゃジャングルの王の名が泣くよ?」
「……そうだね。確かに怖いかもしれない。ううん、すごく怖い」
「まったく、男なのにしょうがないね。しょうがないから、モーグリはあたしが怪物から守ってあげるよ。あたし自慢の怪力なら、怪物にだってきっと負けないし。だから安心して」
フランケンシュタインの怪物に対する、もうひとつの切り札――ひょっとしたらピッピ・ザ・ロングストッキングなら、この無垢で型破りな少女であれば、たとえ醜い怪物であろうと、何でもないように受け入れてしまうのではないだろうか。この少女にはどこか、そんなふうに思わせてくれる不思議な何かがある。
不安と期待を相乗りさせて、ノーチラス号はまっすぐ地球の極みへと進んでいくのだった。
ワイルドハント 木下森人 @al4ou
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