022

 海面下一〇メートルのにある運河を通って、ノーチラス号は水面に浮上した。そこは直径二マイル、全長六マイルの岩壁に取り囲まれた地底湖だった。壁は円錐形になっており、頂点には穴が開いていてそこから太陽光が覗いていた。

「ここは死火山の内部ですよ」モーグリが言った。「地殻変動で死火山の内部に海水が流れ込んで出来た、言わば秘密の湖です――と言っても、大洪水の時代から生きているファスティトカロンが棲む秘密の湖とは違いますが。われわれはここをノーチラス号の母港にしています。ここなら敵に見つかる心配はありません。地上から完全に閉ざされているので、潜水艦がなければ侵入は不可能です。それにこの湖の底には、無尽蔵の石炭が埋蔵しているのです。ノーチラス号の動力に必要な石炭は、ここから調達したものだけで十分まかなえます」

 湖の岸辺には、一軒のこじんまりとしたコテージが建っていた。モーグリに連れられて、エドワーズはそちらへ案内される。

「そういえば、ピッピたちはいっしょに来ないのか?」

「彼女たちは備蓄してある石炭を積み込んだら、すぐに出港する予定です。ほかにやるべきコトがありますから。僕もあなたをコテージで待つかたと引き合わせてから、ピッピたちに同行する予定です」

「そのやるべきコトってのは、前に言ってた重要な仕事のコトか。それについても、コテージにいるヤツが全部説明してくれるんだろ。……だが待てよ? ノーチラス号が行っちまったら、オレはこの秘密基地から出られなくなっちまうんじゃないのか?」

「またすぐ戻ってきますよ。それに万が一ノーチラス号が沈んだとしても、食糧の備蓄は十分にありますし、非常用の小型潜水艇もありますから。ノーチラス号の最上部に設置されているボートの説明はしましたよね。アレを見本として、新たに建造したものです。もっとも、それに頼るような事態が起きないコトを祈りますが」

「そいつが聞けて安心したぜ。こんなさびしい場所で、誰にも知られず朽ち果てるのはさすがにゴメンだ」

 コテージは石造りで、おそらくこの場にある岩を削り出して使用したのだろう。ゴシック様式の豪奢な建築物だ。たとえ人目につかない隠れ家でも妥協しない、芸術家魂が垣間見える。

「ゴダルミング卿、バーディ・エドワーズ氏をお連れしました」

「ご苦労だったモーグリ。――お待ちしておりました、ミスター・エドワーズ。ご無事で何よりです」

 エドワーズを迎え入れたのは、妙齢の紳士だった。たくましく生気に満ちあふれた雰囲気だが、そのまなざしにはどこか、言い知れぬ悲しみをたたえている。エドワーズが一人目の妻であるエティを亡くしたとき鏡で見た、おのれの顔に似ていた。

「お初にお目にかかります。わが名はアーサー・ホルムウッド、秘密結社〈ワイルドハント〉の首領を務めています」

「ワイルドハント? 伝承でアーサー王が率いる狩猟団の名か」

「Mに対抗するための組織です。今はまだか弱い勢力ですが」

「ああ、Mってのはモリアーティのコトだったな」

「厳密に言えば、マイクロフト・ホームズとジェームズ・モリアーティ、その善悪両面を言い表すためのコードネームです」

「そうか。ヤッパリあのふたりは同一人物なのか……」

 すでにエドワーズも確信はしていたものの、あらためてほかの人間から言われると、さすがにショックが大きい。

「そもそも、私がMの存在に気付けたのは偶然の結果です。私は数年前、仲間ともにとある吸血鬼と戦いました。実に四百年以上前から生き続けていた、あのドラキュラ伯爵と。わが妻を殺したあの怪物を、さらにもうひとりの友を犠牲にして、われわれはヤツを滅ぼしました。……信じられないと言いたげな顔ですね?」

「そりゃア、まァ……吸血鬼なんてものはあくまで、伝説上の存在に過ぎないだろ? 現実にいるワケがねえ」

「しかし、あなたはジキルとハイドのような非現実的事例を、すでに知っているハズですが。……まァいいでしょう。とにかく、かのおぞましき伯爵との戦いのあと、しばらく経ってから、私はふと思ったのです。ヤツと同じく人類の仇敵とも言うべき怪物が、まだほかにもこの世界のどこかに、身を潜めているのではないか、そして虎視眈々と、人類を滅ぼすチャンスをうかがっているのではないか、と。一度その疑念に囚われてしまえば、あらがうコトはむずかしい。それほどにあの吸血鬼はおそろしかった。――そして調査の結果、私が見つけたのは怪物以上に怪物的な人間でした。悪魔的と言い換えてもいい。それがMという男です。ヤツの存在を知りながら放置しておくコトは私の正義と、亡き友への誓いが許さない」

「名探偵シャーロック・ホームズは、モリアーティを〈犯罪界のナポレオン〉と呼んでいたが、具体的にヤツはどんな悪事を?」

「おおかた予想はついているのではありませんか? ジェームズ・モリアーティとしてのあの男は、ハイドから奪った秘薬の力をバラまいて、本来なら善人であった人間を犯罪者に仕立て上げています。ここ数年のうちに英国で起こった事件の大半が、Mによって秘薬を投与された者のしわざと言っても、過言ではないでしょう」

「バカな――マイクロフトは秘薬の力を使って、犯罪者を善人にしようとしてたんだぞ? それがどうして真逆なマネを」

「もともとの目的である、犯罪者を秘薬で更生させるほうも、マイクロフトとしての立場で実行しているようです。実際、犯罪件数の上昇に対して、再犯率は尋常ではないくらい低下しているコトがわかっています。ジキル博士の秘薬を飲んで、マイクロフト・ホームズがどういう心変わりをしたのか、われわれには知るよしもありません。しかし、とにかく事実としてハッキリしているのは、ヤツが犯罪者を善人にする一方で、善人を犯罪者に変えて、大英帝国を混沌のるつぼへたたき落としたコトです。しかも英国だけではあきたらず、そう遠くないうちに、世界へ魔の手を広げようとしています」

「なんだって?」それこそ寝耳に水だった。彼は秘薬の力をあくまで英国でのみ使用すると言っていたのに――。いや、だからこそか。英国内で留めようという理性は、秘薬で取り払われたのだろう。

「一八七二年に帰国してすぐ、マイクロフトはスコットランドヤードを辞職し、表向きは官公庁の会計検査へと転職しました。けれども実際にはむしろ、現在の彼は政府そのものと言っていいほど権力を握っています。スコットランドヤードのアイルランド特別部を?」

「ああ。何年か前に設立された、アイルランドの独立運動を監視するための部署だろ。確か最近はアイルランドだけじゃなくて、英国領の植民地全体に目を光らせているとか何とか」

「現実にはそれだけではなく、敵国も同盟国も関係なく、スパイを送って諜報活動をしているようです。そして特別部の長官はジョン・リトルチャイルドですが、彼もまたディオゲネス・クラブに引きこもるマイクロフトの操り人形に過ぎません。ところで、もともとマイクロフトは活動的な人間ではなかったそうですが、現在では輪をかけて出不精になっています。まァ、ムリもないでしょう。マイクロフトの姿でいるあいだは、ようするに極度の貧血状態なワケですから。そしてモリアーティとしての彼は、表向きはアーミーコーチをしていますが、その実、今や世界的な大商会へと成長したユニヴァーサル貿易を掌中に収めています」

「あのユニヴァーサル貿易か……そういえば、レイディ・コーデリア・フィッツジェラルドがどうしてるかわかるか?」

「彼女は独立不羈の精神を持った女性です。ゆえに最後までMに抵抗したようですが、秘薬を飲まされて無力な赤毛の少女になってしまい、今はカナダのプリンスエドワード島で幽閉されています」

「そうか。まァ、生きてるならマシなほうか……」

「敵の組織へ送り込んだスパイによると、今後Mは商会の流通網を利用して、ジキル博士の秘薬を全世界へバラまくつもりのようです。最初のうちは英国と同じように計画立てて接種してますが、段階が進めば、輸出する食品などへ無秩序に薬を仕込む手筈だと。実を言えばロングストッキング船長には、ノーチラス号でユニヴァーサル貿易の貨物船を手当たり次第、沈めてもらっています」

「それが例の重要な仕事ってヤツだな。しかし、船を直接動かしている人間たちは無関係なんじゃないのか?」

「ああ、もちろん貨物船の乗務員たちの安全には、最大限配慮していますよ。その場にいるイルカやクジラなどに、救助を協力してもらって。どうやってとお思いでしょう? 信じられないかもしれませんが、モーグリは動物の言葉を話せるのです」

「いや、何となくそんな気はしてからな。ヤッパリそうだったのか」

 実際、あのときエドワーズたちはスタビンズ博士がかもめのジョナサンに指示を出すのをこの目で見ている。あの異様なしぐさは、鳥の言語を話していると言われたほうがむしろ安心だ。

「何だかシャクゼンとしない反応ですね……フクザツです……まァいいでしょう。とにかく、Mの力は強大です。それに対して、われわれ〈ワイルドハント〉はあまりにも小さい。ゆいいつ優位に立てているのは、いまだ敵に存在を悟られていないコトですが、それも時間の問題です。いずれは露見してしまうでしょう。そう何度も商会の貨物船が沈めば、向こうも敵対者がいると気づくでしょうし、先日は内通者にリスクを冒させました。モリアーティにあなたの命が狙われているコトを、シャーロック・ホームズに密告させたのです。もっとも、その結果は完全に裏目でしたが」

「確かに、もし名探偵がバールストン村へ駆けつけなかったら、オレはまんまと自分の死を偽装できていただろうからな。だが、あくまで結果論だ。もしもの仮定になんて意味はないぜ」

「そう言っていただけるとありがたいです。内通者のフレッド・ポーロックも、気に病んでいるようでしたから」

「何ならオレが礼を言っていたと伝えてくれ。もしあのまま死んだコトにしていたら、きっとMの存在を知らないままだった」そう口にした瞬間、エドワーズの覚悟は決まっていた。「……なァ、オレを〈ワイルドハント〉の仲間に加えてくれないか?」

「それを今から頼もうとしていたところですよ。ぜひお願いします」

 一八七二年におのれの犯した失態が、Mという怪物を生み出したんだとしたら、若い連中に尻ぬぐいを押しつけるワケにはいかない。エドワーズはかならずこの手で、Mを止めると決意した。

「そういえば、シャーロック・ホームズは同志じゃないのか?」

「彼はモリアーティの宿敵を自認していますが、その正体にはまだ気が付いていません。兄弟としての絆が、意外にも彼の目をくもらせているようです。それに彼との接触はMに悟られるおそれもあります。だからこそバールストンの件では、ひそかに情報をリークして利用する形を取ったのですが。しかし、時が来れば彼も同志に加えたいとは思っています。彼の頭脳はMに勝るとも劣りませんから」

「とすると、同志はアンタとモーグリ、それからピッピたちノーチラス号の乗組員、あとは内通者のポーロックだけか?」

「まだほかに若干名います。そう遠くないうちに顔を合わせる機会もあるでしょう。みな選りすぐりの有能な人材です。とはいえ現状のままの規模では、Mの組織に対抗するにはまだまだ足りていません。ほかにも同志を集める必要があるでしょう」

「そうは言うが、マトモに太刀打ちするとなると、国家レベルの力がいる。なにせ敵は英国そのものと言っていい。どうやって対抗する気でいるんだ? それに応じて必要な人材も変わるぜ」

「そうですね……われわれの勝利条件は、ようするにふたつです。ひとつは、ジキル博士の秘薬が世界にバラまかれるのを阻止するコト。そしてもうひとつは、秘薬をこの世から完全に葬り去るコト」

「そりゃア結局、どっちでも同じコトだな。ようするにMの野郎を抹殺すればいい。それで両方とも片付く」

 あまり気が乗らない方法ではあるが――エドワーズは口に出しかけた言葉を呑み込んだ。べつにマイクロフトを殺すのをためらっているワケではない。しかし、敵を殺すのはあくまで兵士の仕事であって、探偵がすべきコトではないだろう。むろん、そんなふうにこだわっていられる状況ではないのも、重々理解している。

 ホルムウッドはかぶりを振って、「いえ、Mを殺すだけでは不十分です。たとえヤツが死んでも、その意志を継ぐ者がいるかもしれません。Mの陰謀を完膚なきまで打ち砕くためには、秘薬そのものであるヤツの肉体を消滅させなければ。……しかし、現状では非常に困難なミッションと言えます。Mは大英帝国とユニヴァーサル貿易の両方に守られていますし、さらにはセバスチャン・モラン大佐率いる、親衛隊の存在も無視できません」

「となると同志として欲しいのはズバリ、直接的な戦闘能力に秀でていて、大勢の敵が相手でも渡り合えるヤツ。もしくはあらゆるセキュリティをすり抜けて、Mのそばまで近づけるような暗殺者だ」

「……そういう者でしたら、私にひとり心当たりがあります。正直迷っていたのですが……背に腹は代えられません」

 ホルムウッドの様子は迷っているというより、おそれているように見えた。おのれを支配する恐怖に必死であらがっている。

「その心当たりってのは、いったい何者なんだ?」

「怪物の存在について調べていたと言ったでしょう? 実はMのコトを知る前に、ひとり見つけていたのです。もはや人類に仇なすつもりがないようでしたし、ヘタにコンタクトを取らず放置していたのですが……彼を味方につけるコトができれば、大幅な戦力増強を果たせるかと。……ただし、もしも交渉に失敗したときは、最悪の場合、われわれはおそるべき殺戮者を解き放ってしまうコトになるのかも……」

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