021

「さらばバーディ・エドワーズ。最初にして最後のわが友よ」

 セントヘレナ沖で無惨にも殺されたエドワーズに対する手向けの言葉は――実のところ空振りしていたコトを、モリアーティは知らない。なぜならエドワーズは、死んでいなかったからだ。

 人喰いザメのアギトが目の前に迫り、さすがのエドワーズも死を覚悟した。しかし、その瞬間が訪れるコトはなかった。海底のほうから新たに出現した、黒くて巨大なイッカクがその鋭い角で、エドワーズに襲いかかろうとしていたサメを、横合いから串刺しにしたのだ。

 暴れて角から逃れたサメは、傷口から赤い鮮血を流れ出させる。するとあとからやって来たほかのサメたちは、そちらに吸い寄せられて共食いをはじめた。もはやエドワーズには見向きもしない。

 彼を助けてくれたのは、よく見ると断じてイッカクなどではなかった。信じがたいコトに、それはなんと潜水艦のようだった。全長七〇メートルほどの巨大な紡錘形をした潜水艦で、先頭に鋭い衝角を備え、後部にはスクリューが付いている。

 艦内から船員とおぼしきふたり組が、不格好なヘルメットをかぶった姿で現れた。手にはライフルらしきものを構えている。おそらく水中で使える特殊なライフルだ。彼らは背嚢のようなものを背負っており、そこから伸びた管が球形のヘルメットへとつながっている。ひとりが背嚢とヘルメットをよけいにひとつ携えていて、サメに銃口を向けながら警戒しつつエドワーズへ近づくと、問答無用で――そもそも水中で口はきけないが――ヘルメットを彼の頭にかぶせられた。するとヘルメットからすぐ新鮮な空気が送られてきた。

 ふたりに導かれ、エドワーズは潜水艦のほうへと連れられた。継ぎ目もボルトもないなめらかな鋼鉄の船体だ。その側面がスライドして、艦内への出入り口が出現した。全員なかへ収容されて隔壁が閉ざされると、艦内にポンプの作動する音が響いて、空間内の海水が徐々に抜けていった。実によく出来た仕掛けだ。

 完全に海水が室内から排出されると、今度は目の前の扉が開き、更衣室へと続いていた。謎のふたり組はそこでヘルメットを外し、ようやくその素顔をさらしてくれた。ひとりは若い女だ。少女と言ってもおかしくない年齢に見える。燃え上がるような長い赤毛で、まるでライオンのたてがみのようでもある。その瞳は爛々と輝き、好奇心旺盛なタチだろうコトが容易に見て取れた。この部屋で待っていたのか一匹のサルが彼女に飛びついて、肩へと登った。彼女のペットだろうか。「ただいまミスター・ニルソン!」

 一方、もうひとりは精悍な顔つきをした青年だった。引き締まった屈強な体格で、流れるような黒髪と褐色の肌をしている。エドワーズはどことなく、彼の姿に見覚えがあるような気がした。

 青年は安堵したようにほほ笑んで、「ああ、どうやらおケガはなさそうですね。救助が間に合ってよかったです。ミスター・エドワーズ、僕のコトを憶えていらっしゃるでしょうか?」

「……もしかして、スタビンズ博士の助手だったインド人少年か?」

「ハイ。モーグリ・メシュアです。どうもご無沙汰しています」

「こいつはおどろいたな。しかし、なぜキミが? というかそもそも、この潜水艦はいったい何なんだ?」

「これは名もなきインドの同胞が、そのたぐいまれな頭脳と私財を惜しみなく投じて、建造した潜水艦です。その名もノーチラス号」

「……そういえば二十年以上前、世界じゅうの海で謎の巨大生物が目撃されて、なかにはそれと衝突して沈没事故を起こした事件があったな。もしやとは思うが、このノーチラス号がその正体か?」

「ええ、そのとおりです。当時の船長が何を考えてそのような行動をしていたのか、部外者の僕らが語るべきコトではありません。けれどひとつだけ言えるのは、今は亡き彼が、ノーチラス号をこの僕に託してくれたという事実です。過去の話はこのくらいにしておきましょう。紹介が遅れました。そちらの女性がノーチラス号の現船長、レイディ・ピッピ・ザ・ロングストッキングです」

 赤毛の少女はしゃべるタイミングをずっとうかがっていたようで、話を振られたとたん水を得た魚のように、「こんにちはミスター・エドワーズ。あたしがピッピ・ザ・ロングストッキングだよ。スウェーデン人の海賊、ようするにヴァイキングってヤツね。みんなチャント発音してくれないから、名前は英語風に読み替えてるの。フルネームもホントはすごく長いよ。ピッピロッタ・ヴィクトゥアリア・ルルガーディナ・クルスミュンタ・エフライムスドッテル・ロングストルンプっていうの。ああ、でも長くつ下ロングストッキングっていうのは本名だから。変わったファミリーネームでしょ? 頭のザはね、なんかビリー・ザ・キッドみたいでカッコイイから付けてみたんだけど、どうかな? あたしイケてる? イケてるよね? ねえイケてるって言ってよォ! ――あっ、ごめんごめん。忘れてないって。それで、こっちのサルがミスター・ニルソンだよ。あたしの一番古いお友達なの。ところでエドワーズって、あのピンカートン探偵社だったんだって? いいなァ、カッコイイなァ、あとでサインもらってもいい? いいよね? でもどこに書いてもらおっかなァ? 確かどっかにちょうどいい紙があったと思うんだけど――そうそうエドワーズさ、名探偵シャーベット・スコーンズに会ったってホント? 実はあたし、彼のファンでね。なんか美味しそうな名前だから好き。ねえ、スコーンズってホントに鳥打帽かぶってた? ワトソン先生の出した本の挿絵どおりかどうか、友達と百ドル賭けてて――」

 モーグリはあきれた様子で肩をすくめてため息をつくと、大声を張り上げて、「トミー! アンニカ!」

 すると部屋のドアが開き、通路からまたふたりの若い男女が現れて、慣れた様子でピッピを連れて行ってしまった。

「すみません騒がしくて。彼女も悪気はないんですけど」

「言われなくてもわかってる。ところで今のふたりは?」

「彼らは双子のトミーとアンニカ、セッターグレン兄妹です。ピッピの幼馴染で、今はノーチラス号の船員をしています」

「そういえば、このノーチラス号は前の船長からキミが託されたって話だったが、それならどうしてキミが船長じゃないんだ?」

「船旅にはよくスタビンズ博士に連れられていたので、僕も一応ひと通りの操船技術は身に着けていますが、いかんせんノーチラス号ほどの規模の船を指揮するには役者不足です。ただ航海するだけならまだしも、ノーチラス号には重要な仕事がありますから」

「重要な仕事? あんまり公言できる内容じゃなさそうだが」

「それについてはまだ話せません。とりあえず今は休んでください。これからあなたを、ある場所へお連れします。そこであるひとに会ってください。話の続きも彼からお聞かせしますので」

「……わかった。けど、ひとつだけ質問していいか?」

「ええ、かまいません。僕が答えられる範囲でよろしければ」

「妻のアイビーに、オレの無事を知らせるコトはできないか?」

 モーグリは心苦しそうに、「申し訳ありませんが、それは許可できかねます。情報がどこからもれるかわかりませんから。そのほうが結果的に奥さんの身も安全でしょうし、何よりMに対する切り札として、あなたは死んだコトにしておいたほうがこちらとしても好都合です」

「――M?」確かマイクロフトの署名が、Mの一文字だった。

「ジェームズ・モリアーティのコトです。そのコトに関しても詳しい話は、言ったようにこれから向かう場所で説明しますので。どうか少しのあいだだけ辛抱してもらえると助かります」

「事情はおおむね把握した。ワガママを言ってすまなかったな」

「いや、ワガママだなんてそんな――奥さんに無事を知らせたいと思うのは、夫として当然のコトでしょう」

「いいんだよ。アイツもオレがいなくなったほうが、きっと幸せになれるさ。危ない過去なんか何ひとつ持たない、金持ちの紳士とでも再婚してくれるコトを祈るぜ。それがおたがいのためだ」

「ミスター・エドワーズ……何もそこまで考えなくとも……」

「ほら、辛気臭い話題はこのくらいにしようぜ。目的地へ着くまでに、艦内でも案内してくれ。白状すると、子供みたいにワクワクしてるんだ。男の子ってのは、こういうの大好きなもんだろ?」

「ええ。僕でよろしければ、よろこんで。ついて来てください」

 通路へ出て、歩きながらモーグリから艦の説明を受ける。

「ノーチラス号は葉巻に似た紡錘形をしていて、全長七〇メートル、横幅は最大八メートルです。表面積一〇一一・四五平方メートル、容積一五〇〇・二立方メートル。したがって、完全に水中へ潜った場合の排水量は一五〇〇立方メートルになります。動力は石炭の熱を利用し、ブンゼン式の電池で発生させた電気を使っています。電気は船尾へと送られ、大型の電磁石を介して梃と歯車が組み合わさった装置を駆動させ、スクリューの軸へ動力が伝わります。スクリューの直径は六メートル、一回転で進める距離は七・五メートル、一秒間に最大百二十回転です。よって最大船速は時速五〇マイルですが、今は速度を抑えて時速一五マイルで航行しています――」

 ある意味で予想に反し、エドワーズは潜水艦のメカニズムそのものよりも、ここで保管されているものの数々に度肝を抜かれた。さしずめ海中移動博物館、および美術館、および図書館ともいうべきほど、貴重な品々で埋め尽くされていたのだ。

 図書室にはホメロスやユーゴーをはじめとした詩集、クセノフォンからミシュレといった歴史書、ラブレーにサンド夫人など小説、フーコーやファラデーなどの著作、アルハザードやダレット伯爵の書いた怪しげな魔導書のたぐいに至るまで、書架にびっしり詰め込まれていた。さすがにスペースの限界もあり蔵書量は一万二〇〇〇冊しかないが、ラインナップの選別眼に関して言えば、マサチューセッツ州アーカムのミスカトニック大学図書館と通じるものがある。

 また、図書館は喫煙室としても使われていて、そこで勧められた葉巻はハバナ産やオリエント産にも劣らない一級品だったが、なんとニコチンを含む海藻から作られたものだというコトだ。

 図書室の隣にはサロンがあり、多くの名画や標本などが几帳面に陳列されていた。標本は海の産物に由来するもので、ポリプや棘皮動物など、専門家ならばノドから手が出るくらい欲しがるに違いない。絵画はレオナルド・ダ・ヴィンチやルーベンス、ドラクロワなど、巨匠の作品が数えきれないくらい展示してあった。それから部屋の大部分を占有している大型オルガンの上には、モーツァルトやベートーヴェン、ワーグナーなどの楽譜が無造作に散乱していた。

 しかしそれらの展示物とは比べものにならないほど、エドワーズが魅了されたのは、サロンの開閉式窓からクリスタルガラスを挟んで覗く、海底世界に広がるあまりにも美しい絶景だった。

 また、新鮮な海産物から作られた食事はどれも絶品だった。ごく普通の魚料理に加えて、ウミガメの切り身やイルカの肝、ナマコ、クジラのミルク、イソギンチャクのジャムなど、生まれて初めて食べる珍味だらけ。ちなみに使われているカトラリーや皿の一枚一枚にいたるまで「動中に動ありMOBILIS IN MOBILE」とラテン語の刻印が命じられていた。

 そうして海底の神秘に驚愕しているうちに時は過ぎ、潜水艦ノーチラス号はいよいよ目的地へと到着した。

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