020
フランス共和国、首都パリ市。あのフランス革命から早くも百年が経ち、人類のこれまでの進歩と、これからの未来を象徴する、パリ万国博覧会が開催されている。万博会場は連日大賑わいだ。
パリ自然史博物館の特任教授ピエール・アロナックスは、自身の邸宅でひとりの少年を歓迎していた。
「ようこそダンドレジー君。来るのを待っていたよ」
「こんにちはアロナックス教授。本日はおいそがしいところをお招きいただき、ありがとうございます」
少年の名はラウール・ダンドレジー。つい先日のコトだが、アロナックスがパリ万博の会場を見学していた際、ウッカリ落としてしまったサイフをこの少年が拾ってくれたのだ。アロナックスは素性を名乗り、ぜひお礼がしたいと告げると、博物学の権威としての彼をラウールは以前から知っていたらしく、それなら彼の屋敷にある標本の数々が見てみたいとせがまれたワケだ。ラウールもまた以前から博物学に興味があるそうで、今どきの若者にしては感心だと、アロナックスもこころよく了承したのだった。
アロナックスは呼び鈴を鳴らして、「コンセイユ、私と彼にコーヒーを淹れてくれ。ミルクをタップリでね」
「
「うちの執事が淹れるカフェ・オ・レは絶品なんだ。ひとまず一服して、それから自慢のコレクションを案内しよう」
応接間でカフェ・オ・レを飲みながら談笑したあと、ラウール少年を標本の保管部屋へ案内した。
「そこに並んでいるのは、右から古生物のアルケオテリウム、ヒラコテリウム、オレオドン、ケロポタムスの骨格標本だ。それからあっちの剥製はバビルサ――イノシシ科の哺乳類で、以前アメリカのネブラスカ州へ学術調査に行ったとき、私みずからの手で生け捕りにしたものだ。残念ながら帰国する途上に死んでしまったが」
ラウールは心底感激した様子で、「実にすばらしいコレクションの数々ですね。おどろきました。きっとどれも高く売れ――いえ、どれも貴重なものばかりです。これほどのコレクションを個人で所有しているかたは、世界広しといえども、アロナックス教授くらいではありませんか?」
「いやいや、私などたいしたコトはないよ。ロンドンのネイサン・ガリデブ博士の屋敷は、そこらじゅうが標本で埋め尽くされて、足の踏み場もないほどだ。それに同じく英国の、田舎町パドルビーにあるスタビンズ博士の屋敷など、さまざまな生きた動物であふれ返り、まるで動物園のようだという。……そして今挙げた両氏さえかすんで見えるほど、とてつもないコレクションを私は見たコトがある。そこは言ってみれば、自然界と芸術界のあらゆる富を集めた博物館だった。そこに保管されていた品々は、たとえヨーロッパじゅうの博物館を訪ね歩いたとしても、まずお目にかかれないシロモノばかりでね。しかも惜しいコトに、あそこの存在を知る者は、おそらくこの地上には私とコンセイユを含めて、三人しかいない。あの場所には人類の至宝ともいうべきものが、文字どおり山のように眠っているというのに、ほかの誰も知らず、誰も立ち入るコトができないのだ。あのときは良識的な友の言葉に従い、まっとうな社会へ帰還するコトを選んでしまったが、今でも後悔しているよ。たとえ狂気に魅入られようと、私はあそこから出るべきではなかったのではないか、と。あの二万リーグの旅路を、何度も夢に見る」
「二万リーグ、ですか……その博物館は、そんな遠いところに?」
「おっと、すまない。おかしな話をしてしまったね。忘れてくれ」
「いえ。博士にそこまで言わせるなんて、それはそれはすばらしい博物館なんでしょうね。僕もいずれは行ってみたいなァ」
ラウールのウットリとした表情に、よほど博物学に興味があるのだろうとアロナックスはほほえましく眺める。ただし、その認識には相当なズレがあった。お人好しのアロナックス教授は気づいていないが、実のところ万博会場でラウールはサイフを拾ったのではなく、ひそかにふところからスったものを、何食わぬ顔で持ち主に返しただけだ。そうして裕福な博物学者と縁を作り、まんまと自宅へ招待されるコトまで成功した。今はだらしない笑みとよだれがこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえながら、お宝の数々を品定めしている。どれを頂戴するのが一番よいか、あるいはすべて残らず?
それにしてもアロナックスの語る、自然界と芸術界のあらゆる富を集めた博物館とは、どれほどのものだろうか。ラウールは俄然好奇心が湧いて来た。二万リーグの旅路とはいったい――。
ラウール・ダンドレジー――のちに怪盗紳士アルセーヌ・ルパンと名乗るコトになる少年は、まだ見ぬ財宝に想いを馳せた。
とそこへ、「旦那様、お楽しみのところ申し訳ありません」
「どうしたコンセイユ。何か悪い知らせでもあったか」
「いえ。悪いかどうかはまだわかりません。お客様がお見えです」
アロナックスは首をかしげる。「はて、客とな? 今日はほかに誰とも約束していないハズだが?」
「いえ。旦那様にではなく、ダンドレジーさんのお客様です」
「なんとダンドレジー君、今日は誰かほかに、お友達も呼んでいたのかね? いや、べつに私は一向にかまわないのだが」
「それは誤解です。この僕にもトンと心当たりがありません。というかコンセイユさん、そのひとはなんて名乗ってるんですか?」
「それが、ダンドレジーさんに会えばわかると一点張りでして……。ただし神に誓って申し上げますが、たいそうご立派な紳士のかたです。いかがいたしましょう? お引き取りいただきましょうか?」
「どうするダンドレジー君? 相手はキミのお客なのだし、キミに決める権利がある。私はその判断に従おう」
「……いえ、追い返しているところ誰かに見られて、アロナックス教授の評判を落とすコトになってはご迷惑がかかります。ただ、なかへ通すのも不安なので、こちらから玄関に出迎えるとしましょう」
ラウールは嫌な予感がしつつも、今後のコトを考えて、結局アロナックスたちの心証を悪くしない選択肢を選んだ。
「では、私はここで待っていよう。コンセイユ、ついてあげてくれ」
「かしこまりました。玄関はこちらですダンドレジーさん。とはいえ、いらっしゃったときに通ったからごぞんじでしょうが」
あるいはコンセイユが、突然来訪したその紳士について、もう少し詳しく説明してくれていたら、ラウールはなりふりかまわず裏口から逃げ出していただろう。しかし、あいにくとこの善良なフランドル人の召使は、人種でひとを判断するような人間ではなかった。
玄関の前に立つ若い紳士の姿を一目見て、ラウールは思わず口からうめき声をもらしてしまった。
「――うげえ! 誰かと思えばシンジューロー兄さん!」
「ヤァ、ひさしぶりだねラウール。元気だったかい?」
「どどどどうしてここがっ? 誰にも行き先を告げてないのに!」
「これでも日本じゃア、紳士探偵なんて呼ばれているんだ。おまえの居場所くらいチョット推理すればわかるさ」
コンセイユは胸をなでおろして、「どうやら間違いなくお知り合いのようですね。おふたりはどういったご関係で?」
「実を言うと私とラウールは、同じ師のもとで学んだ間柄でして。年が離れているので、実の弟のようにかわいがっていましたよ」
結城新十郎はやさしげにほほ笑む。けれどもその瞳が笑っていないコトを、ラウールは気づいていた。明らかに怒っている。
「……おや? ラウールさん。どうかされましたか? そんなに震えて。汗もひどいし、もしやお風邪を召されたのでは?」
「おおラウールこれはいけないアロナックス教授に風邪をうつしてはよくないぞせっかくの機会だが今日はもうおいとましたほうがいいだろう私が下宿まで送ってあげよう申し訳ありませんコンセイユさんまともにあいさつもせず恐縮ですがこれで失礼させていただきますアロナックス教授にはよろしくお伝えくださいではアデュー!」
そう早口でまくし立てると、新十郎はラウールのカラダを抱えて馬車になかばムリヤリ押し込むと、あっという間にその場を去ってしまった。あとには困惑するコンセイユだけが残された。
「……お大事に。一応旦那さまの体調もチェックしておきましょう」
狭苦しい馬車のなかで、新十郎は御者に会話が聞こえないよう声を潜めながら、「まったくおまえというヤツは、デュパン先生から教わった探偵術を、よりによって盗みに応用するだなんて。きっと先生も草葉の陰で泣いているぞ」
「いやいや、まだ盗んでないって! サイフだってふところから抜き取っただけで、チャントすぐ返したんだし」
「だが、いずれは盗むつもりだろう? そんなにカネが欲しいか? それとも盗みのスリルを味わいたいのか?」
「……ていうかシンジューロー兄さん、日本に帰ったんじゃなかったの? パリ万博見に来たってカンジじゃないし、もしかして僕に会いたくなった? 案外さびしがり屋だよね兄さんは」
「おまえはまたそうやってはぐらかす……まァいい。確かにフランスには、おまえに会いたくて来たんだ」
ラウールは目を丸くして、「エッ? 本気? サムライはみんなソドミーが大好きって聞いたけど、うわさはホントだったんだなァ――でもゴメンね兄さん、あいにく僕にそっちのケはないから」
「妙なカンチガイをするなバカ。……実はおまえに、手伝ってもらいたい仕事があるんだ。もちろんおまえに拒否権はないが」
「うわ、ひっでえ。まァべつにヒマだし、いいけどさ。仕事ってどこで? 日本? 期間はどのくらいかかる?」
すると新十郎は悪戯っぽい笑みを浮かべて、「――よろこべラウール。これからおまえを、海底二万リーグの冒険へ連れてってやる。おまえが大好きな金銀財宝の山に、見目麗しい美女もついてくるぞ」
「……ハァ?」ラウールは一瞬、兄弟子の頭がおかしくなったのかと思ったが、「二万リーグ」というキーワードに引っかった。それはついさっき、アロナックスが口にしていたのと同じ言葉ではないか。偶然とは思えない。何か関係があるのだろうか。
何がなんだかわからないが、ラウールは期待に胸を躍らせた。
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