019

 イリノイ州シカゴにある、ピンカートン探偵社本部。ニューヨークから帰還したバーディ・エドワーズは、帰ってそうそう社長に呼び出されて、彼の執務室を訪れた。社長のアラン・ピンカートンは不機嫌そうに葉巻をくゆらせている。

「……失態だなエドワーズ。いつものおまえらしくもない」

「面目しだいもありません。今回の一件、すべてはオレの責任です。どんな処分も甘んじて受け入れます。……だからその代わり、シンジューローのコトは堪忍してやってください。おねがいします」

「おまえに言われずとも当然だ。未熟な助手に責を負わせるほど、この私は恥知らずなつもりはない」

「そいつを聞いて安心しました。……ところで、せっかくシンジューローに目をかけてもらってるトコ言いづらいんですが……実を言うとアイツ、うちを退社する腹積もりみたいでして」

 ピンカートンは心底面食らった様子で、「なぜだ? 当人がこの件で責任を感じていると? それとも給料に不満が?」

「それがですね、どうも次はフランスへ留学したいらしくて。オーギュスト・デュパンに弟子入りするんだとか」

「そうか。有望な若手を失うのは遺憾だが……彼の将来にとっては、そのほうがいいのかもしれないな。そもそも、いずれは日本へ帰国する予定だったのだし、それが早まったと思うしかあるまい。この際だから、デュパン氏には私から紹介状を書いておこう。これまで熱心に働いてくれた礼だ」

「ありがとうございます。シンジューローもきっとよろこびますよ」

 ピンカートンはふたたびいかめしい表情に戻り、「さて、それではエドワーズ、おまえの処分についてだが――その前にひとつ、伝えておくコトがある。マイクロフト・ホームズ氏から電報で連絡があった。無事に英国へたどり着いたそうだ」

「そいつはホントですかッ」エドワーズは悲鳴じみた声で言った。

「どうした? あまりうれしそうではなさそうだが」

「いえ……べつにそんなコトはありませんが……」

 ホテルの焼け跡からは、逃げ遅れた宿泊客たちの焼死体が複数あり、身元の判別がつかない状態だった。ゆえに生存は絶望的かと思っていたのだが――。いったいどうやって、エドワーズたちやシークレットサービスの包囲網に気付かれず脱出したのか。

「残念ながら、エドワード・ハイドを火災現場から連れ出すコトはできなかったそうだが。ピンカートン探偵社の失態にもかかわらず、報酬は全額支払ってくれるとのコトだ。寛大な依頼人に感謝しろ。おまえとシンジューローに対しても礼を言っていたぞ」

「そうでしたか……オレには礼を言われる資格なんかないのに……」

 ハイドを英国へ連れ帰れなかったというコトは、マイクロフトの抱いていた計画は、水泡に帰したワケだ。それならそれでよかったのかもしれない。やはりあの秘薬は使われるべきではなかったのだ。

 しかし、なぜだろう。さっきから妙な胸騒ぎがおさまらないのは。

「むろん、当の依頼人が気にしていないとはいえ、失態は失態だ。やはり責任は取ってもらうぞエドワーズ」

「もしかしてクビ、ですか……? もちろん言ったとおり、どんな処分だろうと甘んじて受け入れますが」

「まさか。おまえまでフランスに行きたいなんて言い出したとしたら、私には引き止められないが、まだおまえが貴重な人材であるコトに変わりはない。それに今回は不運も重なったしな。だから処分というよりむしろ、名誉挽回のチャンスを与えてやる。ただし、相当過酷な仕事になるかもしれんが」

「なんだか嫌な予感がするんですが。いったいどんな依頼です?」

「実は連邦政府からの依頼でな。卓越自由民団を知っているな?」

「ええ、まァ。アイルランド系移民の労働組合ですよね。国内のあちこちに支部があるとか。確かこのシカゴにも。連中が何か?」

「それが何でも、連中には労組を隠れ蓑にして、組織的な犯罪をおこなっている疑いがあるらしい」

「ハァ……ずいぶんまた漠然とした容疑ですね。それ信憑性があるんですか? 卓越自由民団って言ったら、近ごろの過激に走り勝ちな労組と比べて、めずらしいくらい善良な集団と聞いてますが。ストライキだけじゃなくて、社会奉仕にも率先して取り組んでるってハナシだったような……」

「当局も正直、まだ半信半疑らしい。だからこそみずからではなく、われわれ私立探偵に事前調査を依頼して来たのだろうが……。とはいえ、いくら眉唾なネタでも無視はできまいよ。卓越自由民団ほども大規模な組織が、犯罪に関わっているとなれば」

「確かに、笑い事じゃア済まされないでしょうね」

「とまァそういうワケだ。アイルランド系であるおまえに、卓越自由民団へ潜入してもらいたい。なァに、同郷の者たちの無実を証明するとでも思ってくれればいいさ。そのほうが気も楽だろう」

「ナルホド。了解しました。それで、期間はいつから?」

「すぐにだ。明日からでもさっそく動いてほしい。ニューヨークから帰って来たばかりで済まないが」

「べつにかまいませんよ」エドワーズは苦笑して、「失態した処分の一環とでも考えるコトにします。ただ、今夜くらいは好きにさせてください。シンジューローに一杯おごる約束してましてね」

「せいぜい名残り惜しめ。潜入期間は無期限だから、しばらくは落ち着いて酒も飲めんだろうし」

 エドワーズは思わずうめいた。「いくらなんでもそりゃアあんまりだ。無期限? 証拠が見つからなかったら一生そこで暮らせと?」

「ようはおまえの頑張りしだいだ。早く終わらせたければ、さっさと証拠をつかむといい。手始めにシカゴ29支部へ潜り込め。明日からおまえは、アイルランド人労働者のジョン・マクマードだ」


 その後、バーディ・エドワーズは二年以上もシカゴ29支部に潜入し、卓越自由民団があくまで無害な組織だと確信する。そして、その判断をより強固なものとするため、次にペンシルバニア州にある炭鉱の街、ヴァーミッサ谷の341支部へ潜入するコトになるのだが――そこでの出来事が、おのれの人生を一変させるコトになろうとは、このときの彼は知るよしもなかった。その出来事、すなわち『恐怖の谷』にまつわる事件の詳細は、いずれジョン・H・ワトソン博士の手により出版される小説が、あまさず語ってくれるコトだろう。

 ――そして物語の舞台は、一八八九年の英国領セントヘレナ沖、旅客船パルミラ号へと続く。

 ジェームズ・モリアーティは、バーディエドワーズが船から落ちて沈んだ海面を眺めていた。その部分の海水が赤く染まって、すぐに拡散して薄まりふたたびの青へ。モリアーティは満足げな笑みを浮かべて、海から背を向けて船室へと降りて行った。

「さらばバーディ・エドワーズ。最初にして最後のわが友よ」

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