018

 エドワーズたちが部屋を出て行ったあと、マイクロフトは正直途方にくれていた。シークレットサービスによる包囲からの脱出手段を考えるよう託されたが、思考が混乱していて、何も思いつきそうにない。不安ばかりがつのっていく。

 一応おのれの頭脳には、それなりに自信はある。かのオーギュスト・デュパンと比べて、けっして推理力では劣らないのではないか。だがそれをもってしても、この切羽詰まった状況を切り抜ける方策が、一向に浮かんでこなかった。もちろんいくつか候補は考えてみたが、どれも実現性にとぼしく、成功する気がしない。

 例えば、ハイドがジキルに変身するのはどうだろうか。さすがのシークレットサービスも、ジキルとハイドの関係についてはおそらく知らないハズだ。ゆえにジキルの姿で連中の目の前を通り抜けても、正体に気づかれるコトはないだろう。

 ただしここで問題なのは、どうやって目立たずに外へ出るか、だ。この騒動にほかの宿泊客は逃げようとせず、どうやら部屋に閉じこもって息をひそめているようだ。安易に外へ飛び出したら誤射されるかもしれないし、マイクロフトたちの仲間とカンチガイされるおそれもある。ゆえに賢明な判断と言えるだろう。しかし逆を言えば、そんな状況でジキルがノコノコが出て行ったところで、無関係だと見逃してもらえるかは怪しい。ましてやハイドがジキルに変身するには、大量に瀉血する必要がある。貧血状態の青い顔をさらしていては、不審がられるのが目に見えているではないか。ネズミ一匹逃がさないとはよく言ったものだが、この状況ではネズミ一匹が視線を独り占めしてしまうだろう。

 また、マイクロフト自身の面が割れている可能性も考慮しなければならない。敵はこちらの動きを正確につかんでいたようだから、マイクロフトの人相についても把握しているコトは十分ありえる。だとすると、彼と行動をともにしているジキルは謎の共犯者だ。変装術には多少の心得があるものの、今は準備が足りない。

 ならば、シークレットサービスがホテルへ突入した混乱に乗じるのはどうか。このホテルは広いから、顔を見られないようやりすごすなり、不意を打って各個撃破していけば、上手く外へ抜け出せるかもしれない――いや、さすがに考えが甘いか。地の利がこちら側にあるのならばともかく、マイクロフト自身もこのホテルの見取り図を把握しているワケではない。それから、敵も出口に見張りを残しているコトだろう。刑事としては恥ずかしいかぎりだが、アメリカの屈強な捜査官相手に力ずくで突破できると思えるほど、マイクロフトは荒事向きではない。この場にいるのが自分ではなく弟のシャーロックであれば、たとえ数人がかりで襲われたとしても、鼻唄交じりに次々と敵を投げ飛ばしてしまうのだろうが。

 そうしてマイクロフトが頭を抱えてうなっていると、ふいにハイドが告げた。「……おい、マイクロフト・ホームズ。実は俺にひとつ、妙案があるんだが、おまえに聞く気はあるか?」

「本当ですかジキル博士? 手があるなら教えていただきたい」

 するとハイドは襟首をゆるめて首筋をさらし、「俺の血を飲め」

「……何を言い出すかと思えば、いったい何のジョークです?」

「ジョークじゃない。俺は本気だ。いいから話を聞け。ほんの一滴だけでいい。俺の血液に宿る秘薬を飲めば、悪知恵が働くようになる。ふだんは良心が邪魔して、無意識に除外している選択肢を思いつけるようになるのさ。いつもなら考えもしない、下劣外道なやり口を」

「ふっ――ふざけるな! 私にそんなマネができるか!」エドワーズはジキルに敬意を払っていたのも忘れて怒鳴った。

「そんなマネ? そいつは血液を口にするコトが? それとも非情な手段を取るコトが? なァマイクロフト、こう言っちゃアなんだが、おまえの目的と比べて、それらのおこないは絶対に受け入れらないのか? だからあきらめてもしかたがないって? さっきエドワーズに言われたコトを思い出せ。いいかげん覚悟を決めろ」

 マイクロフトは言葉に詰まった。まったく反論できない。

 確かにおのれには、どうやら覚悟が足りていなかったようだ。何が何でも目的を遂げようという、確固たる覚悟が。このままではきっとダメなのだ。何かの犠牲なしには、大義を果たすコトなどできない。あらためて彼は悟った。

「……わかりました。あなたの言うとおりだジキル博士。私はきっと今この瞬間、神に試されているのだろう。この私に、使命に準じる覚悟があるのかどうか。あなたの血を飲ませてくれ。私はそれを聖餐のワインと思うコトにしよう」

「よく言ったマイクロフト。さァ、ぞんぶんにすするがいい」

 マイクロフトはナイフでハイドの首筋を浅く切り裂き、浮き出た血のしずくを舌でなめた――。

 すると瞬間、まるで霧が晴れたかのように、彼の脳内を思考がよどみなく駆けめぐった。先ほどまでは思いもしなかった打開策が、次々と湧き上がってくる。刑事失格、いやたとえ人間失格と罵られても、文句は言えない策の数々が。

 ホテルの客を人質にするのはどうか? たくさんいるし選び放題だ。――いや、シークレットサービスがどこまで人質の無事を考慮してくれるか、判断がつかない。それに逃亡するとき人質は足手まといだし、一度殺してしまえばそれまでだ。少なくとも、今この状況で効果的とは言いがたい。

 突入して来たシークレットサービスを各個撃破するのは? 逃げるためではなく、積極的に殲滅するのだ。こちらに地の利があるとは言いがたいが、待ち伏せできる分だけいくらか優位性はある。さっきまでその自信はなかったが、今なら不思議とやれそうな気がしてきた。――ただし、敵の頭数を正確に把握できていない状態では、この手段はあまり賢明とは言いがたいか。却下だ。

 であれば、火事を起こすのはどうだろう。火事でほかの宿泊客が避難するのにまぎれれば、目立つコトなくこの場を脱出できる。ただし、ハイドのままでは見とがめられるおそれがあるので、やはりジキルに変身させる必要はあるだろう。――いや、待て。貧血状態のジキルを連れて、火事の混乱のなか上手く逃げ出せるものだろうか。下の階から放火しなければ効率よく燃え広がらないのだし、先に一階へ降りてから行動を開始すれば、火と煙に巻かれて逃げられなくなる心配はないだろうか――もちろん宿泊客のなかには、逃げ遅れる者も出るかもしれないが――けれども、大挙する避難者にまぎれるとなると、貧血のフラついた足取りでは不安が残る。それから、マイクロフトの面が割れているかどうかもやはり気になる。現状で判断がつかない以上、うかつな行動は取れない。

 あらためて問題点を整理してみる。マイクロフトの面が割れている可能性を捨てきれないコトと、ジキルに変身したときの貧血状態では足手まといだというコト。ようするにこの二点さえどうにかできてしまえば、すべて解決する。

「――なんだ。思いついてみれば、カンタンなコトじゃアないか」

 マイクロフトはおのれの悪魔的な発想に、われながら戦慄した。いや、ふだんの彼であれば、おそろしさのあまり震えおののいただろうが、今はむしろ、おのが頭脳の冴えに惚れ惚れしていた。その陶然とした薄ら笑いに、それを見たハイドが身震いする。

「どうしたマイクロフト? いったい何を思いついたんだ?」

「なァに、初歩的なコトですよジキル博士。何もむずかしく考える必要はなかったんです。ただ、こうすればよかった」

 そう告げるや否や――マイクロフトはハイドの首筋を、ナイフで深く切り裂いた。突然の凶行で困惑するハイドにかまわず、おびただしい血液が噴き出す傷口に唇を当て、ノドを鳴らしてガブ飲みする。さながら吸血鬼のように。

「ああ、美味い。こんなに美味いワインは飲んだコトがない」

 大量に血液を失ったハイドはジキルへと変身するが、もはや力なくうなだれている。そのまま死に至るのも時間の問題だろう。

 それこそ、ジキルのカラダが枯れはてかねないくらい、自分でもおどろくほどの血液を飲み干したマイクロフトに、そのうち異変が起こった。彼の全身に、この世のものとは思えぬほどの激痛が走る。まるで骨を粉砕されるかのような痛みと、猛烈な吐き気に襲われた。そして、生死のはざまをさまようのに似た恐怖――。

 やがて痛みが消えたかと思うと、大病から回復したときのようにわれを取り戻した。何やら言葉にできない奇妙な感覚があり、それは何だか新しく、甘やかで軽やか、非常に満ち足りた気持ちになった。たとえ全裸で大通りを駆けまわったとしても、これほどまでに魂の自由を感じるコトはできないだろう。今やおのれは、かつてないほど邪悪でありながら赤子よりも純粋であり、あらゆる束縛から解放されていた。何より自分自身という束縛から。その事実がマイクロフトを、抑えがたいほどの歓喜に陶酔させてくれた。

 部屋に備えつけられている鏡を覗き込むと、そこには見知らぬ男の姿が映っていた。非常に高身長だが背中は丸まり、やせ細っていた。白い額は弧を描いて突き出て両目は深く落ちくぼみ、ひげがきれいに剃られた顔は青白く、さしずめ苦行者だ。どこか爬虫類じみている。どこかあのジェームズ・モリアーティに似通っている気もするが、それは顔かたちの造形ではなく、身にまとった雰囲気が近しいように感じた。

 おそらくまともな者が彼と相対すれば、嫌悪と不快を感じずにはいられないハズだが、マイクロフト自身からすると、水面に映ったおのれに恋するナルキッソスの気分だった。胸が高鳴る。とはいえ、いつまでも見とれている場合ではなかった。

 ひとまず血で真っ赤に汚れた口元を水で洗い流し、返り血が付いた服を手早く着替えた。それから灯りのロウソクを使って、一階へ向かって移動しながら、そこらじゅうのカーテンや絨毯に着火してまわる。ただし、逃げ道が炎でふさがれないように注意しながら。べつに犠牲者を出さないためではなく、チャントみんなそろって逃げてくれなければ、目くらましとして使えないからだ。

 作業がひととおり済んだら一階の階段裏に隠れ、状況の推移を待った。そのうち火事に気付いた宿泊客たちが、次々と部屋から逃げてきたので、大挙する人々にまぎれてホテルの外へ。

 ホテルの正面では、エドワーズが炎上する建物内へ飛び込んでい行こうとするのを、シークレットサービスの捜査官たちが三人がかりで羽交い絞めして、必死に制止しようとしていた。

「放せ! 放せってんだクソッタレ! マイクロフトがまだなかにいるんだよ! それにハイドも! きっと逃げ遅れちまったんだ!」

「バカ! よせって! 危険すぎる! 消防隊の到着を待て!」

「うるせえ! それじゃア間に合わねえだろうが!」

 そうやって彼らが言い争っているのを尻目に、皮肉にも命知らずの火事場泥棒たちが炎へ突っ込んでいく。

 エドワーズに無事を知らせるより、このまま行方をくらましたほうが、きっとおたがいのためだろう。とはいえ、マイクロフトたちの安否を本気で心配しているエドワーズの姿に、マイクロフトの目から思わず涙がこぼれ落ちた。そしてその事実は、ジキルの仮説が正しいコトを証明してもいた。

 秘薬の薬効は、服用した人間の悪性ではなく、あくまで抑圧された本性を引きずり出す。まさか感激のあまり泣いてしまうだなんて、もとのマイクロフト・ホームズであれば絶対ありえなかっただろう。恥ずかしさすら感じないとは。

 誰にも聞こえないよう、マイクロフトはそっとつぶやく。「さらばバーディ・エドワーズ。キミとの旅はなかなか楽しかった。もしかするとこの胸の思いが、いわゆる友情というヤツだろうか?」

 裏路地へ入って、火災現場から遠ざかる。夜明けまで適当に時間をつぶし、朝になったら港でリヴァプール行の船に乗ろう。

「チョットそこの旦那? あたしと遊ばない? たっぷりサービスするわよ。何ならお安くしとくからさァ」

 暗がりで売春婦に声をかけられてしまった。明るいところで、こちらの邪悪さがにじみ出た人相がチャント見えていれば、いかにカネ目当てとはいえ、間違っても誘うコトはなかっただろう。その点で彼女は運がなかったと言える。

 そういえば一番肝心なコトについて、それなりに確信はしていたが、確証を得ていなかった。なるべく早く確かめておくべきだろう。

 マイクロフトはナイフでおのれの手首を切ると、傷口に吸いついて血を口へ含む。そのまま売春婦に近づいて、力ずくで口づけした。舌をねじ込んで唇をこじ開け、血液をムリヤリ流し込んで飲み込ませる。女は抵抗したが逆らえなかった。

「――ちょ、イキナリ何を! ていうかこれ血? 血よね? なんてもの飲ませるのよアンタ! ヘンな病気持ってないでしょうね?」

「キスというのは、存外たいしたコトはないな……気分はどうだ?」

「ハァ? そんなのサイアクに決まってんじゃない! このド変態の異常性愛者が――ああ、もう嫌ァ。こんな汚らわしい仕事やりたくない。好きでもない男に抱かれるなんて」

 売春婦は顔を羞恥心と赤らめたかと思いきや、今度は自責の念で青ざめて、どこかへ走り去ってしまった。

 どうやら無事に期待通りの結果を得られたようだ。エドワード・ハイドの肉体に宿っていた秘薬の力は、そっくりそのままマイクロフトへと受け継がれたらしい。これで英国へ帰りしだい、さっそく計画を開始するコトができる。

「……いや、チョット待て。この計画には明らかに穴があるな」

 悪知恵が冴えわたる前は気づけなかったが――というより無意識に気づかないようにしていたのだろう――逮捕した犯罪者を秘薬が反転させたところで、単に再犯を防げるだけであって、英国から犯罪者を一掃するには及ばない。なぜなら、新たな犯罪者は次々に生まれるのだから。悪人を善人に変えるだけでは片手落ちだ。

 では、悪を根絶やしにするにはどうすればよいか。悪い芽を残らず根絶やしにするためには――。

「――そうか。ひらめいたぞ。秘薬を手当たりしだいにバラまけばいい。そうすれば捕まっていない悪党は善人になるし、犯罪を犯しかねない悪意を隠し持つ人間は、そうそうに悪事を犯して逮捕される。そうすればいずれ、英国から犯罪者は消え去るだろう。ああ、それがいい。完璧な計画だ」

 マイクロフト・ホームズはおのれの天才的な発想に酔いしれて、夜のニューヨークでひとり、得意げに高笑いを上げた。

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