017
サンフランシスコから大陸間横断鉄道に乗って、たった七日間でニューヨークへ到着した。ハイドを護送しているあいだ、三人に会話はほとんどなかった。
エドワーズは、本当にこのままハイドを英国へ引き渡してよいのか迷い続けて、結局答えは出ないままだった。感情的にはマイクロフトの考えに賛同できない。けれども、まともに反論できるだけの論理的な根拠が思いつかずにいたのだ。そもそも反論すべきコトなのかもわからない。正義は相手にある。
リヴァプール行の定期船は明日に出港する。今夜はマンハッタン島のホテルに部屋を取った。ホテルは八階建てで、部屋数がなんと全六三〇室とくれば、南部の安宿が馬小屋に思えてしまう。ハイドをホテルの部屋に閉じ込め、逃亡しないよう交代で夜通し見張るコトにした。彼はマイクロフトの計画に協力的な態度を見せており、逃げようとする素振りは一度も見せていないが、まだ油断は禁物だ。たとえハイドが逃げなくとも、ハイドの首を横取りしようとする賞金稼ぎが襲撃してくるかもしれない。あるいは懸賞金目当てではなく、英国への身柄引き渡しを不服に思って阻止しようとする者も。
サンフランシスコを出発する前、ハイドを確保しニューヨークまで護送する旨を、シカゴのピンカートン探偵社へ電報で知らせておいた。その際ついでに、シークレットサービスの動きが気になるので調べるよう頼んである。なにせ財務省のあるワシントンD.C.とニューヨークは、目と鼻の先だ。用心しておくに越したコトはないだろう。何か連絡が届いているかもしれないので、急ぎ新十郎を電信局へ遣いに走らせた。雑用ばかりで本当に申し訳なく思う。
室内でハイドを尻目に、マイクロフトとエドワーズが向かい合う。
「どうした? 私に何か言いたそうな顔だなエドワーズ」
「……べつに。何もねえさ……何も……。オレが言えるコトは、言うべきコトは、今さら何ひとつねえ」
「私の依頼を受けたコトを後悔しているのではないかね?」
「後悔……?」エドワーズは鼻で笑い、「いや、それはねえな」
マイクロフトは感心した様子で、「ほう、なぜだ? 私と関わり合いにならなければ、よけいな悩みを抱えずに済んだだろうに」
「ピンカートン探偵社で一番多い仕事が、何だかわかるか?」
「ハイドやソーヤー一味のような賞金首を追うコトでは?」
「違う。政府から連邦法違反の犯罪者の捜索を下請けとか、強盗被害に遭った銀行や鉄道会社なんかが依頼してくるコトはあるが、ヤパリそういう仕事は賞金稼ぎのほうが一枚うわてだ」
「なら要人の身辺警護か? そういえば社長のアラン・ピンカートンが、リンカーン大統領の暗殺を防いだという話を聞いたコトもあるし、今回の依頼は私の護衛も兼ねているのだったな」
「それもハズレだ。――正解は、労働組合の監視とスト破りだ。会社に雇われてストライキを潰すんだよ。武装した労働者たちを、陸軍に代わって鎮圧する。私立探偵とはよく言ったもんだが、オレたちはまさしく民間委託の治安維持組織だ。オレに支払われる給料の大半は、虐殺された労働者たちの血で汚れてやがる」
「エドワーズ……」
「だが今回の依頼では、ひさびさに探偵らしい仕事ができた。だから正直、アンタには感謝してもいいくらいだぜ。マイクロフト」
「……そうか。それならいいのだが。納得したよ」
「サンフランシスコでアンタに言われたとおりだ。もうよけいなコトは考えねえでおくさ。とにかくアンタとハイドを、無事にリヴァプール行の船へ乗せてやる。それで今回の依頼は完了だ」
「……英国へ帰ったら、秘薬の件とはべつに考えているコトがある」
「何だ?」
「最低限、馬の御しかたくらいは覚えておこうと思っていてね」
「ナルホド、それもそうだ。今回シンジューローには頼りっぱなしだったしな。オレもひさびさに、乗馬の練習でも――」
と、部屋の外の廊下を、何者かがあわただしく駆ける足音が聞こえてきた。こちらの部屋へ近づいてくる。エドワーズとマイクロフトは経過して、おたがいホルスターからピストルを抜く。
足音は部屋の前で止まり、ノックを一回、短く連続で三回、間を開けて二回とくり返した。あらかじめ決めていた合図だ。エドワーズは入り口のカギを開けて、新十郎を室内へ迎え入れた。
どうやら電信局から全速力で走って戻ったらしく、新十郎は全身汗だくで呼吸も荒い。相当あわてている様子だ。
「どうしたシンジューロー? 何か悪い知らせでもあったのか?」
「――悪いも何も、エドワーズの悪い予感が的中してしまいましたよ。シークレットサービスに、こちらの動きが気づかれました。二日前にピンカートン探偵社へ、マイクロフトとハイドの件で問い合わせがあったそうです。とりあえず社長はシラを切りとおしてくれましたが、さすがに連中も信用してくれたとは思えません」
「しかし連中はロジャー・プレスコットを追うのに夢中だったハズだぜ。まさかヤツが逮捕されたのか? 新聞には載ってなかったが」
「それがどうもプレスコットのヤツ、英国へ逃亡したみたいで……」
エドワーズは思わず苦笑いした。「そいつは考えうるかぎりサイアクのシナリオだな。神様も意地が悪い」
逃亡と身柄引き渡しの違いはあっても、プレスコットだけでなくこの上ハイドまで英国へ逃れたとあっては、シークレットサービスの面目丸つぶれだ。そんな事態は全力で阻止しようとするだろう。
マイクロフトは不安そうに、「これで本格的に連邦政府と敵対するコトになってしまったな。今さらかもしれないが、逆らって本当に大丈夫なのか? ピンカートンもしょせんは一企業だろう?」
「ハイドの身柄はすでにオレたちが拘束してる。それを横取りするようなマネは、たとえ政府だろうと許されねえ。じゃねえと、そもそも賞金稼ぎって仕事が成り立たねえからな。それがアメリカだ」
「だがその約束は、捕まえた犯罪者の身柄を懸賞金と交換するコトが前提ではないのかね? むしろ、われわれが犯罪者をかくまっていると言われかねないのでは? そうなればわれわれも共犯だ」
「そのときはそのときだ。それよりも今考えるべきは、シークレットサービスがこっちの情報をどのくらい把握してるか、だが……」
「連中はここ数年足らずで、大幅に勢力を拡大してきましたからね。当初は偽造通貨の摘発だけだったのに、今じゃ連邦保安官よりも権限と管轄が広いんじゃアありませんか? シークレットサービスが本気になったら、逃げきれる犯罪者なんていませんよ」
「とにかく用心に越したコトはねえ。このホテルは引き払って、船の出航までファイブ・ポインツに隠れていよう」
「
「ファイブポインツってのは、ようするにスラム街のコトだ。アイルランド系のギャングが乱立して、長いあいだ激しい勢力争いを続けてる。あそこはたとえ官憲だろうと、おいそれと手出しはできねえ領域だ。デッドラビッツのジョン・モリッシーはオレにひとつ借りがある。一晩くらいならかくまってくれるハズ――」
そのとき、ホテルの外で一発の銃声が鳴り響いた。エドワーズたちは用心して部屋の窓から下を覗き込むと、武装した十数名の人間が、ホテルの正面に陣取っているのが確認できた。
ピストルを発砲した、集団のリーダー格と思われる男が大声を張り上げて告げる。「耳の穴かっぽじってよォく聞けェ! おれはシークレットサービスの、ハックルベリー・フィン捜査官だ! スコットランドヤードのマイクロフト・ホームズ! ならびにピンカートン探偵社のバーディ・エドワーズとその助手ッ! 三分間だけ待ってやる! エドワード・ハイドの身柄を連れて、下へ降りてきやがれ! いいか? 三分だぞ! 三分経っても出てこなかったら、そのときは武装した捜査官が一斉に突入する! 念のために言っておくが、手加減してもらえると思うなよ? ハイドはどうせ絞首刑になるのが決まってるし、英国へわたすくらいなら、いっそここで殺しちまったほうが世話ねえ! それを邪魔するヤツも同罪だ! おれがひとり残らずぶっ殺してやる! わかったかァ!」
「あの、すみませんフィン捜査官。よろしいですか?」
「あァ、なんだよドラモンド? 今いいトコだったってのに」
「今のムダに長ったらしい演説で、もう残り二分を切ってますが」
「うるせえ。いちいち細けえんだよおまえは――ったく、今この瞬間から三分だ! わかったら、出来るかぎりさっさとしやがれ!」
エドワーズはおどろきを通り越してあきれ返った。まさかここまでシークレットサービスの動きが早いとは。
新十郎は不服そうに、「なんですかあの男は。アップル・ベリーだかディングル・ベリーだか知りませんが、アイツ僕の名前だけ呼ばないで抜かしましたよ? まるでひとをオマケみたいに扱って」
「カッカすんな。ここを無事に切り抜けられたら一杯おごってやる」
「……どうする? われわれ三人で連中に対抗できるか?」
「まァ、ムリだな。数が違いすぎる。正面に見える連中だけともかぎらねえし。ここは逃げるのが賢明だ」
「しかし明らかに正面突破はムリだし、当然裏口も封鎖されているだろう。どうやって逃げればいい?」
「せめてハイドが人質として通用すればな……とにかく今は時間がねえ。新十郎! オレらだけで降りて、テキトーに時間稼ぎするぞ。マイクロフトはそのあいだに、何とか脱出手段を考えてくれ」
「行き当たりばったりか。まったく、ムチャを言ってくれる」
「だがほかに方法はねえ。ハイドの身柄を横取りされたくねえんだろ? 英国の犯罪者を一掃するんだろ? だったらここで覚悟を決めろ。……一番肝心なときに役立たずで、すまねえが」
「いや、頼りにしている。せいぜい時間を稼いでくれたまえ」
エドワーズと新十郎は部屋を飛び出し、大急ぎで廊下を走って階段を駆け下りた。このときばかりは八階建てがうらめしかった。
「新十郎、おまえは裏口へまわれ。ひとりでも見張りを片付けられそうなら、マイクロフトとハイドを連れて包囲を強行突破しろ。ただし捜査官を殺すな。オレは正面でギリギリまで時間を稼ぐ」
「わかりました。でも、ひとりで大丈夫ですかエドワーズ?」
「なァに、おまえほどじゃアないが、オレだって腕っぷしには自信がある。それに銃の腕はオレのほうが上だ」
とはいえ、銃を抜いた時点でこちらの負けだろう。敵の数がリボルバーの装弾数六発より多い。だいたいシークレットサービスに公然と歯向かえば、エドワーズたち個人の問題ではなくピンカートン探偵社の看板にも傷がつく。もっとも、それは素手で抵抗したところで同じコトなのだが。どうにか口八丁で済ませたいところだ。
「何だったらおまえ、そのままマイクロフトを英国まで逃げたらどうだ? アメリカより向こうのほうが、おまえの望みに近い探偵技術が学べるだろうぜ。社長にはオレから伝えておく」
「……いや、スコットランドヤードだってそんなに大差ないって話ですよ。ミスター・ホームズみたいに推理力のある刑事はまれのようですし、その彼も今回の件が終われば、いそがしくなりそうですから。どうせならドーバー海峡をはさんでフランスへ渡って、かのC・オーギュスト・デュパンに教えを請いたいところです」
「そいつはいい。おまえには銃をぶっ放してばっかの荒くれ者じみた探偵より、上品に推理する紳士的な探偵のほうが向いてる」
「ナルホド。じゃあ紳士探偵ですね。日本美男子とか西洋博士って二つ名も考えていたんですが」
「なんだそりゃアおい? おまえ案外センスねえな」
エドワーズはあえて明言を避けたが、これでもしものときは新十郎がすでにピンカートン探偵社を辞めていたコトにしてしまう。そもそも彼はアメリカ人ではなく日本人留学生だし、シークレットサービス相手でも多少のムチャはできるというワケだ。
「……死ぬなよ」口に出してすぐ、ガラにもないコトを言ってしまったとエドワーズは後悔した。
そんな彼の心情を見透かしたのか、新十郎は愉快そうに、「そういうエドワーズこそ。どうか無事で。あんまり相手を挑発しすぎないように。見たところあの捜査官、かなり気が短そうですし」
「わかってねえな半人前。だからこそ付け入るスキがあるんだぜ」
エドワーズは意を決して、ホテルの正面玄関から歩み出た。
フィン捜査官はその姿を一瞥するや、苛立ちもあらわに、「そこにいるのは、ピンカートン探偵社のバーディ・エドワーズか」
「そうだ」エドワーズはゆっくりと答えた。「バーディ・エドワーズはここにいる。オレがバーディ・エドワーズだ」
「だまれ。てめえなんかお呼びじゃねえんだよ。それよりエドワード・ハイドはどうした? 連れて来いって言ったろうが」
「マイクロフトといっしょに、部屋で引きこもってるぜ。アンタがあんなすごい剣幕でおどすもんだから、おびえちまって出て来れねえんだよ。出て行ったら問答無用で撃ち殺されるってな。部屋の隅のほうで抱き合って、ガタガタふるえていやがる。まったく、英国野郎は格好ばっかつけてて、根性ってもんがなってねえ」
「おっと、そいつは配慮が足りなかったか。素直におとなしく出てくるなら、こっちもべつに危害を加えるつもりはねえのに。ハイドは絞首刑確定と言ったが、そりゃアあくまで野蛮な南部と西部の話だ。文明的な北部の東海岸じゃア、チャント裁判にかけられてから刑が決まる。死刑にならない可能性もまだゼロじゃねえ」
「けど、ハイドはどうせ裁かれるんだったら、イングランドの法廷で裁かれたいって言ってるぜ」
「そういうコトなら、アメリカで罪を重ねるべきじゃなかったな。もしくは死刑にならない程度の罪なら、両方で裁判受けるコトもできただろうによ。まァ安心しろ。この国には、ハイドの好きなイングランドの同胞たちがたくさんいるぜ。それこそ判事みたいなお偉いさんは、ほぼ間違いなくイングランド系ばっかだ」
「そいつはありがたいね。オレもうれしすぎて、ヤンキードゥードゥルを歌いたくなる。ハイドを追ってずっと南西部を駆けまわってたが、同じイングランド系つっても、レッドネックどもはホント野蛮でまいったぜ。特にアイツ、何て言ったっけか……そう、あのトム・ソーヤーとかいうミズーリの田舎者なんか――」
「あァ?」フィンは突如豹変して、「オイてめえ、今なんつった?」
エドワーズは頭に思いついたまま出まかせでしゃべっていたが、うかつにも何か、鳴らしてはいけない琴線に触れてしまったらしい。
「言い忘れてたが、ハイドには個人的にな恨みがある」
「う、恨みィ? そいつは物騒だな。事情を聞いても?」
「トーマス・ソーヤーとジョセフ・ハーパーは、おれの幼馴染でな」
エドワーズの口から思わず、うめき声がこぼれ出た。知らずにこき下ろしてしまったとは、いくら何でも運が悪すぎる。
「おれたちはガキのころ、いつか三人で盗賊団をやるって誓い合った仲だ。トムが〝カリブの黒い復讐者〟で、ジョーが〝大海のならず者〟、そしておれが〝血みどろのお尋ね者〟なんて自分が賞金首になったときの二つ名を、恥ずかしげもなく名乗り合ったもんだ。……けど
「言っておくが、ふたりを殺したのはジョセフィン・マーチだぜ?」
「ンなこたァ承知してるさ。しかし、おれにもくわしいところはよくわからねえが、そもそも一味が瓦解して弱体化するキッカケを作ったのは、何を隠そうエドワード・ハイドだってハナシじゃねえか」
「……頼むから、仕事に私怨を持ち込まないでくれよ?」
フィンは快活に笑って、「まさか。おれはプライベートと仕事は分ける主義なんだ。ただし今回の任務を果たせば、自然と恨みも晴らせるワケだし、こんなにやりがいのある仕事はメッタにないぜ。……ところで、さっきからくだらねえ無駄口たたいて時間稼ぎしようってハラみたいだが、いいかげん逃げる算段はついたか?」
「アンタが何を言っているのか、サッパリわからねえな……」
「なァ、そろそろ考えなおしたらどうだ? 助手のほうはともかく、おまえはアメリカ人だろ? 何も英国人なんぞに協力するこたァねえじゃねえか。カネが欲しけりゃア、シークレットサービスが代わりに報酬分を支払ってやってもいい。だからさっさと、こっち側に寝返っちまえ」
「ずいぶん気前がいいだな。軽々しく払うなんて言っても、もともとはオレたちの税金だろうが。それにさっきまでは、誰だろうと邪魔するヤツは容赦なくぶち殺すとか何とか言ってなかったっけか?」
「まァ本音を言えば、最初に通告なんぞしねえで、ホテルに火でもつけていぶり出したところを、誰彼かまわず皆殺しにしたいくらいだったが……連邦政府はまだまだ、ピンカートン探偵社との蜜月を続けていたいのさ。こんなささいないさかいで、亀裂を入れたくねえんだと。だからなるべく穏便にコトをすませるよう、長官からキツゥく厳命されちまっててな。できれば手荒なマネは避けたい」
どうやら向こうも、組織のしがらみにとらわれているのは同じだったらしい。とにもかくにも、これでようやく話し合いのとっかかりが見えてきた。まだこちらにも目はある。サイコロを振り続けてさえいれば。そのうち運が向いてくるハズだ。
「オレも正直なところ、アメリカ人同士であらそうのは本意じゃねえ……。しかし、あいにくとオレも仕事なもんでな。何とかカドが立たずに、ハイドを英国へ引きわたす方策はないもんかねェ?」
「おれにも考えさせようってか? このおれが、オツムの出来がいいように見えるか? 見えるとしたらてめえのオツムはおれ以下だ。いいか? おれが言われてるのは、ハイドをたとえ死体でもかならず連れて来いってコトと、ピンカートン探偵社とはコトを荒立てるなってコトだけだ。その二点に関して譲歩する余地はねえ」
フィンのなにげない言いまわしに、エドワーズは引っかかりを覚えた。「オイ? アンタの上司は、ハイドを死体でも連れて来いって言ったのか? 殺してでも逃亡を阻止しろじゃなくて?」
「それがどうしたってんだ? どっちでも同じコトだろうが」
いや、まったく違う。少なくとも事情を知るエドワーズにとっては、その命令の意味合いはまるで異なる。ひょっとすると連邦政府は、すべて承知しているのではないだろうか。ジキルとハイドに関するコトのいっさいを。あの秘薬が英国で使われるのはしょせん他人事に過ぎないが、アメリカ政府が手に入れて何かしようというのなら、話は変わってくる。むろん確証はないが、もし本当にそうであるならば、絶対にハイドの身柄を奪われるワケにはいかない。
いっそのコト、シークレットサービスに事情を話して協力を仰ぐか? ――いや、あまりにも荒唐無稽な話だから、彼らに信じてもらえるかは怪しい。それにたとえ信じたとしても、エドワーズと意見を同じくしてくれるとはかぎらない。ハイドを始末すべきだと結論づけられでもしたら、それこそ本末転倒ではないか。
もはやこの期に及んで、政府とピンカートン探偵社の仲など気にしている場合ではないだろう。アメリカという国家の根幹をなす、自由が損なわれるかもしれないのだ。とはいえ、武力行使しようにも勝ち目は薄い。現在ホテルの正面には、シークレットサービス捜査官が十一名、一方エドワーズのピストルには弾丸が六発、まともに撃ち合うとなると明らかに弾数不足だ。ジョー・マーチが使っていたようなガトリングガンでもあればべつだが、ないものはない。
こうなったら、ここは賭けに打って出るしかない。銃を捨てて投降するフリで近づき、彼らのリーダー格であるフィン捜査官を、隠し持っていたナイフで人質に取る。それでこの包囲網から抜け出し、ファイブポインツのアイリッシュギャングを頼って地下へ潜伏、機を見てマイクロフトとハイドを英国へ逃がす。われながらムチャな算段とは思うが、今はこれ以外に手段が思いつかない。
エドワーズは覚悟を決めて、フィンのほうへ一歩踏み出した――と、そのとき彼は異変に気がついた。
何か焦げ臭いニオイがする。それはシークレットサービスの面々も同様らしく、そろっていぶかしげに鼻をひくつかせる。
やがて異臭だけではなく、肌に熱が伝わってきたコトで、彼らは遅まきながら事態を理解した。
「――火事だァ! ホテルから火が出ていやがるぞ!」
窓から真っ赤な火の手が上がり、あっというまにホテル全体へ燃え広がっていく。まさかと思って、エドワーズはシークレットサービスのほうを見やるが、そのあわてぶりからして、彼らもこの状況を予期していなかった様子だ。
それにしてもこの絶妙なタイミング、偶然とは思えない。シークレットサービスのしわざでないとすると――
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