016
あまりにも荒唐無稽で、信じがたい内容だった。けれども、実際おのれの目で確かめたからには、信じないワケにはいかない。
それよりもエドワーズにとって、もはやジキルとハイドの過去そのものは、問題ではなくなっていた。なぜなら秘薬に関する情報をすべて知ったコトで、スコットランドヤード――というよりマイクロフトの目的に、勘づいてしまったからだ。まだ短い付き合いとはいえ、彼の考えそうなコトは手に取るようにわかる。
マイクロフトは前のめりになって、「ジキル博士、ひとつだけ確認しておきたい点があるのですが」
「なんだ? 勉強熱心な生徒は歓迎だが、ムチャな質問は困るぜ」
「アタスン氏あての手紙を読んだとき、その文面からは、別人格に肉体の所有権を奪われていく恐怖、自分本来の人格が消えてしまうのではないかという恐怖がにじみ出ているのを、ヒシヒシと感じました。事実として手紙の最後には、秘薬を使い切ってしまったがゆえに、ヘンリー・ジキルの生涯に別れを告げるとハッキリ記されていましたし、今後ハイドが処刑されようが自殺しようがどうでもよく、しょせんは他者の問題とまで。けれども、今あなたの口から直接話を聞いてみると、そういった別人格に対する恐怖がまったく感じられないではありませんか。いったいどういう心境の変化です?」
するとジキル博士は苦笑して、「エドワード・ハイドが別人格、などという言い訳にいつまでもすがりついていたままなら、きっと私は遠からず、レスタースクエアの屋敷で自殺していたコトだろう。私は、想像していた以上のおのれ自身の醜悪さに、なかなか向き合うコトができなかった。……しかし、誰に言われるまでもなく、私には最初からわかっていたハズなのだ。私の作り出した秘薬はあくまで、その人間の抑圧された本性をおもてへ引きずり出すものに過ぎない。ゆえに秘薬で生み出されるのは、断じて別人格などではなく、それは言うなれば単なる酔っぱらいと同じなのだ。酒の力を借りて大胆になる小心者と、少しも違いはしない」
「ナルホド。それを聞いて安心しました」マイクロフトはこれまで見たコトもない満面の笑みを浮かべて、「――ああ、やはり私の期待していたとおりだった! ジキル博士、あなたはすばらしい! 大英帝国の――いや、この世界全体の宝だ! あなたのような人物が、たかが国会議員ひとり殺したくらいで、無惨に処刑されなければならないなど、そんな社会は絶対に間違っている!」
激しく興奮しながら、マイクロフトの口から語られるジキルへの賞賛に、エドワーズはどこかいびつさを感じた。
「ジキル博士。イングランドへ帰国した暁には、あなたがくだらない罪状で極刑に処されるコトがないよう、女王陛下に誓って私が全力で守ると約束しましょう。たとえどんな手を使ってでも、ね。その代わり、ぜひとも協力してもらいたいコトがあるのです」
「俺はまだ死にたくねえ。協力すれば助けてもらえるっていうなら、ことわる道理がどこにある? だが、いったい何をすれば?」
「秘薬を大量生産していただきたい。英国はそれらを、刑務所の囚人たちや新たに逮捕された犯罪者へ投与します。連中を善良な人間に作り替えるんです。そうすれば完璧に安全な社会が手に入る」
エドワーズの嫌な予感が的中してしまった。マイクロフトならばこの案を言い出しかねないと、まさしく警戒していたのだ。
ジキル博士は額から冷や汗を流しながら、「正気かねキミは。よくもそんな、悪魔的な発想ができるものだ」
「嫌ですね、悪魔とは人聞きが悪い。こういう使い方をまったく想像していなかった、などとは言わせませんよジキル博士。事実、ソーヤー一味がその実験台だったではありませんか」
「待てマイクロフト」エドワーズはたまらず口をはさむ。「アンタ本気で言ってるのか? そんな所業が許されるとでも」
「許されない? なぜ? 別人格がもとの人格を消してしまうなら、結局は死刑と同じだから大問題かもしれないが、博士に確認したとおり、そういうワケではないのだから、何の憂いもありはしない。これで心おきなく、悪党どもを改心させるコトができる。――なァ、エドワーズ。教えてくれ。私はどこか間違っているか?」
「それは――」エドワーズは言葉に詰まってしまう。
「でも、彼らの自由意思はどうなるんですか?」新十郎は食ってかかるように、「彼らには、裁きを覚悟してでも罪を犯す自由さえ、与えられないと? 義理とはかならずしも正義だけではないのに」
「キミが自由という概念に対して、いったいどんな幻想をいだいているのかは知らないがね――社会に仇をなす自由など、許されてよいハズがないだろう。なぜなら自由とは、社会が与えてくれるものであり、社会でしか通用しえないからだ。弱肉強食の自然界に自由など存在しない。弱者は強者に搾取され、強者は弱者を食い物にするコトでしか生きられないのだから。それに、カンチガイしてはいけない。ジキル博士の秘薬で表出するのは、その人間の本性だと言っただろう。それすなわち、真にやりたいコトを意味する。もし秘薬を飲んだ犯罪者が善良になったのなら、それは犯罪者自身が心の奥底では善人になりたいと望んでいたからなのだよ。むしろ、おのれの欲望に振りまわされていた憐れな犯罪者を、救うコトにもなる」
「だったら万が一、秘薬を飲んでも善人にならなかった場合は?」
いっさいの良心を持たない純粋な悪人というのは存在しないだろうが、一方で悪人と犯罪者はかならずしもイコールではない。IRBがよい例だ。彼らは祖国を独立させるコトが悪事とは、カケラも思っていない。むしろ彼らにとってそれが正義だ。そういう確信犯に対して秘薬を使ったところで、逆に悪人を増やすだけだろう。
マイクロフトは肩をすくめて、「そのときはしかたがない。今度こそ処刑するしかないな。改心する余地がいっさい存在せず、良心のカケラも持たないならば、もはや生かしておくワケにはいかないし、何より誰もがそれを望むだろう。それに、一生監獄暮らしは不憫なコトだし。エドワーズ、先日キミもそう言っていたよな」
「ああ、言ったぜ……確かに言ったが……だがそれは……」
マイクロフトの考えは、絶対に間違っている――心ではそう確信しているのに、エドワーズには否定する言葉が見つからない。マイクロフトの理想に不純はなく、もたらされる結果は間違いなく社会のためになるだろう。もう悪人の身勝手に、善人が割りを食う心配はない。誰もが安心して、日々を暮らしていけるようになる。それの何が悪いというのか。むしろすばらしいコトではないか――頭では理解できる。しかし、どうしても腑に落ちなかった。
「まァ、キミたちが反発するのもわかる。何しろ手段が手段だ。理屈抜きに嫌悪感をいだくのもムリはない。しかし、前に言っただろう? アメリカと日本に害を及ぼす気はない、と。むろん私は害などと思っていないが。ジキル博士の秘薬を用いた犯罪者撲滅は、大英帝国とその植民地のみで完結させる。他国の内政に干渉するつもりはないし、逆に言えば、他国の人間に口出しされるいわれはないというコトだ。だいたい、よく考えてみたまえ。英国の犯罪者がどうなろうと、キミたちにとっては何の関係もないだろう? だからムリに納得する必要など、どこにもない。キミたちはよけいなコトは気にせず、最後まで私の依頼を完遂してくれればいい」
「……ひとついいか? 気になったんだが、そもそもこの件に関してスコットランドヤード、というか英国政府は承知してるのか?」
「さすがに核心を突いてくるなエドワーズ。実のところ、英国政府は何も知らない。あの手紙を読んでジキルとハイドの関係について把握しているのは、私だけだ。今回のアメリカ出張も、ハイドみたいなザコなぞ放っておけと渋る上司に、私がゴリ押しして実現させた」
「アンタもバカじゃないからわかってると思うが、秘薬への反発はオレらの比じゃないと思うぜ? 説得できると?」
「いや、それはおそらくむずかしくないだろう。というのも、説得に秘薬を利用すればいいのだから」
「そりゃアどういう意味だ? 秘薬が何の役に立つ?」
「なに、至極単純な理屈だ。私が計画を説明して、相手が賛同するならばよし。たとえ反対するにしても、その心には秘薬を使用する迷いが、少なからず生まれるだろう。理性で抑え込まれたそれを、秘薬で解放してやるというワケだ。ほら、どちらへ転んでも私が勝つ」
その言葉を聞いて、これ以上何を言ってもムダだと理解した。たとえエドワーズが、どれほど筋の通った反論をしようと、マイクロフトが計画をあきらめるコトは絶対にない、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます