五、

 晴れ晴れと澄んだ空の下、由宇奇は人気のない道を歩いていた。公園を過ぎる。暫く歩いたところで、由宇奇は立ち止まった。茶色のスラックスに手を突っ込んだまま、目の前の表札を覗き込む。

―――土田。

 目当ての家だ。由宇奇はインターホンを鳴らす。少しして、女性の声が聞こえてきた。

 玄関が開く。そこから顔を出した女性に、由宇奇は下手な愛想笑いを投げかけた。女性は眉を顰め、

「どちら様ですか」

と訝しげに尋ねる。男は、

「蟲男事件を個人的に調べている者です。週刊誌に記事にしたり、そんなことは一切しないから、安心してください」

と言った。しかし、その様な言葉で信用を得られる筈がなかった。しかも被害者の親族なのだから、余計に嫌だったのだろう。女性は「話すことはありません」と言ってドアを閉めようとした。

閉まりかけるドアに、由宇奇は自分の足を挟む。

「大丈夫、和也さんはきっと無事ですよ」

 女性は顔色を変えた。

「ど、どうしてそんな風に思うんですか」

「どうしてもです」

 女性は由宇奇を信じた様子ではなかったが、希望を取り戻したかのような目をした。由宇奇は、今度は本当に無愛想になって、頷いた。

「それで、二、三個、質問に答えていただきたいんですが」

 女性は無言のうちに了解した様子であった。

 由宇奇は、適当な質問を投げかけた。夏芽から色々と聞いていたから、殆ど知っていたが、女性の信用を得るためには、本当に捜査しているように見せかけなければならない。

 質問を終えると、由宇奇はすぐに、

「そうですか、ありがとうございました」

と言って頭を軽く下げた。余りにも少なすぎる質問に、女性は拍子抜けしてしまったようだ。先程までの威勢は全くない。呆けているかのように、ドアを開け広げたまま、去りゆく茶色の背広を暫く見つめていた。

 突然、由宇奇は立ち止まって振り返った。

「つかぬ事をお聞きしますが」

 話はまだ終わっていなかったらしい。

 風が吹いて行った。




 夏芽は公園のブランコに座って、宮本肇と吉造、そして肇の母親を待っていた。因みに、綺堂もまだ来ていない。

 昼過ぎに、屋台で手に入れた出目金の入った金魚鉢を持って、家に帰った夏芽は、母、春代と父、冬吉にこっ酷く叱られた。夏芽はソクラテスの如くそれを雑音に置き換えて聞き流すと、一言「ごめんなさい」と言って罵声の騒音を終わらせた。そして、再び穏やかな日常が夏芽に訪れたわけだが、そう長く家に留まることなく、公園へ出かけなければならなかった。親に叱られた手前、気まずかったが、やはり“綺堂”という単語を聞いて、何故か春代は「綺堂くんがいるなら平気よね」という調子だった。

 そうやって今に至る。それにしても遅い。まだ集合時間の午後三時前だから、宮本一家が来ていないのは理解ができる。しかし、綺堂がまだ来ないのはおかしい。宮本一家が綺堂よりも先に来てしまったら、夏芽は昨日会ったばかりという事もあって、しかも芳造が犯人かもしれない、という事で、緊張してうまく喋れないだろう。どういうつもりだろうか。兎に角、早く来てほしい。

 時間が近付き、宮本一家が来るのではないか、という頃になって、やっと綺堂は登場した。夏芽はブランコから飛び降り、綺堂に駆け寄った。

「もう、遅かったじゃないですかあ。来ないんじゃないかと思って心配したんですよ」

「僕は三時、と言ったら、三時ぴたりに到着するように、と決めているんだ。だから、決して時間を過ぎているようなことはない」

 綺堂の言葉のすぐ後に、三時を知らせる鐘が鳴り響いた。綺堂は微笑んで、

「ほらね」

と言う。几帳面な男だ。

 その時、さくさくという足音が聞こえてきた。夏芽は綺堂という壁から、向こう側を覗き込む。

 宮本肇と、父の吉造であった。母親らしき人物は居ない。

 吉造は穏やかな笑顔で会釈をした。それから綺堂を見て、少しだけ眉を上げた。思いのほか若い“探偵”に、驚いているのか。それとも、昨夜の事を思い出しているのか。父の表情で察したのか、肇が、

「こちらが、探偵さんかな」

と夏芽に尋ねた。

「は、はい。こちら、探偵の綺堂さん」

「綺堂です。今日はお忙しいところ、お集まりいただき有難う御座います」

「いえいえ、気にしていませんよ。和也君を探してくださっている探偵さんですから、出来る限り協力したい次第なんです。しかも、依頼人はうちの肇のようですから」

「よろしくお願いします」

 肇が頭を下げた。

「ところで」

 綺堂は少しだけ首を傾けた。

「一人、足りませんね」

「ああ、家内は急な用事が入ってしまって。家内には毎日県内の店舗を回って、売れ行きや客の調査をしてもらっているんです。それで、今日はどうしても外せないという事で、誠に申し訳ないんですが」

「そうですか。まあ、仕方ないでしょう。ではまず、僕の推理をお聞きください」

 綺堂はそうは言ったものの、多分、昨日優子が言ったことをそのまま代弁するに違いない。夏芽は半ば確信して、綺堂を見た。

 今日の綺堂は、昨日と同じように、袴をつけていた。紺色の着物に、黒い羽織の上着、足には黒い足袋、そして下駄を履いている。どれも非常に高級そうだ。黒くて短い髪は整えられていて、手には扇子を持っている。その姿はこの人間世界では異質で、もしかしたら先程の吉造の反応は、この姿に対するものだったのかもしれない。平成の世で、着物姿で街を歩くなど、京都か祭りでもなければ容認されない。単なる「コスプレ」だ。しかし、綺堂はそんな“派手な”格好を、平気でしていた。何故なら、異世界の人間だから、である。

「これは、僕の優秀な情報屋が仕入れた情報です。被害者の皆さんは未だ皆行方不明ですが、その持ち物であったと思われる、バッグやら何やらは、発見されているんだそうです。そして、その場所にはある共通点があります」

 綺堂は夏芽を見た。夏芽にも、活躍を分けてくれるということだろう。

「見つかる被害者の持ち物の近くに、半径五キロメートル以内に、レストラン『よしみや』があるんです」

「『よしみや』は県内ではかなりチェーン店を持っていますから、ただの偶然と言う可能性も捨てきることはできません。しかし、見つかった被害者の所持品からは、被害者の血痕はおろか、指紋すら出ませんでした。つまり、犯人は所持品を、態とそこに置いている、という事なんです」

 綺堂はワンテンポ置いて、

「そこで生ずる疑惑、それは、蟲男事件は、単なる通り魔的犯行ではないかもしれない、ということです」

と言った。

「どういう事だね」

 吉造が腕を組んだ。

「このことを聞いたとき、僕は思いました。もしかしたら、怨恨による犯行かもしれない、と。違う場所で誘拐した、あるいは殺害した被害者の所持品を、『よしみや』の近くに置き、恰も『よしみや』関係者に犯人が居るかのように見せかける――しかし、だとしたら、半径五キロメートルでは、遠すぎると思うんですよ。もっと、すぐ近くに置けばいい。そうすれば警察たちは、『よしみや』を、もっとしっかり調べるでしょう。五キロメートルは、狙ったにしては少し遠すぎます。そこで、僕は“逆”なんじゃあないかと思ったんです」

「逆、かい」

「ええ。犯人は外から『よしみや』に近づけようと思ったのではなく、『よしみや』から、疑いを遠ざけようと思ったんじゃあないか、そう思ったんですよ」

「……君は」

「話は最後までお聞きください」

 綺堂は柔らかく言った。しかし威圧感がある。

「もう一つ、僕の優秀な情報屋が調べました。それは、貴方の過去です、吉造さん。貴方の過去、そして、被害者のルックス。これには、何らかのつながりがあるのではないか、そう思ったんですよ」

「ひ、人の過去を調べるなんて、プライバシーの侵害じゃないか」

 吉造は声を荒らげた。

「いいえ」

 綺堂は静かに否定した。

「そういう行為は、捜査に関係すること、そして容疑者に対しては容認されるんですよ」

「容疑者、だって」

 肇が顔をしかめた。それから夏芽を見る。

「どういうことだよ、夏芽ちゃん」

「肇君、まだ話は終わっていないよ」

「でも」

「昨日」

 綺堂は肇の抗議を遮って、無理やりに話を続けた。

「昨日、夏芽さんが襲われてね」

 肇と吉造が静かになった。肇は目を見開いて夏芽を見る。

「夏芽さんを襲った人間は、夏芽さんを殺そうと、ナイフを持っていたんだ。そのナイフに、僕は傷つけられて、怪我をした」

 綺堂が着物の袖をさっと捲る。生々しい包帯が、露わとなった。

「何故、夏芽さんが襲われたのか。それは、夏芽さんが蟲男事件について、僕という“探偵”を雇って調査をしていたからだろう。だが、夏芽さんが蟲男事件の調査をしているなんてことを知っていて、尚且つ逃げる僕と夏芽さんに追いつくほどの速さで走ることのできる人物、それは、肇君、吉造さん、あなたたちしか居ない」

「つまり、何が言いたいんだね」

「犯人は……俺か父さんのどちらかだって、そういう事なんですか」

 綺堂は静かに頷いて、それから付け足すように、

「しかし」

と言った。

「しかし、夏芽さんを襲った犯人は、“蟲男事件”の犯人ではない」

「えっ」

 言ったのは夏芽であった。

「そ、そうなんですか?」

「ああ。昨日も言ったじゃないか、”彼が蟲男かどうかは別として”ってね」

「でも、根拠はあるんですか」

「勿論さ。夏芽さんが襲われた件と、他の蟲男事件では、余りに犯行における相違点が多い。蟲男事件の犯人は、計画的かつ冷静で、完璧に近い程の犯罪を行う事の出来る人物だ。しかし夏芽さんを襲った人物は、雑で幼稚、ついでに後先考えずに行動してしまう様な、不完全な人間。二つの事件の犯人は、明らかに違う人物なんだよ」

「そうか……確かに、警察が未だ被害者の居場所すらわかっていないような完全犯罪に近い蟲男事件の犯人が、あんな風に雑に、捕まったり証拠が残ったりするリスクを負いながらも私を追いかけてくるなんて、考えてみれば有り得ないですね」

 夏芽はううん、と唸った。

「それで、吉造さん」

 綺堂は吉造を見た。

「右腕を見せてもらえませんか」

「何を言うんだ、いきなり」

 吉造はもはや、昨日からの優しい表情など少しも浮かべていなかった。阿修羅のような形相で―――完全に怒っている。

 しかし綺堂も容赦なかった。

「昨日夏芽さんを襲った犯人は、右腕が異常に爛れていた。アトピーか何かでしょう。それを確認したいだけです。安心なさい。貴方が昨日夏芽さんを襲った犯人で無いならば、その腕に“皮膚の爛れ”は無い筈ですから」

 夏芽が“蟲”と間違えた、あの爛れである。

 吉造は、眉を微妙にぴくぴくと動かしながら、無言のうちにそれを拒んでいるように思えた。

「父さん、見せなよ。そんなの、無いって。潔白を証明してやれよ」

 肇が言う。しかし、吉造は額に冷や汗を浮かべながら、ただ黙っていた。

「なあ、父さん」

「そうですか、見せられませんか」

 綺堂は、冷ややかな目で吉造を見つめた。

「では、言いましょう、推理の続きを」

 きっと綺堂は、吉造の過去を暴露するつもりなのだ。しかし、それは強硬手段だ。そんなことを言ったら、少なくとも、肇は傷つく。だが、今更、綺堂を止めることはできない。

 綺堂は、悪魔のような顔をしているように見えた。

 沈黙が流れた。

 一秒一秒が重く感じる。

 それから、吉造はゆっくりと口を開いた。

「…………私だ」

「父さん、何を」

「私が、“蟲男”だ」

 吉造はそう言うと、右腕の袖をゆっくりと捲り始めた。

 最初に見えたのは、白い、皮のようなものであった。だが、袖が捲れていくうちに、其れはその悍ましい姿を露わにした。

――蟲だ――

 くらり、と眩暈がして、夏芽はよろけた。それを綺堂がさり気無く支える。

「夏芽さん、よく見賜え」

 しかし、もう一度吉造の腕に目をやると、其れは単に、本当に重度の肌の爛れ、いや“異形”であった。

「先天性のものです」

 吉造は重々しく言った。それを聞いて、肇は一歩、吉造から遠ざかった。

「父さん…………まさか」

「……すまない、肇」

 吉造は、肇を見ないまま言った。

「で、でも」

 肇は声を張り上げた。

「でも、夏芽ちゃんを襲ったのが父さんだったとしても、だとしたら父さんは、”蟲男”じゃないんだろ」

「いや」

 否定したのは吉造であった。

「私だ」

「う、嘘だ」

「私が、全てやったんだ。夏芽さんを襲ったのも、少女たちをさらったのも、全て」

 綺堂が眉を顰めたのが分かった。

「あなたが――――?」

「綺堂さん、君の推理は、私が蟲男事件の犯人で無い、と言った以外、全て完璧でしたよ。確かにその通りだ。私は、犯行拠点を『よしみや』にしていた。だが、そこで人を襲ったことがばれると、そりゃあ、よろしくないでしょう。犯人がすぐに割り出されてしまう。だから私は、所持品を運んだんです」

「五キロメートルと、微妙な距離にしたのは、どうしてです」

「それは、時間がなかったからです。私は、八時に家に帰るのを習慣にしていた。だが、ドライブの時間に犯行を行っていましたからね、そんなに遠くに運んでいる暇が、ありませんでした」

「う、嘘だろ、父さん……」

 肇は、狼狽えていた。

「なあ、嘘だろ……」

 吉造は、今度は何も答えなかった。

 肇は、拳を握って、震えていた。

「なあ、どうしてだよ……どうして、そんなことを」

「すまない……」

 吉造は言ってから、綺堂に向き直った。

「自首、します」

「ええ、是非そうしてください。それが、肇君のためにもなります」

 夏芽は、何も言えないまま、ただ茫然とその光景を見ていた。肇は、ずっと下を向いていて、そして吉造も、肇の方を決して見なかった。

「夏芽さんを襲い、君に怪我をさせたこと、本当に申し訳なかった。ですが、綺堂さん。最後に、一言、聞いていただきたい」

 吉造が、綺堂に背を向け、歩き出そうという姿勢をしながら言った。




「私には、守らなければならないものがあったんだ」




 守らなければならないもの?

 それは、一体何なんだ。

 自分の威信か。

 それとも――――。






 夕闇は、すぐに訪れた。吉造が去った後も、肇は全く動かないで、その場で棒のように立ち尽くしていた。

「宮本先輩」

 夏芽は声をかけるが、どう続ければいいかわからない。

「……夏芽ちゃん」

 かすれるような声だった。少し、泣いているようだ。

「俺……つらいよ。俺の親友を襲ったのが、父さんだったなんて。そして、その父さんを、俺自身が、告発してしまっただなんて……」

 夏芽は何も言えなかった。ただ、なんとなく、その背中を摩った。

「俺、酷い奴だよな。父さんを」

「違いますよ、宮本先輩は、正しいです。あなたはお父さんを、犯罪から救ったんだもの。そして、土田先輩を」

―――土田和也は生きている。

 脳内に、由宇奇の声が響いた。

「私、土田先輩は生きていると思うんです」

「どうして?父さんは、殺したと、言ったのに」

「私の、信頼できるルポライターさんが言っていたんです、蟲男は二人いるって。そして、土田和也は生きているって」

「じゃあ、どうして……どうして見つからないんだ……」




 宮本を家まで送った後、夏芽は綺堂と再び公園まで歩いた。その間、綺堂はずっと、何か考え事をしているように、腕を組んで黙りこくっていた。

 駅が見えてきたとき、綺堂は突然「夏芽さん」と言った。

「この事件、まだ終わってはいない」

「え。だって、今、犯人が明らかになったじゃないですか。土田先輩については、由宇奇さんが探ってくれているし……」

「いや、彼は、吉造氏は、何かを隠している」

 そうだっただろうか。悪人に情を向けるべきでないが、彼が自供した時、苦しそうだったが嘘を吐いているようには見えなかった。

「人間って、何するかわからない、怖い生き物ですけど、最後の吉造さんは、自分の罪を認めて、悔い改めようとしていました。だから、私……吉造さんが嘘を吐いているようには思えません」

「確かに、彼は罪を犯している。しかし、“殺してはいない”」

 静かな公園に、綺堂の声が響いた。

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