一、

 小鳥が鳴く。どうやら、冬が終わりに近づいているらしい。二月下旬、雪はまだ不規則に降り続いている。草木が雪をかぶって、しかし、微かに芽吹くこの季節。夏芽は二月という月が、暦の中でも格別に好きだった。

 高校二年生の冬、夏芽は多くの同級生たちと同じように、大学受験というものを意識するようになった。夏芽は成績もいい方なので、親が望む、近隣の国立大学への推薦入試を勝ち取ることが出来そうである。

「いいなあ、夏芽、推薦もらえそうなんでしょ」

 地獄坂を上りながら、たかねが言った。

「私なんか、推薦ください、って言ったら、“お前だけは絶対にダメだ”って言われたの。ひどくない」

「自業自得ってやつよ、たかねは。不良だもん」

 夏芽は、この街が好きだった。この街が、というより、夏から通っている“向こうの世界”が大好きだった。だからこの街を極力離れたくない。しかし、大学に進学してほしいという両親の期待を裏切ることは出来ない。ならば、一番の解決策は、近隣の、実家から通う事の出来る大学に行くことだ。幸い、国立のそこそこ有名な文系大学が電車で通える場所にある。夏芽は夏に出会った“綺堂壱紀”という男のお蔭で、国語が大の得意になった。進学先は国文学系の学部にしよう。大学進学、という言葉に夢膨らませながら、そんなことを考えていた。

 正反対なのが、親友のたかねである。たかねは「不良」とひとくくりにしてしまうと少し違う気もするのだが、態度は悪いし―――例えば教師に敬語を使わなかったり―――、茶髪でアクセサリーをしていてスカートも短く、校則違反の塊だ。極めつけは成績の悪さである。国語数学科学社会……何においても、五十点以上の点数を取ったことがない。そんなたかねを受け入れてくれる大学があるだろうか。

 たかねは頬を膨らませた。

「私は至って真面目だよ。髪の毛だって、ちゃんと毎日巻いてるしさ、スカートの丈だって、毎日ちゃんと膝上二十センチになるように測ってるんだよ。これを、真面目と言わずになんと言うのさ」

 馬鹿っていうんだよ、と言って夏芽は笑った。きっと、そこまで糞真面目に不良をやってのける人間は、この世界中で、今夏芽の横に立っているたかねだけだ。

「てゆうか、登校日、面倒くさくない?」

 たかねは大げさに顔を歪め、ため息交じりに言った。県内でも有数の進学校である木沢高校は、冬休みの期間中も容赦なく“集中講義”を行っていた。

「面倒くさいけどさ、いいじゃない。終わったら、今日も、土田先輩と宮本先輩のキャッチボール、見に行こうよ」

 たかねは笑った。

「そうだよねえ、宮本先輩が居れば、どんなうざいお説教でも耐えられるかな」

「ほんと、好きねえ」

宮本肇は三年生で、この木沢高校野球部の元エースピッチャーだ。野球部自体は、それほど有名ではない。今年の高体連の県大会では上位に残りこそしたものの、過去の実績は全くなく、夏の大会で一回戦を制した時は、奇跡かと謳われた。そのくらい、宮本肇の実力は群を抜いていて、有名大学からの誘いも何件かあったらしい。しかし彼はそれを全て断って、一般受験で都立の超名門大学の合格を勝ち取った。勉強もスポーツも出来、それに加えて、イケメンである彼を見て、面食いのたかねが黙っている筈がなかった。

「これは、神様が与えてくれたチャンスだよ。休日の校庭で、二人がキャッチボールしてるなんて、ストーカーやってる私たちくらいしか知らないもん。絶対にモノにするんだから」

「宮本先輩、彼女居ないみたいだしね。てか、私までストーカーの仲間にしないでよ!」

「まあ、夏芽には“綺堂さん”がいるもんね」

「違う!綺堂さんとはそういう関係じゃないの!勉強を教えてもらってるだけ!真面目に!」

 いつの間にか坂を上り終えていたらしく、二人は話しながら校門を抜けた。下駄箱の前で靴を脱ぐ。たかねは、

「そういえば、また出たんだってね、『蟲男』」

と言った。

「気持ち悪いよね、名前からしてさ」

 『蟲男』、とは、今世間で最ももてはやされている都市伝説だ。体中が、蛆虫のような気持ちの悪い虫に覆われていて、町の中を当てもなく彷徨う、という妖怪。目撃者も多数いて、学校はその話でもちきりだ。

見て済むだけならば、所謂口裂け女やトイレの花子さん、のように、可愛らしい都市伝説に過ぎない。しかし、蟲男の場合、噂から発起した“行方不明事件”まで発生しているのである。

「昨日行方不明になった子居たでしょ?その子も、直前に、友達に“蟲男を見た”ってメールをしたらしいよ」

 県内の生徒、既に五、六人が失踪しているらしい。その為、メディアをはじめ、日本中が毎日『蟲男』の話題でもちきりだった。失踪したのは皆中学生や高校生の若者で、失踪する直前に、知り合いに『蟲男を見た』とメールを送っている。それがこの事件の奇妙な特徴だ。

「でも、結局人間がやってるんだよね」

 夏芽は言った。

「蟲男さんっていう妖怪は、居るかもしれないけど」

「なに、夏芽。あんたまだ妖怪なんて信じてるの?」

 たかねは目を細める。

「夏芽って、ほんとオカルト少女だよね」

「妖怪はいるのよ。たかねだって、その内きっと出会うんだから」

「じゃあ、やっぱり妖怪が犯人?」

「それはありえないって」

 夏芽は、夏に起きた悲しい事件を思い出しながら言った。

「この世の奇妙は人間だよ」

 教室にたどり着く。一週間ぶりの教室である。一週間前と変わった様子はないが、強いて言えば、教室の隅に溜まっている埃が、少し増えたような気がする。人が使っているわけではないのに、埃が溜まる。これも妖怪の仕業だったりして。夏芽は小さな妖怪たちが誇りを運んでいる姿を想像してふっと笑った。

「何笑ってんの」

「べーつに」

 クラスの友人たちが、二人に朝の挨拶をする。夏芽は適当な返答をしてから、窓際の自分の席に腰を下ろした。たかねは少し離れた席だ。荷物を下ろすと、やはり夏芽のところへ来る。

「今日、珍しく鷲島が遅いね。いつもはチャイムが鳴る十分前くらいにはあの机に座ってんのに。偉そうにして」

 たかねが教員用の机を指差した。

「珍しくって、鷲島先生だって人間なんだから、そりゃ遅れることだってあるよ」

「そっか。あんなこわーい先生でも“非の打ちどころ”って奴があるわけね」

 たかねは笑った。

 夏の事件の所為で、担任を失ったこのクラスに、新しい担任として現れたのが、学校で一番怖い体育教師として有名な鷲島だった。それまで、学校で一番優しい先生、のクラスに属していた夏芽たちは、発表があるなり天国から地獄につき落とされた気持ちになった。

 しかし、実際接してみると、鷲島は顔が怖いだけで、意外と気さくで真面目な教師だった。不良のたかねには厳しいが、夏芽の様なマトモな生徒には真摯に向き合ってくれる。進路についてもそうだ。夏芽に国立大学の推薦入試を勧めてくれたのは鷲島だった。学校の成績にいまいち自信がない夏芽の肩を叩き、

『大学なんてものは、行く人間が優秀なら、何処に行っても同じだ。推薦入試は、一般入試よりも偏見もハードルも高いが、君の真面目な性格ならば、何処へ推しても恥ずかしくない』

と言ってくれた。

―――人って顔じゃないんだよね。

 夏芽はその時初めてそう思った。

「でさー、宮本先輩の事。宮本先輩、好きな人いたりするのかなあ」

「知らないよ。今は進学とかあって、忙しいからいないんじゃないの?」

「そうだといいなあ。私、いつ告白しようかって、毎日せかせかしてるの。恋する乙女って忙しいー!勉強どころじゃないよね」

「いや、たかねはそろそろ、真面目に勉強した方が良いと思うよ」

 夏芽は厳しい目でたかねを見た。

たかねの首元には、エメラルドのネックレスが輝いている。たかねの元恋人であり、夏芽たちの元担任教師であり、夏に世間を騒がせた“人喰い惨殺通り魔事件”の犯人である平沢利夫からプレゼントされたものだ。たかねは、いつも色恋の話を楽しそうにしながら、本当はまだ“彼”のことを思っているのだろう。夏芽には何となくわかっていた。でも、世の中にはどうにもならないことがある。たかねがいつか、そのエメラルドのネックレスが外せる日が来るといいな。そんな人が、現れると良いな。夏芽は毎日たかねのどうでもいい雑談を聞きながら、ふと思うのだった。

 その時、廊下を、一人の男子生徒が颯爽と歩いて行った。

「あ!」

 たかねは叫んで、夏芽の手を引きながら廊下の方へ走った。

「宮本先輩だ!」

「ほんとだ。なんで三年生がこの階歩いてるんだろ」

 夏芽は首を傾げた。

 宮本肇は、正に“完璧”な人間である。野球部ではピッチャーだけでなく、キャプテンまで務めてみせた。彼の周りは、いつも人であふれている。夏芽は、どちらかというとその様な日向人間は好きではなかった。人一倍人気のある宮本肇より、その下位に位置する土田和也の方が好感が持つことが出来た。

 土田和也は、元野球部キャッチャーであり、副キャプテンであった人物である。多分、宮本肇が居なければ、彼がこの学校で一番注目を集めていた存在なのであろう。彼だって、ルックスは中々上級で、成績だって良い。彼もそこそこ名の知れている国立大学のスポーツ推薦を決めたのだが、その功績も、宮本肇の派手なオーラにかき消されて、つい薄らとしてしまう。あえて言うなら、縁の下の力持ち、だ。

 夏芽は、日陰者という分類に入る、と自分を仮定している。その所為か、光り輝く宮本肇は、なんだか単に苦手な存在でしかなかった。親友のたかねは、その宮本肇のことが好きだというのだから、不思議なものだ。

 そんな光り輝く宮本肇だが、今日の後ろ姿は少し疲れているように見えた。そう感じたのは、夏芽だけだったかもしれない。しかし、“向こうの世界”に行くようになってから、なんとなく人の“オーラ”みたいなものを、色で感じ取ることが出来るようになっていた。

 今日の彼は黒かった。

「宮本先輩、疲れてるのかな」

 夏芽は思わず呟いた。

「え、そうかな。いつも通りかっこいいと思うんだけど」

「かっこいいとか、かっこ悪いとか、そういう事しか見てないの?全く、たかねは」

 チャイムが鳴り響く。ホームルームが始まるのである。チャイムが鳴り終わるのと同時に、鷲島が教室に入ってきた。

「出席をとるぞ」

 鷲島が担任になってから半年。未だにクラスの皆が、鷲島を恐れているようだった。名前を呼ばれるだけで、緊張する。お蔭でホームルームが引き締まっていいのだが……。鷲島の優しさを知っている分、夏芽は少しだけ気の毒に思った。


 ホームルームが終わった後、ふと夏芽の目の前を影が覆った。誰かが来たようだ。咄嗟に顔を上げると、そこには、意外な人物が立っていた。

清潔感を保ったままに着崩された学ラン、その下から見える真白のワイシャツと日焼けした肌、茶色がかった髪はお洒落にウェーブしている、見るからに光り輝くその少年は、先程廊下を颯爽と歩いていた、宮本肇であった。

思わぬ客人に、夏芽は一瞬唖然とする。これほど近くから、この宮本肇を目にしたのは、初めてだった。近くで見ると、余計に輝いて見える。夏芽は宮本肇から目をそらせないまま、無機物のように静止していた。

「み、」

「宮本先輩っ」

 夏芽が言う前に、いつの間にか駆け寄ってきていたたかねが言った。

「夜崎夏芽、だよね」

 たかねを無視して、宮本肇が言う。先程も思ったが、やはり今日の肇は何処か疲れている様だ。

「そうです。これが夏芽です。で、私が、たかね。唐沢たかね」

 夏芽が頷く前に、やはりたかねが口を挟む。肇はたかねの方を少しだけ見て、微笑んだ。

「たかねちゃんね。覚えておくよ。でも今日は、夏芽ちゃんに用があるんだ」

「え?なんで?なんで夏芽?」

 たかねが二人を交互に見た後、横目で夏芽をにらんだ。

―――違う!たかねの考えてることは、違う!

 夏芽は仕草と表情で伝えた。たかねは腕を組んで、ふうん、と鼻を鳴らした。

―――勘違いされてる!

 夏芽たちのやりとりを気にすることもなく、肇は、

「ちょっと、相談があって、聞いてくれないかな」

 夏芽はなんとかたかねを制した。

「どんな相談ですか?私、協力できることがある覚えがないんですけど……」

 やっと言葉を発することを許された。肇は教室内をきょろきょろと見まわしてから、声を小さくした。

「土田のことで」

「土田先輩、どうかしたんですか?」

 たかねが言う。好きな男の前であるというのに、緊張するわけでもなく、いつもと同じ饒舌である。

 肇は首を振る。

「いや、ちょっとね……」

「何か、あったんですか?」

 夏芽は肇を覗き込んだ。肇は一瞬顔を歪め、それからポケットに手を入れた。取り出されたのは、携帯電話である。

「これ、見て」

 夏芽とたかねは同時に肇の黒い携帯電話の画面を覗き込む。そこには、わかりやすい一文が映し出されていた。

『やばい、蟲男見ちゃった』

 差出人名は、土田和也、と表記されている。

「これは……」

 夏芽は息を呑んだ。流石のたかねも、言葉を失ったようであった。

今、県内で起こっている失踪事件の被害者の共通点、それは、失踪直前に「蟲男を見た」というメールを知人に送っている、という点である。まさか、土田和也が、巻き込まれてしまったというのだろうか。

「宮本先輩、警察には」

「土田の親族が、捜索願を出しているよ。何故か担任は……言わなかったみたいだけどね。帰りのホームルームででも言うつもりかな」

 鷲島の事だ。進路選択の時期に、生徒に余計な不安をあおりたくなかったのかもしれない。

「でも、なんで私に見せるんですか?私、宮本先輩とも土田先輩とも、喋った事すらないし……、事件にも詳しくないですし……」

 正直、夏芽は困惑した。「親が失踪届を出している」時点で、どう考えても夏芽の手におえる話では無い。こんなメールを見せられたところで、何か手助けをしてやれるわけでもなく、ただ、恐怖することしかできない。それ以前に、肇とも、失踪したと思われる土田和也とも、夏芽は会話すらしたことがない。そんな相手に相談などして、何の意味があるだろうか。

「いや、噂で聞いて」

 肇が言った。夏芽は思わず聞き返す。

「噂って?」

「妖怪が見えるっていう、噂」

 宮本肇は、真剣な表情であった。

「この世界には、信じがたいことが沢山ある。妖怪だって、その一つだ。でも、妖怪は居る、俺にはわかるよ。でもいくら信じても、俺は妖怪と会話することは出来ない。でも、夏芽ちゃんなら、できるんだろ?」

 夏芽は驚愕するとともに、焦った。確かに、夏芽は妖怪と会ったことがあるし、会話をしたこともある。食べられかけたことだってある。それは事実だ。しかし、そんなことは誰にも言っていない―――信じてもらえないだろうから―――。しかも、そんな噂が広がっているという事は、夏芽にはこの光り輝く宮本肇の耳にすら届くほどの“オカルト少女”という名声があったという事になる。皆、そんな目で夏芽を見ていたのか――――――。夏芽は泣きたい気持ちになった。

 肇は真剣な表情のまま、続けた。

「蟲男って、妖怪だろ。だからさ、そいつに会って頼んでほしいんだよ、土田を返してくれって。こんなこと、夏芽ちゃんにしか頼めない。警察に捜索願を出したけど、だって、今までの行方不明者は、未だに誰も見つかっていないじゃないか。警察だけに任せたって、きっと無理だ。だって、相手は妖怪なんだぜ……」

 夏芽は肇を見つめた。

 肇は、本当に妖怪を信じているのか。

「でもさ、宮本先輩。妖怪なんて、迷信だよ」

 たかねが言う。それが、一般的な意見だ。しかし肇は、あくまで真剣な面持ちで返した。

「いや、妖怪は居るさ。だって、おかしいじゃないか。蟲男を見たっていうメール、被害者全員が、送っているんだぜ。俺は、蟲男の仕業だと思う。いや、絶対そうなんだよ」

 それから再び夏芽を見て、今度は深く頭を下げた。

「お願いだ、夏芽ちゃん。俺にとってあいつは、本当に大切な、親友なんだ。あいつが居ないと、俺……」

 肇の言葉は、夏芽の心を打った。親友を助けたい、そう思う彼の気持ちは、同じく大切な親友を持つ夏芽にとって、理解し易いものであった。

 しかし、夏芽は首を振った。確かに、蟲男という妖怪に会うことは、綺堂や辰之助に頼めば簡単かもしれない。だが、抑々(そもそも)その蟲男が、失踪事件の犯人である筈がない。妖怪は、人間に直接触れたり、関与することが出来ない。つまり、人が失踪するという、このような事件は、人にしか起こしえないのだ。無力な女子高生である夏芽が協力したとて、事件解決の糸口を見つけることはできない。

「ごめんなさい、でき」

「オッケーです、任せてください!」

 夏芽は勢いよく顔を上げた。夏芽が断る前に、たかねが「承諾」の返事をしてしまったのだ。訂正しようと口を開くと、それを遮るように、再びたかねが言った。

「夏芽はね、妖怪のことにすっごく詳しいの。だから、夏芽に任せれば、絶対、土田先輩を助けてくれるよ。安心して、宮本先輩」

「ちょっと、たかね……」

 夏芽が、今度こそ弁解しようと立ち上がると、たかねは、夏芽の肩を抱くふりをして、耳元に口を寄せ、静かな声で言った。

「夏芽、私の恋愛に、協力しないなんて言わせないわよ」

 たかねは、事件のことや土田和也のことなど、眼中のないのだ。たかねの狙いは、宮本肇の気を引くこと、ただそれだけ。

「ね、やるよね、夏芽」

 たかねが夏芽に同意を求める。夏芽の選択肢は、一つしかなかった。

「わかりました……」

「ホントか、夏芽ちゃん!ありがとう、頼むよ」

 宮本肇は、満面の笑みを浮かべて、私たちを交互に見た。こうなってしまったからには、やっぱり無理です、なんて言葉は軽々しく口にできない。しかし、頼むよ、と言われても、夏芽は土田和也を取り戻すような超能力や、魔術なんかが使えるわけではないのだ。嬉しそうに微笑む肇とたかねをよそに、夏芽は一人、ため息を吐いた。




「夏芽え、ごめーん、私、宮本先輩の気を引くチャンスは今しかないって思って、つい言っちゃったの」

 帰り道、たかねは言った。

「ごめーん、じゃないでしょ。もう、大変なことになったんだよ」

 夏芽は強い口調で言う。しかし、たかねは全く気にしない様子で、あはは、と笑った。

「でも、よかったよかった。ちゃんと、携帯の番号まで入手できたし」

 たかねは夏芽が肇から手渡された、肇の携帯電話の番号が書かれているメモ用紙を空にかざした。

「これ、宝にするね。早速電話しなきゃ」

「ちょっと待ってよ、それ私が貰ったんだけど」

「えっ、夏芽は土田先輩派でしょ?」

「そういう問題じゃなくて……」

 現在、たかねの脳内の八十パーセントは、宮本肇のことでいっぱいなのだ。なんとか紙切れをたかねから取り戻した夏芽は、それを制服の胸ポケットに入れた。

「てゆうかさ、宮本先輩って可愛い一面もあるんだね。妖怪を信じてるなんてさ」

「私の時は『オカルト少女』とかって言って馬鹿にしたくせに、宮本先輩には甘いのね。てか、私の噂流したの、絶対たかねでしょ」

 夏芽は思わず唇を尖らせた。

「えへへ。ついみんなに言っちゃったかもねー。でも、夏芽は、度が過ぎてるのよ。どうせまた、『綺堂さん』とかって言い出すんでしょ」

「綺堂さんは、実在する人物よ。たかねだって、助けられたじゃない」

「でも、見たことないもん。自分の目で見たものしか信じないの、私は」

 たかねはベロを出した。

 この事件、また綺堂壱紀に協力を頼まざるを得ないだろう。彼は、妖怪、都市伝説、幽霊、こういった類の問題に直面した時、一番頼りになる存在だ。

彼はこの“人間世界”には居ない。“向こうの世界”、つまり妖怪の世界に住む、“人間”なのだ。

「まあ、その綺堂さんだか麗堂さんだか知らないけどさ、その人にでも協力してもらって、なんとか土田先輩を探してあげてよ。私はその間に、宮本先輩のハートをゲット、するからさ」

「たかねは、勝手すぎるのよ」

 夏芽は先程よりもさらに深く、大きなため息をついた。







 夏芽は、八千代トンネルにやってきた。受験シーズンに入ってから、向こうの世界にはあまり行っていなかった。

―――綺堂さんや辰之助くんは元気かな。

 夏芽は薄暗い八千代トンネルを通りながら思った。

 街は今日も賑やかであった。この世界は、一年の内の三百日間が“祭り”なのだ。至る所が屋台で埋め尽くされており、そこから、焼き鳥や綿飴の良い匂いが漂ってくる。通路を示すように並べられている提(ちょう)燈(ちん)は、風が吹くたびに中の蝋燭(ろうそく)の炎が揺れて、影を作ったり光ったりを繰り返している。屋台の中の妖怪たちは、忙しなく「いらっしゃい」とか「そこの人」と声を張り上げる。活気ある街、とは、こういう事だ。

 夏芽は中央通りを歩きながら、ある店の前で止まった。林檎飴、を売っている屋台である。丸刈り一つ目の少年が、夏芽に微笑みかける。

「おっ、いつもの綺堂の兄貴に着いて歩いてる、人間の姉ちゃんじゃないか。どうだい、一本」

「あ、うん、食べたいのは山々なんだけど、今日は綺堂さんと一緒じゃなくて。私、こっちのお金は持っていないから」

「こっちのお金ってなんだい。言っとくけどここは結構国際的なのさ」

 少年は胸を張った。

「亜米(アメ)利(リ)加(カ)の弗(ドル)札だって、欧羅(ヨーロ)巴(ッパ)のユウロ札だって、もちろん日本の円だって、銭だって、なんだって使えるんだぜ」

「そうなんだ、すごいんだね」

 何と画期的な話だろう。人間世界では、基本的にその国ではその国の金しか使うことはできない。ドルやユーロまで使える、という事は、外国人がここに来ることもあるということだろうか。夏芽は少し疑問に思いながら、鞄から財布を取り出した。

「じゃあ、日本円だといくら」

「いくらでもいいさ。小銭でも札でも、なんでも一個と一個を交換するんだ」

 少年は微笑む。夏芽は、流石に壱円玉を出すのは可哀想だと思い、財布から十円玉を取り出して少年に渡した。少年は目を丸くする。

「姉ちゃん、まさかこんな大金くれるのかい」

「え、たったの十円だよ」

「たったのって……姉ちゃん、どえらいお金持ちだったんだね」

 少年は夏芽を見上げ、それから、林檎飴を二本取り出した。

「こんな大金で一本買わせるなんて、そんな雑に商売やってないよ。ほら、二本だ、これでも少ないけど」

 たった十円なのに、と夏芽は思った。妖怪世界と人間世界では金銭感覚が違うのであろう。夏芽は林檎飴を受けとる。一人で二本も食べられないから、一つは辰之助にあげよう。夏芽は少年にお礼を言って、再び歩き出した。

 暫く歩いて賑わう中央通りを抜け、左に曲がって、また少し歩いたところに、古びた民家がある。瓦屋根に木の造り。古き良き日本家屋。これが綺堂壱紀の家だ。

 夏芽はガラスの引き戸を叩いた。

「こんにちは、綺堂さん。夏芽です!」

 …………。

返事はない。夏芽はもう一度叫んだ。

「綺堂さぁん」

 …………。

 やはり、返事はない。留守なのだろうか。

 夏芽は、申し訳ない、と思いながら、引き戸を開けて中に入った。

「綺堂さん、はいりますよー」

 …………。

 やはり、返事はない。しかし、出不精の綺堂が、何処かに出かけているなんて考えられない。迷っている暇があるなら、進め、だ。夏芽は靴を脱いで、家の中に上がった。

 綺堂壱紀は、いつも二階で生活していて、夏芽がここを訪れるときは、必ずと言っていいほどそこに居る。今日も、そこにいるかもしれない。きっと、読書に熱中し過ぎて声が聞こえないのだ。

 階段を上ると、すぐ部屋がある。しかし、蛻(もぬけ)の殻(から)だった。

「珍しいなあ。本当に留守なのかなあ」

夏芽は再び階段を下る。階段は先程からぎしぎしと軋んでいて、冬場に食べ過ぎて太ったのだ、と夏芽はため息をついた。

留守なら仕方がない。夏芽は帰ろうと玄関に座って、そこで綺堂の下駄を発見した。履物を履かずに外に出る人がいるだろうか。

 「……綺堂さぁん」

 夏芽は先程と違って、小さな声で言った。いる筈なのに、いない。初めてこの世界に来て妖怪たちの中に一人になった、あの時と同じ孤独に陥った。

 夏芽はふと、物音を聞いた気がして振り返った。そこは、煤けた古戸であった。どうやら、音はその中からしている。誰も居ないところで、音がする筈がない……という事は、綺堂だろうか。

 こんなところに古戸があるという事に、夏芽は今まで気づかなかった。色が他の壁と同じだからだろうか、それとも、目立たないように古戸自体が故意に隠れていたのだろうか。もしかしたら、夏芽が見てはいけないモノがあるのかもしれない……。

 夏芽は取っ手に手を添えた。横にスライドさせようと力を加える。だが、古戸は全くもって動こうとしない。古い所為だと思い、夏芽は更に力を入れる。だが、やはり動かない。

少しして、原因がわかった。夏芽は、顔を近づけて古戸を観察した後、慌てて力を緩めた。この古戸は、横に引いて開けるものでは無く、どうやら押して開けるものだ。危うく、壊してしまうところだった。

 気を取り直して、夏芽は、古戸ゆっくりと押した。戸は重く、ぎしりぎしり、と音を立てる。古戸は、その口を開いた。

 途端、夏芽は咳込んだ。埃が舞いあがり、目の前が、灰色に覆われる。部屋の中は、長い間掃除されていなかったようで、踏み込むと床に足跡が残ってしまうほど、埃が積もっていた。

「夏芽さん、じゃないか」

 声がして、夏芽は口元を押えながらそちらに目をやった。部屋は広く、高校の教室二つ分くらいの大きさはある。夏芽はあたりを見回して、奥の方に立っている、黒髪で長身の青年を発見した。綺堂壱紀である。綺堂はいつものように、紺色の着物に黒い帯を巻いて着流し、足には白い足袋(たび)を履いている。この埃塗れの世界に居るにしては、あまりに清潔な姿だ。

「き、綺堂さん、なんですか、この部屋は……」

 探していた綺堂壱紀にやっと会うことができた、という安堵よりも、この部屋の汚さへの驚きの方が勝っていた。

「すごい埃……。こんな場所にずっと居たら、絶対病気になりますよ」

「ああ、掃除するのが面倒でね。一応、僕の家の中で最も古い書庫なんだよ」

「最もって、他にも書庫があるんですか」

 夏芽は振り返って部屋の外を確認した。しかし、居間や座敷、その他の生活空間は目に入るものの、書庫らしき部屋や怪しげな扉なんかは見えない。

「この家の中には無いのだよ。裏にある、離れの方にね」

 綺堂は人差し指を突き立てながら言った。

「この書庫だけ特別なんだ」

 綺堂は古本屋だ。職業が古本屋で趣味は読書。この世界は、なんとも都合がいい。

「それより、夏芽さん。どうしたんだい」

 綺堂が言う。

「君が無断でこの家に入ってくるなんて、珍しいじゃないか」

「だって綺堂さん、呼んでも返事してくれないから。下駄はあるから家の中にいるのはわかったんですけど……」

「ははは、それは失礼したね」

 綺堂は、悪びれる様子もなく詫びた。

「ある小説に夢中になっていてね」

「ある小説ですか」

「ああ。君にも、非常に関係のある小説だと思うんだが」

 綺堂は手の中にある本を胸の前に掲げた。

「私に関係のある本、ですか」

「そうだよ、夏芽さん。今日、君が大学に向けての勉強を中断してまでここに来た理由さ」

 一冊の薄い本。埃だらけで、汚い。

表紙に大きく印字されている本の題名を見て、夏芽は目を見開いた。

「む、蟲男」

「君たちの世界で、どうやらこいつが暴れているらしいね」

 綺堂は優しい手つきで撫でるように本の埃を払いながら言った。

「それについてのことで、こっちに来たんだろう」

「そうなんです……でも、どうしてわかったんですか」

「僕は、君と関わるようになってから、こちらの世界だけでなく、向こうの世界のことまでしっかりと目を配るようになった。新聞だって、毎日欠かさず読んでいるのさ。だから、いずれ夏芽さんがこういう事件に巻き込まれるんじゃないかって予感していてね。ただでさえ忙しい高校三年生の夏芽さんが、その時間を割いてまで来るとしたら、これしかないと思ったのさ」

「新聞が、こっちの世界にも届くんですか」

「当たり前だよ、夏芽さん。新聞というものは、お金さえ払えば、すべての人が例外なく読むことのできる筈のものなんだよ」

 綺堂は言いながら、手にしていた『蟲男』をぱたり、と開いた。

「蟲男、という妖怪は、実のところ、僕もよく知らない妖怪だ。もしかしたら妖怪とは違うものなのかもしれない。兎に角、知らないものは調べる必要がある。それで色々探していたところ、この、非常に興味深い小説に出会ったというわけだ」

「興味深い?」

「ああ。本というものは、どんなものでも面白いものだ。例え、それがまだ五つにもならない子供が書いたものだとしても、文才のない凡人が書いた平坦な批評文であったとしても、それが面白くないことなどない。ただ、この『蟲男』は、群を抜いて非常に不可思議なんだ。この事件と関係があるから興味深い、という事もあるけれど、それだけではない、これほど気味の悪い怪奇小説を書ける人間は、きっとこの著者以外には居ないだろう。いや、これは単に怪奇小説、猟奇小説、などという言葉で区別するべきではない。何もかもが事細かに書かれ過ぎている。まるで自伝小説だ。だから、非常に興味深いんだよ」

 綺堂はぱらぱらとページを捲る。

「夏芽さんは、蟲男がどんなものか知っているかい」

 夏芽は首を振る。

「みんな、蟲男蟲男って騒いでるけど、実際、あんまり詳しくは知りません。でも、体中が虫に覆われているんでしょ」

「ここには、こう書いてある。”蛆虫を思わせる白い虫たち、いや、だが普通の蛆虫のように豆型ではない。それらはもっと長いのだ。そいつらは、俺の皮膚を食い破って、先程からゆらゆらと揺れている”つまり、単に虫に覆われている、という表現では正しいとは言えないんだ」

「違うんですか?」

「だって今、言ったじゃないか、虫たちが“皮膚を食い破って”って。つまり、その虫とやらは、蟲男の体の中から生えている、とでも言おうか。それに、奇妙なことに、どうやらこの蟲男、元は普通の人間であったらしい」

「人間の身体から、虫が生えてきてるってことですか」

「最初に書いてあるんだよ。蟲男は、そうなる前は、単に寄生虫が好きな、趣味の悪い人間だった、と。それがある日突然、まるで虫に寄生されたかのように病になり、そしてまたある日突然、その虫たちが皮膚を食い破って現れた。これが蟲男の誕生だ」

 おえ……。夏芽は、想像して嗚咽を漏らした。人間の中から蛆虫が飛び出す、その瞬間が、妙にリアルに脳裏に浮かぶ。人間に寄生する虫、といえば、サナダ虫が有名である。しかし、サナダ虫は決して人間を食い破って外に出てきたりすることはない。

「気持ち悪い小説ですね……それに、もしそんな人が本当に居るのだとしたら、もっと気持ち悪いです……」

「ああ。半妖半人の、この僕でさえ気持ち悪いと思ったのだから、普通の人間である君には尚更、刺激が強すぎたかもしれないね」

 綺堂は申し訳なさそうに言った。綺堂や、この世界の住人は、人間の生首が落ちていたり、腐った肉の腐敗臭が漂う空間に居ても、平気だ。そんな彼が言うのだから、やはり、かなり気持ちの悪い小説なのだろう。

「先程も言ったが、この小説、まるで自伝小説のようなんだ。今のところ、最大の手掛かりだよ」

「最大の手掛かりって、」

「もちろん、蟲男に会うための、さ」

 綺堂は微笑んだ。

「む、蟲男に、直接会うつもりですか!」

「ああ、そうだよ。だって、それが一番手っ取り早いじゃないか。人喰い女のときだってそうだった。問題が起きたら、当事者に聞くのが一番なんだよ」

 夏芽は顔を青くした。先程からの綺堂の解説によると、蟲男は今まで夏芽が見た妖怪の中でも際立って気色の悪いモノである。それを見て、夏芽が平気で居られる筈がない。

「待ってください、綺堂さん。人間世界で起こってる、連続失踪事件、本当に蟲男がやったって思ってるんですか?綺堂さん、いつも言ってるじゃないですか、事件っていうのは、人間が起こすものであって、妖怪の所為では無いんだって。世の奇妙は人間だって」

 夏芽は蟲男を見たくないという一心で精一杯弁明する。しかし、綺堂は、はははと高らかに笑った。

「そう、この世の最大の奇妙は、人間だ」

 それから、手にしていた扇子を開いて仰ぐ。ふわり、と埃が舞う。

「だが、妖怪が直接手を下していなくても、間接的に関係しているという事は有り得る。つまり、蟲男に会うことで、僕たちが得をすることはあっても、損をするなんてことはないんだよ。それにね、僕は今まで生きてきて、多くの妖怪や人間に会ってきたが、この蟲男なんて言う妖怪には、一度として会ったことがない。妖怪の中でも希少種であるかもしれないこいつを、僕は一度見てみたくてね」

 だったら、一人で行ってほしい。夏芽は心の中で呟く。しかし、夏芽がここに来たのは“蟲男について調べて、土田和也を取り戻す”ためだ。このまま何もせず人間世界に戻るわけにはいかない。

 でも……正直見たくない。

 夏芽が、頭を抱えていると、背後から、聞き覚えのある大声が聞こえてきた。

「旦那あ、旦那あ、綺堂の旦那あ」

 夏芽は振り返る。玄関のところで、雑誌のようなものを数冊抱えて立っていたのは、後頭部にぎょろ眼を持つ妖怪、辰之(たつの)助(すけ)であった。

「辰之助くん!」

 辰之助は夏芽の顔を見つけると、目を大きく見開いた。

「夏芽姉さん、久しぶりですねい。どうして、そんなところに居るんですかい」

 辰之助の声を聞いた綺堂が、ため息をつきながら夏芽の立っている古戸まで歩み寄り、顔を出した。

「なんだ、ぎょろ眼。お前はまた僕と夏芽さんのデートを邪魔しに来たのか」

「デートですかい」

 辰之助は興味深そうに綺堂と夏芽を見比べた。夏芽は慌てて首を振る。同時に、綺堂が言った。

「ああ。これから二人で青森県へ旅行しようと思っていてね」

「えっ」

「えっ」

 夏芽と辰之助の声が重なる。

「き、綺堂さん、旅行って」

「この本には、蟲男が青森県に住んでいたというような記述が沢山書かれているんだ。だから、蟲男に会うためには、青森県に旅行に行かなければならない」

「旦那あ、あっしも、連れて行っておくんなせえ」

 辰之助が飛び跳ねる。それから手に持っている書物を綺堂の方に差し出した。

「ほら、旦那に言われた通り、後ろの書庫から、こんなに資料持ってきたんですから」

 こんなに、といっても、三冊だった。しかも三冊とも、雑誌だ。

「昨日の夕方(ゆうかた)からずっと探してやしたが、これで全部。いやあ、蟲男ってやつは、本当に珍しい妖怪なんですなあ」

「辰之助君、そんなに長い間、書庫で探し物をしてたの」

「ああ。書庫はいくつもある上、その書庫一つの中には何千、いやそれ以上の本や資料が収納されているんだ。僕は目が二つしかないからね、ぎょろ眼の方が効率がいいだろうと思ったんだよ」

「あっしは、三つありますもんねえ」

「目が三つある辰之助ですらこんなに時間がかかったんだ。僕がやっていたら、ああ、考えたくもないね」

「それに、旦那あ本探しにゃあ向いていませんや。だって、面白そうな本があったら、途端に読みだしてしまうじゃないですかい」

「仕方がないだろう、そういう性分なんだ」

 綺堂は扇子で顔を煽ぎながら言った。

「兎に角、すぐにでもここを出よう。ぎょろ眼も、来たければ勝手に着いてこい。だが、僕と夏芽さんの邪魔を、くれぐれもしないように」

「わかりやした、旦那あ」

 辰之助は雑誌を抱えながら、嬉しそうに微笑んだ。

「あの、どうやって行くんですか」

 夏芽が尋ねる。

「そりゃあ、電車に決まっているだろう。人力車を走らせるには酷な距離だからね」

 綺堂はそう言って、支度をするのだろうか、階段を上って行った。

綺堂の姿が目の前から消えると、辰之助は草鞋(わらじ)を脱いで、夏芽の隣に駆け寄った。

「夏芽姉さん、一体いつからなんですかい」

「いつからって、何が」

「勿体つけないでくださいよう、旦那と、ですよう」

 辰之助は夏芽の肩をつつく。夏芽は顔を赤くした。綺堂が紛らわしいことを言った所為で、辰之助は勘違いをしているらしい。夏芽は首を大きく振った。

「違う違う、何もないよ。多分綺堂さんは辰之助君をからかいたくて、ああ言ったんだよ」

「ええ、そうなんですかい」

 辰之助は残念そうに肩をすくめた。

 綺堂は、偶に冗談なのか、本当なのかわからないことを口にする節がある。今回の様な“夏芽とはそういう関係だ”という冗談は、初めて出会った時からずっと綺堂は口にしている。親にまで挨拶に行ったらしい。お蔭で、あの時は弁解が大変だった。父、冬吉は「まだ早すぎる」と怒るし、母、春代は「あら、いい方じゃない。貰い手がついてよかったわね」なんてお互いに言い出して、二人で口論だ。辰之助も夏芽も、綺堂には振り回されっぱなしである。

「さあ、出発するよ、夏芽さん」

すぐ後ろで 綺堂の声がした。つい今、階段を上って行ったばかりであるというのに、早すぎる。夏芽は驚いて振り向く。

 綺堂は、先程と全く変わらない服装のまま、扇子で顔を煽いでいた。

「綺堂さん、支度しに行ったんじゃ」

「足袋を履き替えていたのさ」

 夏芽は綺堂の足元に目を落とす。先程までは白い足袋だった。今は黒の足袋に替わっている。

 夏芽はふと、綺堂が片足で足袋を脱いだり、履いたりしているのを想像してしまった。綺堂はいつも身支度を整えていて、例えばどんなに走っても、着物が肌蹴ることすらない。そんな彼も、足袋を履き替える時があるのだ。もしかしたら、片足立ちになってけんけんしながら履いているのかもしれない。

 突然くすくすと笑いだした夏芽を見て、綺堂は首を傾げる。

「どうしたんだい、夏芽さん」

 夏芽は、慌てて顔を背けた。

「な、なんでもないです」

「そうかい、それならいいのだが。では、こうしている時間も勿体無い、そろそろ、出かけるとしよう」

「あいっ、旦那あ」

 辰之助が、飛び上がって言った。それから腕の中にある荷物のことを思い出す。

「旦那あ、こいつらは、どうしましょう」

「ああ、帰ってきてから読むから、そこに置いておいてくれ」

 綺堂が言うと、辰之助はすぐさま三冊の雑誌を床に置いた。

「じゃあ、行きやしょう」

「ぎょろ眼、忘れているかもしれないが、いいか、お前はおまけだぞ。おまけだという立場を忘れるなよ」

 綺堂は言いながら、辰之助を追い抜いて家を出た。




 三人が綺堂家を発つと、それと入れ違いになるように、一人の男が綺堂の家を訪れた。白いワイシャツに茶色のスラックス、茶色の背広を右肩にかけている。男は玄関の戸を叩いたり、「もし」と呼んだりするが、誰も居ないから返答などある筈がない。綺堂が留守であることを悟ると、男は肩をすくめながら頭を掻いた。

「参ったな、遠路(えんろ)遥々(はるばる)来たってのに」

 しかし、どう嘆いたところで、綺堂は居ないのだから仕方がない。男は暫く困った顔をして玄関の戸を見つめていたが、諦めがついたらしく、ポケットから取り出した煙草に火をつけながら去って行った。

 誰も居なくなった玄関の床で、辰之助の置いた雑誌が、はらりはらり、とページを捲って、『蟲男』の連載ページを開いた。奇妙である。戸はぴたりと閉め切られていて、風など、入ってくる筈がないというのに。 

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