六、
ガタン。急に光が差し込んで、土田和也は目を細めた。何日、ここに閉じ込められていただろう。砂埃舞う、暗い部屋。手足、口は頑丈にガムテープで縛られており、最初の内は逃れようと必死に動いたが、最早諦めかけていた。餓死するのだ。孤独のまま、餓死するのだ。兄の翔也が病をかくし、孤独のうちに死んでいったように。
しかし、希望の光が差した。和也は顔を上げる。茶色の背広にスラックス、光の加減で緑に光る髪を持つ無精髭の男は、心配するでもなく、安心するでもなく、ただ和也を見下ろしていた。
「おい、大丈夫か」
男は和也の口からガムテープを剥がした。痛い。ああ、生きている。和也の目から涙がこぼれた。それを見て、男は冷たい声で言った。
「泣くな。お前にはまだ、やらなきゃいけないことがある」
*
夏芽の元に、宮本肇からの電話があったのは、宮本吉造の犯行を綺堂が暴いた、次の日だった。宮本肇は受話器の向こう側で、「土田和也」が、学校の倉庫の中から“生きた状態で”見つかったことを、静かに告げた。きっとほっとしていたに違いない。しかし、純粋にそう思うことができないのは、土田和也をさらった人間が、自らの父親だったからだ。
夏芽はその日のうちに、宮本の元を訪れた。宮本の豪邸は、先日訪れた時と全く変わっていない筈なのに、異常に静かだった。
玄関の扉を開けた宮本肇の顔は、昨日に増して疲れ切っていた。クマがひどい。これが本当に“あの宮本肇であるのか”と疑ってしまうほど、彼はやつれきっていた。
「ああ、夏芽ちゃん」
宮本は微笑んだ。きっと、無理に笑っているのだ、と夏芽は思った。今日はきっと、彼から情報を聞き出すのは無理であろう。綺堂ならやってしまうかもしれないけれど、夏芽には出来なかった。
玄関を上がってすぐのところの棚に、賞状やトロフィーが飾ってある。夏芽は、何とか明るい話題を取り上げたくて、それに飛びついた。
「すごいですね、いっぱいトロフィーがある」
肇が立ち止まって、少しだけ目に輝きを取り戻した。
「これは野球のですね。こっちは、陸上?宮本先輩、陸上もやってたんだ」
「違うよ、これは父さんの。父さんは、昔、短距離の選手だったんだ」
成る程、だから夏芽を襲った日、あんなに足が速かったのか。
「へえ、凄いですね。あ、この賞状は、小説……。お母さん?」
「いや、それは俺」
「宮本先輩の?小説も書けるんですか?」
「ああ。二年前に、ある出版社の新人賞に応募したんだ。そしたら運よく引っ掛かってね」
宮本肇は本当に何でもやってのける。夏芽は畏れ多い気持ちで背の高い宮本を見上げた。
「まあでも、これ以来執筆はしていないんだ」
「えっ、そうなんですか。勿体無い」
「そんなにいい作品でもなかったしさ。それに俺には、野球があったし」
そうやって切り替えて、高校野球のエースに上り詰めたのだから、大したものである。
「いやあ宮本先輩って、ほんとに凄いんですね!」
夏芽は感心すると同時に、元気付けるように明るく言った。
暫く廊下を歩いて、また先日のリビングへたどり着く。あの時は、帰ろうとした夏芽に、宮本吉造が声をかけた。だが、今日、もう彼はいない。自分を襲った恐ろしい相手でもある筈なのに、それが残念な気がした。
「土田、さ」
肇は椅子に座りながら言った。
「衰弱してるけど、命に別状はないって」
夏芽も肇に続いて椅子に腰を掛けた。
「そうですか。ほんと、よかったです」
「明後日の午後に、お見舞いに行くことにした」
土田和也が生きていた。これは非常に喜ばしいことである。きっと、由宇奇が助け出したに違いない。
肇は、下を向いていた。親友は助かった。しかし、父親を失った。
「俺、昨日からずっと思ってたんだ。全部、嘘ならいいのにって。だって、父さんは、そんなことするような人じゃないから。そうだって、信じてたから」
夏芽は黙ったまま頷いた。
「どうして父さんは、あんなことをしたんだろう。どうして、父さんは……。何か、悩んでいたのか。それなら、どうして、言ってくれなかったんだ」
肇は、自問自答するように一方的に言った。
「俺の、俺の所為なんじゃないか。俺が、俺がもっと優秀な子供なら」
「宮本先輩は何にも悪くないですよ。宮本先輩は、それに、優秀だもの。野球も出来て、勉強も出来て、それに、友達思いで。自慢の子供だったと思います」
「じゃあどうして」
そう問われても、答えられなかった。人喰い女の優子のいう事が本当ならば、その事実は、肇と吉造の関係を壊すだろう。これ以上、彼らを壊すなんてことは、夏芽には出来なかった。
今日ここに来なければよかった、そんなことも思った。
暫く項垂れた後、肇はふっと顔を上げた。
「ごめん、夏芽ちゃん。夏芽ちゃんに当たるようなことを言って……」
「いいですよ、宮本先輩は、今すっごく傷ついているんだから。私、気にしてないです」
本当は、苦しかった。しかし、肇や吉造のそれと比べたら、ほんの小さなものに過ぎない。
「夏芽ちゃん、優しいんだな」
「えへへ、綺堂さんにも、お人よしだって言われます」
夏芽は頭を掻いた。
「綺堂って、昨日の探偵の事か」
「そうです」
「なあ、もしかして、あれって君の彼氏?」
「えっ」
突然の言葉に、夏芽は思わず目を見開いた。
「だってさ、昨日、夏芽ちゃんの肩を支えたり、俺を送ってくれた後、妙に寄り添って歩いているように見えたし。どうなの、本当のところ」
「ち、違いますよ。き、綺堂さんは」
綺堂は、友人、というか、恩人の様な存在だ。肇は、意外だ、という顔をして見せた。
「そうなのか。俺はてっきり」
「だって、歳だって、離れ過ぎじゃないですか」
「いくつなんだ」
夏芽はううん、と唸った。そういえば、綺堂の正確な年齢を聞いたことは今までなかった。夏芽の予想では、二十六とか七くらいだと思うのだが、どうなのだろうか。
「見た目は、まあ、いい感じだったぜ。お似合い」
「いい感じって、やめてくださいよ」
夏芽は顔がほてるのを感じた。先日の辰之助からして、最近はこういう話題が多い。
顔が赤くなった夏芽を見て、肇は笑った。
「違うんなら、もっと平気そうな顔をしろよ」
「だ、だってぇ……」
なんとか自分を落ち着けようと頬に手を当てる。肇は小さな声で、
「まあ、でも、よかった」
と言った。
「よかった?」
夏芽がすかさず聞き返す。すると肇は意味深気に微笑んで、
「ああ」
と言った。
「成る程」
夏芽が宮本肇の家に訪れた時の事を事細かに話した後、綺堂はそう言って顎に手を当てた。
「あんまり、情報は仕入れられなくて……トロフィーや賞状の事や、宮本先輩がすっごく傷ついていたってことくらいしかわかりませんでした。すみません、事件とは、全然関係のないことばっかりで」
「いや、夏芽さん。夏芽さんのおかげで、夏芽さんを襲った犯人が吉造氏だという確信が持てたよ。普通の中年男性が、あんなに速く走れる筈がないからね」
綺堂は頷きながら言った。
宮本の家を訪ねた次の日、夏芽は約束通り綺堂の家を訪れていた。何か情報を仕入れてくると言った夏芽であったが、思いのほか収穫がなく、今日も、ただ綺堂の推理を聞きに来ただけのようなものである。しかし綺堂は、そんな役立たずの夏芽についてそう気にする様子はなかった。ただ何かを考え込んでいるような、そんな表情をしている。先程も、家に訪れた夏芽の顔を見た瞬間、綺堂は「この事件、なにやら複雑に入り組んでいるよ」と言った。一昨日からずっと、蟲男事件の事ばかりを考えていたに違いない。
「だが、それにしても奇妙だ」
綺堂が腕を組んで言った。
「何がですかい」
いつの間にか夏芽の隣に座っていた辰之助が言った。
「吉造氏だ。彼は、確かに、一人目の被害者に対する犯行は可能だ。だが、それ以外は、彼に犯行が行える筈がない」
「どうしてですか。車があるんだし」
「彼は、平日は、午後六時に、仕事を終えて帰宅、いや、ドライブに行く姿が社員に目撃されている。そして毎晩必ず八時には帰宅していた。これも、近所の住民や家政婦によって裏が取れている。つまり、行きと帰りで二時間、犯行も含めると、移動にはかなり短時間である必要がある。そしてその行動可能範囲、時間で行方が不明になっただろうと考えられるのは、第一被害者だけ。彼は自白したわけだが、実際は犯行は、不可能なんだ」
「でも、ドライブ中に犯行を行って、そのあと、例えばみんなが寝静まった深夜とかに、裏工作をしにその現場まで出掛ければいいんじゃないですか」
「それもあるかもしれないが、第三以降の被害者の所持品は、「蟲男メール」の所為もあって、被害者親族の通報と警察の警戒、捜査が早かったから、早くて夜九時半前後に発見されていたりもする。夜に通行人が発見して警察に届けたなんてこともあったようだ」
「ということは……本当に不可能犯罪じゃないですか!」
いや、夏芽さん、と綺堂は言った。
「不可能な犯罪など、この世には無い」
綺堂の目は、どうやら核心に迫っているのだろう、という事を思わせた。
「夏芽さん、先日の、宮本吉造が言った言葉を覚えているかい」
「えっと、どんなことですか」
「宮本吉造の妻、雪江についてだよ」
宮本肇の母親の名が雪江だという事は、たった今初めて知った。
「そう言えば、あの日、仕事があってこられないって言っていましたね」
「それだけではない。彼は、その仕事の内容まで明らかにしてくれた」
「内容、ですか」
「ああ。彼は、こう言ったんだ、『家内には毎日県内の店舗を回って、売れ行きや客の調査をしてもらっている。それで、今日はどうしても外せない』とね」
「県内の店舗をって……もしかして」
「其れで気になって調べたところ、いろいろと解ってね。雪江氏は、仕事を必ず午後四時には終わらせて帰ったらしい。だが、家に帰るのは、吉造より少し前か、遠くに行っていたときは十時を回ったこともあったそうだ。だが、おかしくはないか。まっすぐ帰宅したにしては、時間がかかりすぎている」
「じゃあ、雪江さんが……でも、動機は一体……」
言ってから夏芽ははっとした。先日の、優子の言葉がよみがえる。
『その宮本家の御曹司の肇っていう子についてだよ。宮本肇には、腹違いの兄弟がいるらしい。まだ出世する前の『よしみや』の経営者、宮本吉造はかなりの浮気症でね、あるとき、人妻と浮気をして、よりによって妊娠させちまったんだ』
動機は十分である。もし雪江が吉造を愛していたならば、その愛人の存在を知って、憎悪の感情が芽生えたとしてもおかしくない。そしてその女性に似た少女を見つけて……。
しかし、何か違う様な気がする。
もし自分が、彼女だったら……。
「綺堂さん、だとしても、おかしいですよ。雪江さんは、元愛人に似た人ばかりを襲ったんでしょう、ということは、雪江さんは、その元愛人が誰だか知っていたんです。私だったら、まあ私だったらっていうのもおかしいかもしれないですけど、それに似た少女じゃなくて、その元愛人本人を襲うと思うんです」
「確かにそうでさあ」
辰之助が同意した。
「わざわざダミイを誘拐してなくたって、本人を狙えばいいんでさあ」
「僕も、そこが一番引っ掛かったところだ。だが、その謎も、もう少しで解けるだろう」
その時、誰かが階段を駆け上がってくる音がした。夏芽は其方に目をやる。階段に繋がる穴から顔を出したのは、人喰い女の優子であった。
「おお、来たか、人喰い」
「なんだい、またそう呼ぶのかい。ふう、まあいいよ。坊や、辰之助、夏芽ちゃん、凄い事実が分かったんだよ」
優子は興奮したように言った。
「吉造の浮気相手で子を身ごもった女、それはね、花崎京子。結婚して姓が変わって、土田になったんだ。土田京子、失踪して昨日見つかった土田和也の、母親だよ。証拠にね、土田の父親はA型で、土田京子はO型なのに、何故か和也はB型なんだ。A型とO型からは、B型は生まれない。稀にあるけれど、今回はきっと違うね。だって何せ、吉造の血液型が、B型なんだから」
「ちょっと、待ってくださいよ」
夏芽は異議を唱えた。
「たとえその血液型の推測が正しかったとしても、おかしいじゃないですか。だって、被害者の人たちはみんな、その元愛人に似た人たちなんですよね。私、土田先輩のお母さんにこの前会いましたけど、背は高かったし、栗色の長い髪で巻き毛だったし、全然特徴が違う人でしたよ」
優子は眉を顰めた。
「どういうことだい、夏芽ちゃん。それは、土田京子に会ったってのは」
「私が襲われた日、宮本先輩の家を訪ねた後に、土田先輩の家を訪ねたんです。その時に会って、話もしました。」
「ああ、夏芽ちゃん」
優子は項垂れた。
「そんな筈ないだろう、夏芽ちゃん。土田和也の母親の土田京子はね、その夫、つまり和也の父親と一緒に、もう十年も前に交通事故で死んでいるのさ」
一瞬、脳内から音が消え去った。
「そ、そんな筈……だって、確かに土田先輩の家でしたよ、表札に土田って書いてあったし、写真とかも貼ってあって、生活感あったし……それに、宮本先輩から連絡を貰ったって……」
「夏芽さん、多分、君は確かに土田和也の家へ行ったんだ。しかし君が会った人は、土田和也の母親でも、ましてや親族でもなんでもない。多分君の言った特徴からして考えるに、その人は―――宮本雪江に間違いないだろう」
綺堂が懐から写真を出した。それを見て、夏芽は息を呑んだ。
―――――。
そこに映っていたのは、確かにあの日、夏芽を迎え入れた“土田和也の母親”であった。
夏芽は頭が混乱してしまった。
あの女性は、土田和也の母親ではなく、まさか、宮本肇の母親であったというのか。
「あたしが言った、本当かどうかわからない噂は、全くのガセネタだったってわけだね」
人喰い女が、多少項垂れるようにして言った。
「死んだ人間が、人を脅すなんてできる筈がないものね。週刊誌も、あてにならないもんだね」
綺堂は腕を組んで唸った。
「成る程、繋がった。雪江は、きっと君に“肇から連絡を受けている”だとか言ったんだろう。それで君は信じ込んでしまった。いや、あの家から出てきた時点で、何も知らない君はそう思い込まざるを得なかった。雪江は、夏芽さんをも利用したんだ。宮本吉造の過去と、自分の犯罪、そして、土田和也が結びつかないように」
それから綺堂は立ち上がった。
「夏芽さん、行こう」
夏芽はまだ頭の中が混乱して収拾のつかない状態にあったが、だからこそ綺堂の後に続いて立ちあがった。
「真犯人は、宮本雪江だ」
*
空が青く澄んでいる。雪江は庭の見えるバルコニーからそれを見上げながら、一人、ふふふ、と笑った。濁った池の中で、錦鯉がぴちゃりと跳ねる。広くそして底が見えないほど深い池である。まるで、雪江の心のようだ。
雪江の復讐は、思わぬ展開に発展して、そして今、幕を閉じようとしている。
それは、好ましくない状況であった。
だが、今更どうすることもできない。
雪江は、また、ふふふ、と笑った。
何もかも、“先手を打たれてしまった”のだ。
それも、自分が“巻き込んだ”のだから、仕方がない。
最初に、雪江が“利用した”のだから。
風がやんだ気がして、雪江は顔を上げた。いつの間にか目の前の庭の青い芝生の上に、見知らぬ着物姿の男と、そしてあの日“土田の家”を訪れた、京子にとてもよく似た少女が立っていた。
きっと、気づかれてしまったのだろう。
雪江は静かに笑った。
「雪江さん」
夏芽は言った。夏芽が雪江を名前で呼ぶのは初めてである。
「あなたが、」
「わかってる。それ以上言わなくていいわ」
雪江はあの日と同じ、綺麗な声でそう言った。
「そうよ、私が本当の犯人。あの人は、無実なのに自分から名乗り出てしまった、馬鹿なダミー」
「雪江さん、どうして、こんなことを」
夏芽の言葉の後、雪江は少しだけ沈黙した。
「それはね」
口を開く。
「それは、愛していたからよ。“あの人”を」
「吉造氏の事ですね」
綺堂の言葉に、雪江は笑顔でうなずいた。
「あの人は、結婚当時、本当に浮気症の人だった。周りからは、オシドリ夫婦って呼ばれていたけれど、実際は全然違って。だけどある年を境にね、彼は私をとても大切にしてくれるようになったの。そう、肇が産まれた年よ。私、すごくうれしかった。子供の、肇のおかげで彼がやっと振り向いてくれたんだって、そう思った。そう思ってた。去年まで」
「昨年の週刊誌に、吉造氏の浮気の疑惑が書き立てられたんですね」
「彼は、事実無根だって言って、気にしていなかったようだったけれど、私はとても気になって調べたの。だって、その浮気相手と子を作った時期が、丁度、私が肇を授かった時期だったんですもの。……土田京子には、すぐに辿り着いたわ。調べれば、すぐにわかった。京子とは、昔からの知り合いで、子供が丁度同い年だってことで、家も近くだったし、仲良くしていたわ。土田家自体とも、家族ぐるみの付き合いだった。それで、気づいたのよ、彼が私を気にかけてくれるようになった頃に、京子の子供は、土田和也と翔也は生まれたの。だから、だからあの人は、和也君をまるで本当の子のように可愛がったのよ。だって、本当の子だったんですもの。あの人はまるで、まるで、肇よりも和也君を愛しているようだった!」
女の瞳は狂気に満ちていた。夏芽ははっと我に返り、その悍ましい顔が、美しい雪江のものなのだと思い出す。
「だけどね、気づいたときにはもう遅かった。京子は、もう当の昔に死んでいた。私は、何処にこの感情をぶつければいいのかわからなかった。その思いをずっと胸に秘めて、私はそれでも、あの人に認めてもらおうと思って、仕事をつづけたわ。一生懸命。だけど、上手くいかないことはいっぱいあった。ストレスが溜まっていった。そんなある日ね、私はいつもの帰り道、京子を見つけたの」
雪江は、曇った焦点の定まらない眼で、遠くを見るようにして目を見開いていた。
「京子がね、居たのよ。私は、私はこれで、これで報われる……だから殺したの!」
雪江の声が、突然大きくなって、夏芽は思わず肩を震わせた。
「だが、それは、京子さんでは無かった」
綺堂が静かな、冷たい声で言った。雪江は、今度は力ない声を出した。
「気づいたら、あの子は私の車の中で、冷たくなっていたわ。京子だと思ったのよ、私は。だけど目の前に居たのは、京子じゃなかった。知らない子だった。それで私は、私が見ず知らずの女の子を殺してしまったという事を悟った。でも、私はいつも、車を運転するときに、手袋をつけているから指紋は残ってない。それでね、思いついたの。こうすればきっと“あの人は苦しむ”んだって。これを続けて行けば、あの人はきっといつか気づくわ、事件が『よしみや』付近で起こっているということ、そして、失踪した少女たちが皆、あの人の元愛人の京子に似ている子たちだっていう事に。そして犯人が私だって気付く。でもあの人は今、きっと、私を愛していて、そして、この幸せな家庭を壊したくないって思っている。だから、あの人は苦しむんだって、そう思ったのよ。そしたら、馬鹿な人。ほんとに馬鹿な人!自分がやったなんて言い出して!馬鹿だ!」
雪江の顔が、また鬼の如く歪んだ。
「『よしみや』から五キロメートルという微妙な地点に被害者たちの所持品を置いたのは、警察に悟られず、しかし、吉造氏が気付くであろうぎりぎりの地点を模索したから、ですね」
「そうよ。警察にばれる前に、彼が気付かなければ、意味がないですもの」
雪江は狂ったように笑った。
夏芽は恐れを感じながら、少し震える声で言った。
「あの日、土田先輩の家に居たのは、どうしてですか」
「あなたが、土田京子が死んでいることを知らないと思ったからよ。リビングの陰で、私はあなたと肇の話を盗み聞きした。そこであなたが”優秀な探偵さん”を雇っている事を知ったの。そんなあなたが京子の存在を知ったら、すぐに私が犯人だってバレると思ったのよ。彼、まだ何も気づいていないみたいだったから、その前に逮捕されてしまったら、意味がないでしょう。だから私は土田家に侵入したの。土田家とは家ぐるみで仲が良かったから、私はたまに、土田家に行ってご飯を作ったり、御菓子を差し入れたりしてたの。お蔭で気に入られて、土田家の合鍵を持っていてね。あの日、土田一家は全員、警察の事情聴取があるって、和也君の親戚の女の子が言っていたの。丁度良かったのよ。神様は私に味方してくれた」
雪江は、ふふふ、と楽しそうに笑った。
「面白いトリックでしょう」
血の気が引いていった。
「皆、殺したんですか」
綺堂が恐ろしいことを聞いた。すると、雪江は、今度は口を大きくあけて笑った。
「殺してやったわ。首を絞めて、こうよ、こう」
雪江が実演してみせる。今にも夏芽に襲いかかりそうだ。綺堂はそんな雪江から夏芽を庇うように一歩前に出た。
「でも死体が見つかったら、きっとすぐに警察が私にたどり着くと思ったの。だから隠したわ」
「やはり、皆死んでいたんですね」
綺堂は言った。先日の綺堂の予想は、土田和也を例外として、当たっていた。
「だって、殺さなきゃ。そうまでしなきゃ私の思いは、この切なさは、苦しさは、あの人には伝わりっこない」
女は笑った。
緑色の池で、錦鯉が、ぴちゃり、と跳ねた。
沈黙していた綺堂が、静かな声で告げた。
「貴女は間違っている」
「間違っていたのはあの人よ。私は”可哀想な女”なの」
「いいえ、貴女は分かっていない。吉造さんの気持ちを」
「気持ち?」
「彼がどうして、土田和也が産まれてすぐに、貴女を大切にしようと思ったか」
綺堂は強い口調で言った。
「彼は、自分の罪を認識したんだ。自分は間違っていたと、そう認識したんです。そして、償おうと思ったんですよ。だから、貴女を、今まで以上に愛し、そして会社を成功させた。全ては、彼の懺悔の念からだったんだ」
「……彼が、反省していたとでも?」
「そうです。自首した時の彼を見ればわかります。吉造さんは、事件の真相に“自分の過去”が絡んでいることに気付き、貴女が犯人だと確信した。だから貴女を守るために、夏芽さんを襲い、自らやってもないことを告白したんです。しかも、息子の肇君の目の前で。肇君が苦しむという事を、分かっていながら、それでも、貴女を守ろうとしたんです。それなのに貴女は、吉造さんの気持ちを踏みにじった。そして、貴女を慕う、息子の肇君まで、貴女は悉く裏切った。貴女のしていることは、ただの自己満足な最低な犯罪でしかない。免罪の余地も、許されないだろう」
「そんな!私は」
雪江は、鋭く言い放った後、続く言葉を見つけられずに口ごもった。
「……私は……」
私は狂っていたのだ。
狂っていたのだ――――。
空間が沈黙に汚染される。居心地の悪い、風の音すら聞こえない、沈黙である。
その沈黙を破ったのは、やはり綺堂であった。
「雪江さん、最後に一つだけ、貴女に聞きたいことがあります」
雪江は、顔を上げようともしなかった。綺堂は続ける。
「貴女は何故、“蟲男メール”を作ったんですか」
雪江の顔が少しだけ硬直したような気がした。
「貴女の証言からすると、貴女は吉造に、貴女が犯人である事を気づかせたかった。僕は、その“蟲男メール”にも、何か関係することがあるんじゃあないかと思うんですが」
「十年前、京子が死んだ年、“蟲男”というオカルト記事が雑誌に掲載されて、その記事を、肇と、あの人と一緒に読んだんです。それだけです」
妙に、そっけないような気がした。先程までの雪江は、鬼気迫るところがあった。しかし今の言葉だけ、まるで魂を抜き取られたかのような、味のない色をしていた。
夏芽は不信感を覚えた。
「そうですか」
綺堂は、気付いていないのだろうか。
少しの沈黙が流れたかと思った時であった。
「貴女は、愛する吉造さんとの思い出を、そして、肇君の未来まで、踏みにじったんですね」
綺堂があっけなくそう言った。目の前の雪江の顔が、見る見るうちに歪んで行くのが分かった。
雪江は、その場に崩れ落ちた。
目の前で、哀れな女は泣いていた。
「私は……私は、ただ」
「確かに、悪いのは貴女だけではありません。吉造さんも、ちゃんと口にして、声にして、貴女に思いを伝えるべきだったんだ。人間は、心を理解する能力を遠い昔に失った。だからこその言葉だというのに、貴方たちは、それを上手く使えなかった。その所為で生じた思いの行き違いが、この惨劇を生んだのです」
女は奇声をあげて頭を掻きむしった。
「貴女が奪った沢山の命は、最早戻らない。貴女はその罪の重さに、そして自分の行為の無意味さに、もっと早く気付くべきであった」
「私は……」
雪江は両手で顔を覆った。
「私は、思い出せないの。私が殺したあの子たちが、どんな顔をしていたのか、どんな風に苦しんだのか、何も、思い出せないの……」
「貴女の殺した少女たちにも、親が居るんだ。貴女や、吉造さんが肇君を愛するように、彼らも、死んだ少女たちを、愛していただろうに」
「ああ、私は、なんて……」
雪江の言葉は、最早言葉になっていなかった。
しかし、雪江は、やっと人間に戻った。
やっと、正常になったのである。
なんとか、助けられないだろうか。
自首したら、少しくらいは罪が軽くなるだろうか―――。
「雪江さん」
夏芽が雪江に自首を勧めようとしたその時であった。
夏芽と綺堂の背後で、足音が、しかも一人や二人ではない、複数の成人であろう人間の足音がした。夏芽は驚いて振り向く。瞬間、夏芽と綺堂の間を、黒い男が割って入った。
「宮本雪江さんですね」
男は言った。夏芽は振り向いた体をもう一度前に戻して、夏芽の目の前に在る黒い背中を見つめた。しっかりとしたつくりの背広に、不自然なほど真っ黒に染め上げられた髪が目に入る。その男の後に続いて、もう二、三人の男が、夏芽たちの間に割って入った。夏芽は思わず後ずさる。綺堂も、同じように後退しながら、眉を顰めた。
突如現れた黒い男達は、胸ポケットから何やら手帳のようなものを取り出して、雪江に向けた。雪江の表情が落胆のものに変わったのが分かった。
「警察の者です。宮本雪江さん、署までご同行を願います」
夏芽は綺堂を見た。綺堂が警察を呼んだのかもしれないと思ったからだ。しかし、綺堂は首を横に振った。違うのか。
では、一体誰が。
「すみません」
夏芽は一番近くに居た黒服に声をかけた。黒服の男は、面倒くさそうに夏芽を振り向く。
「あ、あの、どういうことですか」
「彼女は“連続失踪事件”の重要参考人です」
「警察さんは、えっと、そこまで自分たちで調べたんですか」
なんとも失礼な質問ではあるが、こう尋ねる以外に見つからなかった。男は少しだけ顔をしかめてから、言った。
「まあ、そうですが、決め手となったのは、先程、タレコミがありましてね。犯人は宮本雪江だと」
男は、上司につつかれて慌てて夏芽から目を離した。それから小さな声で、
「他言厳禁です」
と言った。
雪江は、大柄な男たちの間に挟まれて小さくなっていた。夏芽は思わず、「雪江さん」と言って呼び止める。雪江は何とか振り返って、曇りきった眼のまま、夏芽を見ることもせずに、ただ言った。
「確かに私は、最低な女よ。でもね、私は母としては、ちゃんとやってきたつもり。だから肇は、肇だけは……」
そこまで言ったところで、雪江は刑事に急かされて、そのまま前を向いてしまった。
玄関の所に、黒い車が三台止まっていた。男たちと雪江は、その中に乗り込んで、夏芽の視界から消えた。
夏芽は、取り残されたような気持ちになって、雪江の後ろ姿が消えた後も、ずっと同じ場所を見つめていた。
「綺堂さん」
「ああ、先を越されてしまったようだね」
綺堂は言った。
「どうやらこの事件、かき回してくれた奴がいるらしい」
綺堂は腕を組んで、ううん、と唸った。
「だがこれで、この件は終わりだろう。男と女、夫と妻の、愛と憎悪の入り混じった、最悪最低な事件だった」
「これで、終わっていいんですかね」
「どうしてだい」
「だって、例えこれが真実だとしても……」
例えこの現実が、真実だとしても、結局宮本肇は救われないのだ。
「宮本先輩、辛いだろうな」
「辛いどころではないだろうね。自分の父の容疑が晴れたかと思えば、今度は母親が真犯人として捕まってしまったんだから」
「宮本先輩は、土田先輩との関係を、そしてお父さんの過去を、知ってしまうんでしょうか」
「知らなければならないこともある。それが、どんなに辛い事実でもだ。その試練を、彼は、乗り越えなければならない」
「土田先輩も、可哀想です」
「ああ。今回は本当に、部外者である僕から見ても、非常に辛くて嫌な事件だったよ」
綺堂は言った。
空はまだ青い。
「綺堂さん」
夏芽は言った。
「虫と、蟲って、何が違うんですか?」
「虫は、昆虫だろう。三つ書いてムシと読む蟲は、人間の中に必ず存在している。決して恐ろしいものでも、気持ちの悪いものでもない。ただ当たり前に、人間の脳の中で、たまに蠢いたりしながら生きている。わかりやすく言えば、“思想”だ。だが、例えば嫌なことがあったりすると、その蟲は、その脳という概念から溢れ出て、実体化してしまう。現実世界に現れてしまうんだ。しかし蟲はね、現実世界に出たときに、単体で生きていくことが出来ない。だから人間と言う器に寄生して、人間を思うように操るんだ」
抽象的すぎて、蟲については、夏芽にはよくわからなかった。だが不思議なことに、今回の事件について、綺堂が何を言おうとしているのか、それはなんとなくわかった。
「宮本雪江は、蟲に操られた、可哀想な“蟲男”だった」
綺堂が珍しく、寂しそうな表情をした。
ぴちゃり、と錦鯉が跳ねる。
夏芽は思わず池に近寄った。大きな池であるのに、今まで、横にある大木が邪魔をして存在に気付かなかった。池を覗き込む。緑色で、葉っぱやら何やらが浮いていた。見るからに、深そうな池である。
覗き込む夏芽を見て、綺堂も池に近寄った。
瞬間、綺堂は顔をしかめ、鼻と口を同時に覆った。
「こ、これは……」
「池ですね。すごく深いみたい。広いし、さすが豪邸って感じ」
「夏芽さん!」
綺堂が切羽詰まったように言った。
「君は、“あれ”が見えないのか」
「あれ、ですか」
いつもになく青い顔をしている綺堂を見て、夏芽は首を傾げた。
「私には、錦鯉しか見えないですけど」
「何を言っているんだ、夏芽さん。この池に鯉(、、)なんて(、、、)一匹(、、)も(、)居ない(、、、)ではないか」
「え、だってさっき音が。鯉が跳ねた音がしたし、今だってほら」
ぴちゃり、と水の音がした。
「何を言っているんだ。音なんてしていない」
綺堂が額に手を当てて唸った。
「ああ……やはり僕の予想は……やはりこの家に来るのは、危険だったんだ……」
しかし、夏芽の脳には、最後の綺堂の言葉は最早届いていなかった。
鯉が居ない?
音などしていない?
そんな筈はないのだ。
鯉が跳ねる音が、確かに聞こえたのである。
だから池の存在に気付いたのだから。
それに、今だってそこに、錦鯉が泳いでいるじゃないか。
泳いで――――。
錦鯉は、ひらひらと尾びれを揺らしながら、同じ場所でずっと止まっていた。夏芽は目をこする。
次の瞬間夏芽の目に映ったのは、先程と全く違う光景であった。
「…………っ」
絶句する。
目の前の池は、決して、
錦鯉の住む、優雅な水中の桃源郷ではなかった。
視線を感じた。
それも、無数の視線である。
池の底は、
池の底は――――――。
池の底は死体で満ちていた。
そこから“生えた”白い手が、水面に浮かび上がって、
まるで錦鯉のように、ゆらゆらと揺れていた。
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