七、
朝になっても、夏芽は起き上がる気力を得られないままでいた。昨日の悪夢のような光景が脳裏をよぎる。水の底に沈んでいた死体たちは、最早原型を留めていなかった。みな白くなって異常に膨張しており、ところどころの皮膚やら肉やらがべろりと剥れては、水面に向かって浮き上がっていた。夏芽の見た“錦鯉”は、錘(おもり)から解放されて浮き上がった、死んだ人間の手だった。
池を覗き込んだ時、深い池だ、と思ったけれど、実際、池はそこまで深くはなかった。ただ夏芽の脳は、そこに在った死体を、夏芽に見せようとしなかったのである。夏芽が、そういった映像に耐えられないという事を端から承知していたのであろう。無論、あんなものを見てしまった夏芽は、その場で失神してしまった。
今、夏芽は自室のベッドで寝ている。こうしているのも、綺堂が夏芽を家まで運んでくれたからだった。夏芽が綺堂に抱かれて帰還したのを見た春代と冬吉は、最初は悲鳴すら上げたらしいが、事情を話すと、綺堂に感謝し、何度もお礼を言ったという。春代は、やはり綺堂が気に入っているらしく、夏芽が朝やっと目覚めた時も、何故か真っ先に「お嫁に行くならああいう紳士的な方がいいわ」などと言った。夏芽は自分が失神したという事実すら記憶になかったため、春代のそう言った言動は、夏芽を余計に混乱させた。対して冬吉は、夏芽が“初めて連れてきた男性”であるために、あまり綺堂をよく思っていない様であった。夏芽を救ってくれた人であるというのに、なんとも失礼な話ではあるが、それが、一般の父親というものなのだろう。
もうそろそろ朝九時になろうとしている。目覚めてから、三時間余りが経つ。夏芽は、頭が、いや、もっと明確に言うと脳が、時折痛んだ。目を閉じることは出来なかった。何故なら、暗闇が訪れると、水の中で膨張したあの悍ましい程に白い少女たちが、目に浮かぶからである。その恐怖は、とてつもないものだった。だから夏芽は、目を瞑って眠ることも出来ないまま、三時間も天井を眺めていた。
とんとん、とドアが叩かれて、春代が部屋に入ってくる。
「なっちゃん、そろそろ、起きないかしら。どう、ね」
春代は春代なりに、夏芽を心配しているようであった。夏芽は、このまま一日中こんな所でぼうっとしていると、両親に更に心配をかけてしまうだろうと思い、仕方なくベッドから起き上がった。
「何処か痛いところはない」
「無いよ。いっぱい寝たしね」
夏芽は笑って見せた。笑いたい気分ではなかったが、これ以上、春代が悩ましげな顔をするのは見たくなかった。春代は微笑んだ。
「そうね。まあ、元気になったならよかったわ。ご飯は食べれるかしら」
「もちろん。お腹すいた」
それは本音であった。あのような気持ち悪いものを見た後であるから、何かを食べたいという気分にはならなかったが、脳味噌とは裏腹に、体がエネルギーを欲していた。
「あら、よかった。ちゃんとね、なっちゃんの分も用意してあるのよ」
春代はそう言って、遽(あわただ)しく階段を駆け下りて言った。夏芽はゆっくりとベッドから降りると、床の感触を確認する。
一階に降りると、テーブルの上に、綺麗な黄色のオムライスが置かれていた。冬吉の気配はしなかった。きっと、仕事に出かけたのだろう。
「今日はね、焦がさずにできたのよ」
春代が子供のような声でそう言った。春代は、所謂天然ボケという性格で、いや、本当は加齢によるボケなのかもしれないが、オムライスを作るとき、何故か八割方焦がす。彼女にとってオムライスは、高校生のセンター試験よりも難しい試練なのだという。だが、春代はセンター試験―――春代の時代は共通一次と言ったようだが―――を受けたことがないらしい。ならば比べようがないじゃないか―――春代はやっぱり、天然ボケだ。
テレビがついていた。夏芽は「いただきます」を言って、スプーンでオムライスをすくいながら、画面に目をやった。オムライスを口に運ぶ。見た目は綺麗なオムライスであるのに、何故か焦げた味がした。決して不味いわけではないが、レストランなんかで出したら、絶対にクレームを付けられるだろう味だ。
「おいしい?」
春代の笑顔には代えられない、と思って、夏芽は大きく頷いた。
「あら、よかった。お父さんもね、おいしいって言ってくれたのよ」
やはり、親子である。冬吉とは気が合いそうだ、帰ってきたら語り合おう、と夏芽は思った。
テーブルの真ん中に置かれている小さな金魚鉢の中で、先日の祭りで綺堂が夏芽の為に掬った黒出目金が静かに泳いでいた。乙姫を思わせる尾鰭がひらひらと揺れる。きっとこの出目金は、未だに”自分が掬われてしまったのだ”ということには気付いていないに違いない。
テレビの画面の映像が切り替わった。どうやら、“連続失踪事件”、つまり“蟲男事件”の犯人が捕まったため、それが全国のテレビ局で一斉に取り上げられているようだ。テレビ中のアナウンサーだかが、宮本家の庭にある池の中から、行方不明者たちのものと思われる変死体が九体上がったことを報じていた。夏芽の脳裏にまた一瞬だけ、あの死体の顔が浮かんだ。
『警察によると、死因は首を絞められたことによる窒息死、宮本雪江容疑者は、殺害した少女たちを池の底に沈めて隠していたということです。宮本容疑者は、犯行を全面的に認めており、警察は彼女が犯人であるとみて捜査を進める方針です』
「恐ろしいわねえ」
春代が言った。
「だって、あなたの学校の先輩のお母様でしょう。人って、わからないわ」
「うん……」
雪江の言動や行動は、少なくとも夏芽に人間不信の念を抱かせる原因となっていた。狂気に満ちた女の顔が思い出される。夏芽は首を振って、焦げた味のするオムライスをもうひとくち、口に運んだ。
本当に、嫌な事件であった。自然とため息が漏れる。宮本肇から受けた「事件解決の依頼」ではあったが、結局、その依頼人自体を苦しめる、最悪の結末となって幕を閉じることとなった。肇は、やっと、父の無罪を知って、少なからず安堵したであろう。しかし、それも束の間、彼は犯罪者の母親を持つ身として、新たな苦しみを抱えて生きていかねばならないのだ。そして、冬吉の浮気の問題もある。しかもその浮気相手が、よりによって親友の土田和也の母親であったのである。
最悪だ、と夏芽は思った。
こんなことならば、事件など追わなければよかった。
肇とも、知りあわなければよかった。
そうすれば少なくとも夏芽は、こんな後味の悪い気分にはならなかったのである。
「世の中って、不条理……」
夏芽は呟いていた。それからまた一口、オムライスを口に運ぶ。そこで夏芽は、このオムライスの失敗要因、焦げた味がする原因は、卵の方ではなく、ライスの方にあるのだ、という事に気付いた。
オムライスの見た目は黄色である。卵が全面的に主張していて、その上に、赤いケチャップが乗っているのが印象的な料理である。だが実際は、このオムライスと言う料理を構成している八割が、ご飯、つまりライスの部分なのである。人間というものは、表面的なものに左右されやすいものだから、どうしてもその「オム」の部分にばかり注目してしまう。
本当に大事なのは、「ライス」。つまり、主要を占める「中身」なのだ。
…………中身。
中身?
そもそもこの事件の中身とは、何だったのだろうか。九人もの少女が殺された、この恐ろしい事件の、中身とは。
違う。夏芽はあくまでも、「土田和也の捜索」を目的としていたのである。
肝心なことを忘れていた。夏芽は決して、“蟲男”事件の解決が目的で、この事件に足を突っ込んだわけではないのだ。
つまり、夏芽にとっての中身は、「土田和也」についてのことだけであるのだ。
確かに夏芽は、“連続失踪事件”を解決した。しかし、未だ、土田和也誘拐の真相にたどり着いては居ないのである。
だが、考えれば、簡単なことではないだろうか。何せ宮本雪江は、土田和也の母親である土田京子を恨んでいたのだ。その怨恨の矛先が、息子の和也に向かっても、何ら不思議ではない。
では、何故和也だけは殺されなかったのであろうか。一番憎い相手である筈の和也だけ、殺さない、しかも肇の話によると、無傷で“命に別条がない”状態で発見されたのだというのだから、全くもって不可思議な話である。一番憎い人間には、一番辛くて、苦しい罰を与えたい、そう考えるだろう。もっと、死ぬほどつらいと和也が感じるように、痛みつけてもよかったのではないだろうか。いや、そもそも雪江は、京子への恨みで犯行に及んだのではない。どちらかと言えば、宮本吉造への『愛』が、雪江の犯行の原因である。最初から、土田和也を苦しめる必要などなかったのだ。殺してしまえば、それでよかったのだ。
しかし雪江は、土田和也だけ、無傷のまま監禁した。愛する人の子供だからとか、そういう理由であろうか。肇の親友だからだろうか。それとも、雪江自身も、土田和也の事を本当の子供のように可愛がっていたからであろうか。
いや、違う気がする。何だろうか、この違和感は。
違和感を感じたのは、今だけではない。
まず、宮本吉造である。彼は最後に「守りたいもの」という言葉を口走った。その守りたいものは、真犯人である雪江の事だろう、と夏芽は察していた。
次に、雪江である。雪江は“蟲男”という名を聞いた途端に、何故だか表情が固まった気がした。夏芽の思い過ごしかもしれないが、確かに雪江は、何か“嘘”をついていた。直感だが、その嘘と言うのは、「十年前に蟲男というオカルト記事が掲載された」ことでは無い気がする。何故なら、もしそれが嘘だったならば、“蟲男”について調べつくしていた綺堂が、その嘘をスルーする筈がないからである。
では、何を“隠した”のだろうか。
そして、雪江については、もう一つ違和感があった。それは、雪江の最後の言葉である。
――母親としては――
女としてはダメな人間だったかもしれない、しかし、母親としては全うしてきたつもりだ、そう雪江は言ったのである。犯罪を行った時点で、親としてもどうかしているに違いないが、そういう観点で無くて、雪江は、もっと違う観点で「親」のあり方を模索していたのではないだろうか。
親とは、一体。
夏芽は春代を見た。意識を現実世界からシャットアウトしていたため気付かなかったが、春代は先程から、ニュースを見てぶつぶつとひとりごとを呟いているようであった。
「お母さん」
夏芽は言った。春代は夏芽を振り返る。
「なあに」
「親って何。どういうもの」
なんともぶしつけな質問である。春代は、訝しげに首を傾げた。しかし、それから表情が何故か憂いに満ちたものとなる。もしかしたら春代は、悲しい事件を目の当たりにした夏芽が、心の安らぎでも求めてそんなことを言ったのだ、とでも思ったのかもしれない。
「親っていうのはね」
春代はしみじみと言った。
「親っていうのは、子供がいて、初めて親になるの。そして、子供を見て、子供を育てて、そして自分も成長する。そして、何よりも自分の子供が、大好きなのよ。だからね、親は子供を守る生き物なのよ」
出目金が、金魚鉢の中で、ぴちゃり、と跳ねた。
「子供を守る!」
夏芽は叫ぶように言った。
「そうよ。それでね……」
春代の話を最後まで聞かず、夏芽は勢いよく立ち上がった。
「……わかったわ、お母さん」
「何よ突然。何が分かったの」
「中身よ、オムライスの」
「オムライス?オムライスの中身はライスよ」
「そう。いくらオムが上手く出来ていても、ライスがまだ、解決していないわ」
「えっ、今度はご飯が焦げてたかしら」
「お母さん、このオムライス、帰ってきてからまた食べるから、とっておいて」
「帰ってきてからって……何処に行くのよ」
噛み合わない会話を一方的に終わらせて、夏芽は鞄を持って家を飛び出した。
宮本肇は、今日の午後から、土田和也の見舞いに行く予定の筈である。兎に角、急がなければ、今度は本当に、最悪の結末を迎えることとなるのである。
急がなければ。急がなければもう一人の蟲男が、新たな悲劇を起こしてしまう。
それだけは、止めなくてはならない。
夏芽は、使命心に燃えていた。
救えなかった、宮本家三人の顔が脳裏に浮かぶ。
いや、今ならまだ、間に合う。
この事件を、悲劇に終わらせてはいけない。
*
二日ぶりに浴びた日の光で焼き尽くされそうな気持ちに陥りながら、吉造は空を見上げた。空というものは、こんなに青かったのだ、そして、空気というものは、こんなに優しかったのだ。吉造は、長時間続いた悪夢のような取調べによって疲れ切った体を少しだけほぐしながら、なんだかやりきれない気持ちで、解放された今も尚、警察署の前から動けないままでいた。
吉造は、結局、愛するものを守ることが出来なかった。
視界に何かが入った気がして、吉造はふと其方に目をやった。少し離れた木陰で、先日の着物姿の若い探偵が、気難しそうな顔をして、腕を組んでいた。
「こんにちは、吉造さん」
綺堂は言いながら、吉造に歩み寄った。吉造は少しだけ笑顔を浮かべて会釈をする。
「先日は、お世話になりましたな」
「ええ。家に、お帰りになるところですか」
「まあ、そんなところです。行き辛いですが」
「途中まで、どうです、送らせていただけませんか」
「ええ、お願いします」
吉造は、重々しい足をやっと前に進めた。綺堂もそれに並んで、吉造の疲れた体がこれ以上疲労しないように、吉造のゆっくりとしたペースに合わせて歩く。
暫く無言が続いた後、吉造が口を開いた。
「私は、本当に、無力な人間です。大切なものを守ることすらできずに、こうやって一人、帰路を行くしか無いのですから。まあ、今日は、探偵さんが同行して下さっているわけですが」
「貴方は、こんなことはするべきでは無かったと、思いますよ、僕は」
綺堂は言葉を返した。
「本当に愛していたのならば、その犯行に気付いたとき、すぐに、自首をさせるべきでした。そうしていれば、あんなに罪を重ねてしまうことはなかった。最早、極刑は免れられないでしょう。精神鑑定にも依りますが」
「そうは言いますけどね、私が犯行に気付いた時には、既に手遅れでした」
「手遅れ?」
「私が犯行に気付いたのは、彼が、和也君が失踪した時でした……。それまでは、全く、まさかその“蟲男事件”が、私に関係のある場所で動いているなんて、そんなことは思いませんでした」
「本当に気付いていなかったんですか。新聞やニュースは目にしていたでしょう」
「そりゃあ、何せ名前が“蟲男事件”でしたからね、注目して見ていましたよ。被害者の人たちが、何だか似たような雰囲気の――そうですね、この前の御嬢さん、夜崎夏芽さん、でしたか、あの子に似た雰囲気の子だってことには気付きました。ですが、事件の起きた場所の近くに、まさか私の経営する『よしみや』があるなんてことは、報道もされていませんでしたから、全く気づきませんでした。家内は、仕事に行くときに通る場所だ、と言っていましたけれど、だから私は、気を付けなさい、とは言ったんです」
「そこまで気づいていて、まさか犯行に気付かないなんて、あなたは、余程鈍感だったのですね」
綺堂が言うと、吉造は自嘲するように笑った。
「気付くはずないでしょう、そんなことで気付くとしたら、本当に、“勘”の鋭い人だけだ」
「……少し、話を変えます」
綺堂は、疑念を抱きながら、言った。
「貴方は、昔、浮気をしましたね?」
「はい?」
「十九年前です。貴方は、」
「土田和也君のお母さん、土田京子さんと、浮気をした、そう言いたいのですね」
「その通りです」
綺堂が言うと、吉造は苦笑いを浮かべた。
「……貴方まで、あの三流週刊誌と同じようなことを言うんですか」
「事実では、無いのですか」
「当たり前です。事実無根です」
「本当にですか」
「綺堂さん…………ここまできて、嘘をついてどうなるというんですか」
吉造はため息をついた。
「確かに、京子さんと仲が良かったのは事実です。一緒にお食事にいったりもしましたし、それを浮気だと、家内に言われたこともありました。ですがそういう交流は、料理のカリスマであり、栄養士としても働いていた彼女に、出来たばかりの『よしみや』第一店舗の料理についての感想やアドバイスを貰っていたというだけのものでした。『よしみや』は、女性にも喜んでいただける料理を提供したいと思って立ち上げたレストランですから、料理のアドバイスや意見は、やはり女性に貰わなければ、と思ったんです。しかも京子さんは栄養士で、料理のカロリーや味のバランスについても詳しい方だった。だから私は、積極的にアドバイスをいただいていたというだけなんですよ。まあ、何度も家内には説明しましたし、家内に同伴してもらったときだってありましたから、理解は得ていたと思いますよ」
「成る、程……」
綺堂は腕を組んだ。
「ですが、吉造さん、土田和也君の血液型はB型ですが、お母さんの京子さんの血液型はO型で、お父さんはA型です。O型とA型の間で、B型の子供が生まれる筈などない……。そして貴方は、B型です」
「ああ、それもね、週刊誌の記者が来たときに、ちゃんと説明しましたよ。京子さんは、和也君がまだ五歳くらいだったころに、骨髄移植をしているんです。彼女は、血液の癌でしたから。しかし移植はしたけれど、結局は交通事故で亡くなってしまったんですがね……。その時に京子さんの血液型は、O型に変わってしまったんです。骨髄移植の後に血液型が変わるなんてことは、よくあることです。ですから彼女、最初はB型だったんですよ。綺堂さんは頭の良いお方だからわかると思いますが、A型にはAA型とAO型があります。そしてお母さんの京子さんは、BB型、若しくはBO型だったと仮定されます。Oは劣性の遺伝子ですから、お父さんがAO型であったと仮定しますと、お父さんのO型、そしてお母さんのB型が合致して、B型のお子さんが生まれる可能性も十分にあるという計算になるんですよ。それに、和也君には、京子さんが同じく手術を受ける前に産んだ翔也君っていう双子のお兄さんが居ました。翔也君はO型でした。このことから考えて、つまりお父さんはAO型、お母さんはBO型だったという事が証明できるんです」
「そうでしたか――――」
綺堂は閉口した。まさか、そういう事だったとは。では宮本雪江は、単に、勘違いを起こして、一人であのような狂気に陥っていたというのか。
「しかし、綺堂さん。そんな古い“浮気疑惑”の話が、事件にどう関係するんですかね」
吉造は、やはり苦笑いを浮かべたまま言った。
「それに、私が事件の犯人を真に確信したのは、あの、夏芽さんが家に訪れた時でした」
「……どういうことですか」
「肇はね、女の子と会話をするなんてことは、絶対になかった奴です。ああいう職業柄――まあ中々のピッチャーでしたからね――女の子のフアンというものは、とても多くて、よくそういう子が家を訪れたり、肇に話しかけたりすることもあったんです。でも肇は、その子たちと目さえ合わせようとしませんでした。結構かわいい子も居たんですけれどね。そんな肇が、夏芽さんには、話しかけたりするだけじゃあなく、家に招き入れたり、そして携帯電話の番号まで教えたんです。本当に、我が家では異例の出来事でした。夏芽さんが帰った後も、肇は何度も何度も、夏芽ちゃんが、夏芽ちゃんがって、楽しそうに話をするんですよ。ああ、惚れているんだなと思いましたね。そして、逆にそれが、私を真相にたどり着かせました。肇は、だからその好きな女の子に似ている人を、襲ってしまったんだなあって」
「肇君が?」
「ええ。それにあの日、綺堂さんは、腕に爛れた跡があった人間が、犯人だと言いましたよね。この爛れは、遺伝するものなんです。だから私だけでなく、肇にもあるんですよ」
「という事は、まさか夏芽さんを襲ったのは」
「私じゃありません。それに、犯人はあなたたちを追いかけたんですよね。私はね、そりゃあ昔はバリバリのスポーツマンでしたが、今はもうただの中年男です。あなたのような若い人を、同じスピードで追いかけるなんて、できるはずありません」
「……そうですか」
綺堂は立ち止まった。
「少し酷な話になってしまいますが……吉造さん。貴方は、勘違いをしています」
「勘違い、ですか」
「ええ、非常に致命的な、勘違いです。ですからお願いです、あまり落胆しないでいただきたい」
「落胆する、勘違いですか」
「……ええ」
少しだけ間をおいて、綺堂は再び口を開いた。
「犯人は肇君ではなく、雪江さんです」
「…………そ、そんなバカな!」
吉造は声を荒らげた。
「そ、そんな筈がない!だって、雪江には、雪江には少女たちを襲う動機なんかないじゃないか!和也君についてもそうだ!彼女には何も」
「あるんですよ」
綺堂は静かに言った。
「彼女は、貴方が浮気をしていたという噂を、真に受けていましたから」
「……っ、そ、そんなバカなことが……っ」
「被害者の少女全員に共通することは、見た目の雰囲気が――勿論顔は全然違うのですが――それぞれ、土田京子さんに似ているという点です。それに、肇君には犯行は不可能です。何故なら彼はまだ車の運転が出来ない、そんなに遠くに行って、数時間で犯行を終えて帰ってくるなんてことが、電車やバス、タクシーなんかではできません。特にこんな田舎では」
「まさか……まさかそんな……」
吉造は狼狽えた。
「……そんな、ど、どうして……」
「彼女は、貴方を愛していると言っていました。それ故に、彼女は貴方の浮気を本気で信じ込み、恨んでも居ました。愛しているが故に、自分を裏切った貴方を苦しめたい……だから彼女は、浮気相手だと思い込んでいた土田京子さんに似た少女ばかりを襲い、そして所持品を、『よしみや』の付近に置いたんです。あなたに気付いてもらいたいがために。全て、彼女一人の思いこみであるという事にも気づかず……」
「ああ、なんということだ!」
吉造はその場に崩れ落ちた。
「私は、ああ……私がもっと、もっと彼女を安心させてあげなければならなかったんだ!雪江は、私の所為で!ああ、私はなんて酷い、酷い男なんだ……」
綺堂は吉造の肩に手を置いた。
「……私は貴方を誤解していました……。貴方は、貴方は何も悪くない。貴方は、純粋に彼女だけを愛していた。そして故に仕事を懸命に行った。それだけでなく、母親を失った和也君にまで気を遣い、そして息子の肇君を、方法は間違ってはいたけれど、精一杯守ろうとした。貴方は、貴方は何も悪くないんだ」
「いいえ、綺堂さん……。私がどんなに愛しても、彼女が愛されていると思わない限り、それは愛じゃないんだ。私は、ちゃんと彼女を愛せていなかったんだ……ああ、雪江、すまない、雪江……」
吉造の目からは、大粒の涙が溢れていた。それを見て、綺堂は唇をかんだ。
綺堂の推理は、思わぬ泥濘(ぬかるみ)に足を取られた。全ての人間が、思いを交差させ、行き違わせていた。今までのすべての事柄が違和感を含んでいたのは、そのためだったのだ。綺堂はそのことに、今の今まで、気付くことが出来なかった。
だが、しかし――――。
まだ、終わっては居ない――――。
綺堂は、吉造の肩に置いた手に力を入れた。
「吉造さん、最後に一つだけ、教えてください」
きっとこの謎が解ければ、全てが繋がるであろう。宮本肇、宮本雪江、宮本吉造、土田和也、そして、
――――蟲男。
「“蟲男”についてです…………」
吉造は顔を上げた。
*
夏芽は、駆け足で病院に入った。「受付」という札が下げてある所まで、また走る。
「あの、すみません」
やっとの思いでそこまで辿り着いた夏芽は、息を絞り出すように言った。薄ピンク色の制服を着た女性が応答する。
「どうかされましたか」
「あの、土田和也さんの病室を、教えてください」
「お友達の方ですか」
「は、はい、そうです」
「少々お待ちください」
女性の涼やかな声は、夏芽の焦りを余計に増幅させた。夏芽は今にも走り出しそうになりながら、女性が言葉を発するのを待った。
「お待たせしました、三〇八号室ですね」
「ありがとうございます」
言うのと同時に、夏芽はエレベーターへ向かって走った。しかし、エレベーターのランプは、まだ四階から上へ行く所であった。
夏芽はエレベーターを諦め、階段を駆け上がった。寒い筈の季節であるというのに、暖房もある所為か、汗が滴り落ちる。昨日から風呂に入っていなかったため、その不快感は凄まじいものであった。だが、そんな事を言っている余裕は無いのである。
三階まで辿り着いてすぐ、夏芽は土田和也の病室を発見した。ドアは開いているようである。夏芽は急いで飛び込んだ。
部屋の中に、土田和也はいなかった。その代り、荷物を整理していた女性が、驚いて夏芽を振り返った。
「すみません、土田先輩はっ」
「えっと……どなたかな」
「土田先輩の後輩の、夜崎と言います」
「あら、お見舞いに来てくれたの……そんなに急いで」
「あの、あなたは一体、誰ですか」
失礼だったかもしれない。夏芽が言い直そうとすると、女性は、うふふ、と笑った。
「面白い子ね。私は、和也の従姉の由香里よ。和也が行方不明になったって聞いて、叔父さんの……和也のおじいさんのお手伝いが出来ないかと思って、こっちに来てたの」
ああ、雪江が言っていた“親戚の女の子”か、と夏芽は理解した。
「ところで、土田先輩は」
「ごめんなさいね、折角来てくれたのに、和也ったら、さっきね、お友達に呼ばれて、何処かに行っちゃったのよ。まだちゃんと退院手続してないのに。すぐ戻るって言っていたから、ううん、でも和也の事だから、一時間やそこらはかかると思うわ。迷惑な子よねえ、ほんとに」
夏芽は、すうっと汗が引いていくのが分かった。
宮本肇に、先を越されてしまったのである。
このままでは、土田和也の命が危ない。
「あの、土田先輩は、一体何処に行ったんですか」
由香里は右手の拳に顎を乗せた。
「さあ……でも、キャッチボールをするとかしないとか言っていたわね。『あの場所に行く』とも言っていたわ」
では、公園か。
「ありがとうございました」
夏芽は勢いよくお辞儀をして由香里に背を向けた。そんな夏芽を、由香里は慌てて呼び止めた。
「あ、でも、多分神坂公園じゃないわ」
「え?」
夏芽は再び振り返る。女性は、今度は人差し指を立てて、それを顎に押し当てていた。
「私、聞いたもの、またあの公園に行くんでしょって。そしたらあの子、違うよって言っていたから」
だとしたら――――。
「ありがとうございます!」
夏芽は駆けだした。
その後ろ姿を見て、雪江はうふふ、と笑った。
「和也も、ついに、女の子に追いかけられるようになったんだあ。もう、隅に置けないわね」
それからベッドの上にある和也の着替えの服を一枚綺麗に畳んだ後、「あ」と言って顔を上げた。
「あの子急いでいたから、私が車で送ってあげればよかったんじゃないの」
しかし再びベッドに向き直る。
「ま、いっか。汗を流してこその青春だものね」
吉造を家まで送った後、綺堂は再び神坂公園を訪れていた。確証は全くない、しかし、何かがある、そんな気がしていた。
綺堂にはずっと、心に引っ掛かっていた事柄があった。それは“電話とメールの時間差”である。事件当日の昼に、土田和也から不審な電話を受けた肇は、二回掛け直すが、和也は出なかった。それから連絡が途絶えたのだから、その時に“襲われた”可能性が高い。しかし、”蟲男メール”が肇の元に届いたのは、それから七時間以上経過した後であった。つまり、”空白の時間”があるのだ。綺堂は、いや、きっと夏芽も、その時間に“意味がある”のではないか、と考えていた。考えていたといっても、今まで“蟲男事件の本編”の所為ですっかり忘れてしまっていた。
だが、もしかしたら、そのことに”意味など最初からなかった”のではないだろうか。
もし、犯人が、自分のミスを隠したために“出来てしまった時間”であるとしたら……。
雪江は、巧妙な仕掛けを使い、上手く警察を騙してきた。つまり、それほど完璧な犯罪であったという事だ。そんな雪江が、“このようなミスを犯す筈がない”。
いや、まだ確証はない。証拠がないのだ。
しかしあの日、夏芽はこの公園で“何かを見た”と言っていた。
その何かが、まだ残っているとしたら、それが、最大の証拠となる可能性がある。
先程芳蔵から聞いた“蟲男”の件で、綺堂はほぼ、事件の全容を把握した。綺堂は懐に入っている、由宇奇に渡された小説『蟲男』に手を置く。
確実な証拠がなければ、それは、ただの“憶測”となり、そして彼は、もっと恐ろしいことを引き起こしてしまうかもしれないのである。
だからなんとしても、“それ”を見つけなければならないのだ。
綺堂は、先日夏芽が蟲男に襲われた、丁度その地点に立った。ここから、夏芽には何かが見えたのだ。何かが。
その時、まばゆい太陽の光が反射して、綺堂の目に映った。
綺堂は、一瞬目を細める。
遊具は皆さび付いていて、反射などする筈がない――――。
綺堂ははっとして、その“反射板”に歩み寄った。
「こ、これは…………」
綺堂はそれを拾い上げて、胸に押し付け、目を閉じた。
これで、全てが繋がった。
怪物が、やっと姿を現したのである。
綺堂は再び目を開けた。
――――急がなければならない。
*
由宇奇は、木沢高校に向かって歩いていた。先程、土田和也からメールが入った。
『肇に呼び出されました』
―――あいつ、ちゃんと言えるかなあ。
由宇奇は、和也を助け出した後、和也の看病に立ち会いながら、真実と肇の妄想の相違を伝えた。和也も、それを聞いて、納得していたようだった。
そうは言っても、ただでさえ気の弱い和也が、ちゃんと肇に伝えられるだろうか。由宇奇は心配でならなかった。失敗したら、最悪の事態にもなりかねない。
由宇奇はひゅう、と吹く冷たい風から避けるために、顔を茶色のコートに埋めながら、思った。見届けなければならない。それが、『蟲男』を“最初”に書いた者としての務めだ。
肇の書いた『蟲男』も、良く出来ていた。由宇奇のと違って、気味の悪い描写が無く、素直な文体で、流石、文学賞を取った作品だ。羨ましく思うくらい、完璧な出来だった。
―――しかし、だからこそ“この”事件は起きてしまった。
世間を騒がせた蟲男事件と異なる、もう一つの蟲男事件“土田和也誘拐事件”。
風がだんだん強くなる。由宇奇は足を速めた。もし、“彼”が過ちを犯そうとしたら、止めなくてはならない。
なんとしても。
*
男は、公衆電話を置いた。派手な着物姿も、この人混みの中ではさほど気にならない。男はため息を吐いた。警察に電話を入れてやったところだった。所謂“タレコミ”ってやつだ。
「はあ。折角種を植え付けてやったってのに」
男は雑誌に目を落とした。
「それにしても、俺あ天才だ。こんなでたらめ記事ひとつで、もう数えきれない人間の人生を狂わせることが出来たんだもんね」
男は微笑した。
くくくく。
だが、もう潮時だろう。
この“物語”を、美談に変えてたまるものか。
人間は皆、とことん不幸になればいい。
「夫の浮気を信じて、九人も人を殺すなんてねえ。人間てのは、いかれてやがらあ」
男は笑っていた。
これから、宮本吉造の築いた莫大な富は、破綻を迎えるだろう。
野球で将来が決まっていた息子肇は、未来も希望も断たれ、今から新たな凶器になる。
―――勘違いで人を殺すなんて、親譲りなこった。しかも、大事な大事な親友を。
そして、死んだ女子学生たちの関係者の人生は、もうすでに狂い始めている。
愉快だ、愉快だ。
もっと、苦しめばいい。
もっと、憎み合えばいい。
男は公衆電話から出ると、青く晴れ渡った恨めしい空を見上げて高らかに笑った。
*
真昼間の静かな校庭で、二人の少年はキャッチボールをしていた。片方は、ピッチャーだろうか、立って、もう一人はしゃがんで、キャッチャーミットという特殊なグローブを構えている。
暫くは普通のキャッチボールをしていた二人が、あろうことか、ピッチャーの少年が投球ミスをして、ボールは大きく後ろにそれて行ってしまった。
「お、土田、すまん」
宮本肇は頭を押さえながら言った。土田和也は立ち上がって、人が良さそうに笑った。
「まあ、久しぶりだからね、仕方ないよ」
それからボールを追いかけて、肇に背を向けて走る。肇はその和也を追いかけて、走った。
和也はボールに追いつくと、後ろから肇が迫っていることに気付いた。肇は足が速いからすぐに来るだろう。和也はボールを手に持ち、その場にしゃがんだままでいた。
「マジ、ごめんな、まだ、退院したてなのに」
「いいよ、僕は全然大丈夫。それに僕なんかより、君の方が、大変なんだから」
「……ごめんな」
「君が、謝るなって」
少しだけ沈黙が訪れた。
でも、言わなきゃいけない。
和也はすう、と息を吸った。
「肇、あの日、君を呼び出した日に、あんな事件に巻き込まれなければ、僕は君に、とても重大なことを、伝えていたんだよ」
「重大なこと?」
和也は頷いた。
「とても、重大なことだ」
肇は、無言のうちに悟った。きっと、和也も、知っていたのだ、和也が、吉造の子供であるということ、そして、和也と肇が、兄弟である、という事を。
だが、今更、それがどうしたというんだ。
今更、懺悔したところで、肇の苦しみは、何も、変わらない。
父の愛を奪われ、そして母まで奪われた。
この苦しみを、目の前の、この鈍感な和也が、理解できる筈がない。
肇はズボンのポケットから、この爽やかな空間に似合わない“それ”を静かに取り出した。
太陽の光に反射して、銀色の刃が、ギラリ、と光る。
ナイフの、少しだけ黒くなっている部分は、あの綺堂とかいう探偵を傷つけた時の血の痕である。
今更であるが、土田和也を襲ったあの日、躊躇せずに殺してしまえばよかった。
あの時はまだ、このボールの感触が掌に残っていた。
だが、今は、もう迷いはない。
「僕、さ――――」
和也が言葉を発すると同時に、肇はナイフを振り上げた。
しかし、その時、声がした。
「先輩!」
肇は刃を振り上げたまま、視線を移動させた。
和也と肇が居る、そこから十メートルくらい向こうのトラックの円の外に、制服姿の夜崎夏芽が立っていた。
肇はゆっくりとナイフを下ろし、ポケットにしまった。
結局、また君に邪魔されてしまった、か。
肇は薄笑いを浮かべた。
「知り合いの女の子?」
和也が言う。
「ああ。俺が片思いしてる子」
和也は「えっ」と言って振り返った。
「え?意外!ああいう地味な子がタイプだったんだね」
肇はふっ、と笑った。
和也を校庭に残して、肇と夏芽は人気のない教室に向かった。休日の教室で、宮本肇と二人きり。たかねが知ったら激怒するだろう。
教室に到着して、少しの沈黙の後、夏芽は肇を振り返りながら言った。
「お母さん、逮捕されたましたね」
「ああ。家に警察が来た」
肇は、眉を上げた。
「彼女は、悪人だからな」
「知っていたんですね、雪江さんが犯人だって」
「知っていたさ。だって、あの人、帰ってくると、いつも必ず池に向かったんだ。そしてその後、大きな音がした。でもあの池には、魚一匹住んじゃいないんだ、俺は不思議に思って、ある日、池に行った。そこで、池の中に人を投げ込む母の姿を見たのさ。ビビったよ、だって、親が、まさか“蟲男事件の犯人”だったなんて」
「それを知って、あなたは、お母さんを利用しようと考えたのね……」
「利用?」
「あなたは、土田先輩を殺害して、その罪も、お母さんに押し付けようとした」
「…………そうさ」
肇は、静かに言った。
「俺が犯人だっていう真実にたどり着いたってことは、知ってるんだろ、浮気の話」
夏芽は頷いた。肇は、少しだけ笑った。
「俺は、宮本家っていうエリートな家庭に生まれて、何不自由なく育った。親は優しかったし、信頼できる和也っていう友達もいた。それで十分だった。寧ろ、それしかいらなかった。でも、成長するにつれてわかっていったんだ、和也と俺が一緒に居て、何かやらかしたとき、父さんは必ず俺を叱った。父さんは、俺よりも、和也の事を可愛がった。アカの他人なのに、ただ、家が近いっていうだけなのに、父さんは、俺じゃなくて和也を愛したんだ。でも、和也はいつも、その事に気付いていて、俺の機嫌を損ねないように振舞っていた。だから俺は、そんな和也を憎んだり、恨んだり、そういうことは出来なかった。親友だったし、兄弟みたいなもんだったからね。だけど、昨年、あるスキャンダルが週刊誌で取り上げられた。それが、父さんの浮気疑惑、だった。父さんはそんなことは出鱈目だって言って、気にしていなかった。だけど俺は、直感的に気付いたんだ、ああ、それが、その浮気で出来た子供が、和也なんだって」
「でも、それだけじゃないですか。それだけで、どうして」
「それだけって、そう簡単に言うなよ。俺は別に、和也が兄弟だってことは構わなかった。でもそれだけじゃなかっただろ。浮気だぞ、浮気で出来た子供だ。罪の子供だ。それなのに父さんは、その罪の子供である和也を、本当の子供の俺よりも、可愛がったんだ。許せるかよ、許せないだろ。それに、俺は周りからは自慢の息子だ、優秀だって褒められたけど、劣等感を感じなかったことは今まで生きてきて一度として無かった。俺は、自分がかなり、色々な面において優秀だったってことは、自覚している。でも、それでも俺は和也に追いつけなかった。父さんは、優秀な俺より、不出来な和也を愛したんだ。そりゃあ、俺は偏屈で、生意気な子供だった。それに比べて和也は、気配り上手で、他人思いで、優しい奴だった。和也を愛したくなる父さんの気持ちはわかるよ、でもさ、でも俺は、俺だって、褒められたい一心で、父さんに優秀だって言われたい一心で、必死に練習してピッチャーの座に上り詰めて、必死に勉強して有名大学に合格したんだ。それなのにあいつは、楽をして、推薦入試で国立に受かって。なのに、父さんはあいつを祝うために、パーティーまで開いたんだ。許せなかった。もう、我慢の限界だったんだ」
「だから、土田先輩を」
「それに、和也は、あいつは気付いていたんだ、自分が浮気で出来た子供だってことに。何も言わなかったけどな。それであの日、あいつは俺を呼び出した。夏芽ちゃんには、俺は別の用が出来て行かなかったって言ったけど、本当は行ったんだ。それで、和也を、後ろから、殴って気絶させた」
「じゃあ……私に言った、電話やメールの話は、全部嘘だったんですね」
「強ち嘘でもないさ。実際あいつは、俺が時間になっても公園に行かなかったから、心配して、俺に電話をかけてきたんだ。俺も、二回掛け直した。掛け直しながら、あいつを襲ったんだ」
「でも、どうやって運んだの。土田先輩は、学校の倉庫で見つかっているもの。そこまで、宮本先輩一人じゃ運べないわ」
「だから、さっき夏芽ちゃんが言った通り。俺はそこで、母さんを利用したんだ」
「お母さんに、運ばせたの……」
「そのために、丁度母さんの仕事が休みの日を選んだんだからね。心配性の母さんは俺が居ないことに気付いて、土田の家に電話をしたらしい。そこで、土田のおじいさんから、公園に居るかもしれないという事を知らされた。それで、母さんは心配で俺を見に来た。その時が丁度、俺が和也を殴った後だった。母さんは気絶している和也を見て、死んだ、と思ったみたいで、凄く焦っていた。母さんは、まさか俺が、『母さんが“蟲男”だって知っている』なんて、気付いていなかったからな、家に隠そうなんてことは言わなかったさ。だから俺は、どうしても隠さなきゃいけないって言って、学校まで運んでもらったんだ。俺は和也が生きているってわかっていたから、手首と足首、それから口にガムテープを貼って、和也を毛布でくるんだ。それからそれを運んで、いやあ、大変だったよ何せ、真昼間だったからさ。見つからないように、使われていない倉庫に詰め込んで、鍵をかけた。鍵は、前日に調達しておいた。そこまでやってから、思い出したんだよ、重大なことを。和也の失踪を、母さんの所為、つまり“蟲男事件”の所為にするつもりだったのに、メールを送るのを忘れていた。慌てたよ。だって、あいつの携帯、どこを探しても見つからなかったんだから」
「でも、あなたは、土田先輩を恨んでいたんでしょう、ならどうして、殺さなかったんですか」
「殺すつもりだったさ、あの時は。でも、できなかった。決意が、足りなかったんだ。だから今日、俺はそれを実行するために、そのためにここに来た。……まあ、また夏芽ちゃんに邪魔をされたわけだけどさ」
肇はふっ、と笑った。
「でも」
肇はポケットから、先程のナイフを取り出した。
「でも今日は、誰にどう邪魔をされたって、計画は実行するって、決めているんだ」
「宮本先輩!」
止めようとする夏芽の首元に、肇は刃を突き立てた。
「夏芽ちゃん、頼むから、邪魔をしないでくれ」
肇の声は、冷たかった。
夏芽は、昨日の水の中の死体を思い出した。
今日の肇は、まるで死体のような顔をしていた。先程からずっと、表情がなかった。
いや、きっと肇は、長い間、そうだったのだ。
ずっと昔に、表情を失ったのだ。
陸奥旅行の帰りの電車で夏芽が見た夢の中で、肇はずっと、下を向いていた。
苦しさを、悲しさを、誰にも悟られないように。
「宮本先輩……」
「何も言うな、夏芽ちゃん。俺は、もう迷わない。俺はあいつを殺して、全てを終わりにする」
苦しみを、絶つんだ――――――。
その時、廊下の方から声がした。
「宮本肇、君は、間違っている」
聞き覚えのある、声だった。この声は、あの、探偵だ。
肇は咄嗟に、夏芽の腕を捕まえた。
「君は、間違っている」
教室のドアを開けて、綺堂壱紀が現れた。
「き、綺堂さん……」
「探偵か。何だ、今更。もう手遅れだぞ」
「手遅れではないよ。君はまだ、罪は犯していない」
「和也を襲った時点で、もう犯罪だ」
「和也君が、それを許しているならば別だ」
「今更あいつに媚びる気はない」
肇は、強い力で夏芽の腕を握った。
「今更、あいつなんかに」
「わかった。僕は君を力づくで止めるなんてことはしない。だが最後に、僕の推理だけでも、聞いてくれないか」
綺堂は言った。肇は少しだけ、夏芽の腕を掴む力を弱めた。
「逮捕された君のお母さんが、咄嗟に“蟲男”を使った理由がわかったのさ。それは、“これ”だ」
綺堂は懐からキレイな本を取り出した。『蟲男』である。
「それは……」
「君が書いた、小説だね」
夏芽は思わず肇を振り返った。先日肇の家を訪れた時の、肇の言葉と、由宇奇の言葉を思い出す。
“二年前に、ある出版社の新人賞に応募したんだ。そしたら運よく引っ掛かってね”
“『蟲男』の作者はもう一人いるってわけだ“
「君は、十年前にある雑誌に掲載された、由宇奇秋人の“蟲男”の記事を参考にして、この小説を書いた。これは、本当に良く出来た小説だ、高校生の文体とは、思えなかったよ。由宇奇が書いたそれよりも、この『蟲男』の方が、完成されている。友人関係で悩み苦しみ、醜い虫になってしまう男の物語。これは、まさに、君自身の事だったんだね。そして、とある有名な賞を取った」
「でも俺は、授賞式に行かなかった」
「吉造さんが言っていた、君は、折角受賞したのに、全然喜ばなかったって」
「俺は、それで父さんが俺を褒めてくれることを期待したんだ。それなのに、あの人は何も言ってくれなかった。そんな俺を見て、“嬉しくはないのか”って。正直、嬉しくなかったさ。賞を受賞したのは、全て、父さんのためだったというのに」
肇の手が、少しだけ震えていた。
「お母さんは、その事を覚えていたんだ。彼女は、犯行をどうしても吉造さんに悟ってもらいたかった、君もわかっていると思うがね。だから敢て彼女は、“蟲男”という、君の関連する妖怪を取り上げたんだよ」
綺堂が言うと、肇は少しだけ顔を歪めた。
「さっき、夏芽ちゃんは、俺が母さんを利用した、そう言ったよな。でもさ、母さんの方が先に、俺を利用したんだぜ、犯罪にさ」
寂しそうな声であった。
「それとね、さっき僕は、吉造さんに会ってきた。そしたら彼は、君が“蟲男”の犯人だと思い込んでいたよ。だから、雪江さんが逮捕されたと伝えたとき、とても取り乱してね」
はははは、と肇は笑った。
「そりゃあそうだろ、父さんは、端から俺を信じてはいなかったんだから」
「それは違うな。吉造さんは、“愛ゆえに“、君を疑わざるを得なかったんだ」
「愛、ゆえに?」
綺堂はゆっくりと頷いた。
「吉造さんは、浮気などしていない」
教室が、しんと静まり返った。
夏芽は、思わず目を見開いた。夏芽も、吉造は浮気をしていたものだと仮定して、肇と話をしていたのだから。
しかし綺堂は、真実は“そうではない”と言っているのである。
少しして、肇は声を荒らげた。
「嘘だ!今更嘘をついても、だって、血液型の話もあるんだ。和也はB型で……」
「和也君のお母さんの京子さんは、和也君を産んだ後に白血病にかかり、骨髄移植を受けている。それによって、お母さんの血液型は、B型からO型へ、変化したんだ」
「そ……そんなことが……」
「あるんだよ。だから吉造さんは、スキャンダルの噂が流れた時に、平然としていたんだ。本当に、ただの“嘘”だったんだからね」
「……嘘……だって……」
「だから吉造さんは、被害者が皆、京子さんに雰囲気が似ている人だなんてことには気付かなかった。京子さんと吉造さんの繋がりなど、本当に無かったのだから。そして土田和也の誘拐が起き、夏芽さんが君の家を訪ねたとき、吉造さんは、君が犯人だ、と確信した。何故なら夏芽さんが、被害者と似た雰囲気の持ち主だったからさ。そして君は、夏芽さんに好意を抱いていた。それこそが、動機だと、彼は思いこんだ。まさか雪江さんが浮気の話を真に受けているだなんて、思っていなかったのだからね」
「そんな、それじゃ…………」
「吉造さんが君を犯人だと思い込んで庇ったことこそ、吉造さんが浮気などしていなかった最大の証拠だろう」
「……そ、そんな……俺は……」
「君は何の関係もない、本当に無実の土田和也を、今、殺そうとしているんだ。そしてその前に君は、もっと関係のない夏芽さんに刃を向けている」
肇は動揺していた。今なら、簡単に肇の腕から逃れられる、と、夏芽は思った。しかし、夏芽は動かなかった。
きっと綺堂は、肇に希望を残してくれる、そう信じたからだ。
「君は土田和也の“蟲男メール”を、偽造せねばならなかったことについても話そう。何故なら君は、彼から携帯電話を取り上げることを忘れてしまったからだ。それが、電話とメールの時間差の意味だよ。君は、携帯電話は土田和也と共に倉庫の中にある、そう思い込んでいたのだろう。だが、実際は違った。君が夏芽さんを襲った日、夏芽さんは公園で、何かを見つけた」
綺堂が夏芽を見て微笑んだ。夏芽は、あっと思い出して、大きく頷いた。
「なにか、四角くて光るものが落ちていて、拾おうとしたときに襲われたんです」
「そうだね。僕はさっき、それを拾ってきた」
綺堂が懐から取り出したのは、携帯電話であった。
「土田和也の携帯電話だ。少し拝見させてもらった。この中には、確かに君への発信履歴、そして君からの着信履歴はあったが、“蟲男メール”の送信履歴は残っていなかったよ。つまり君は、土田和也からメールを受けたんじゃない。自分で、若しくは誰かほかの人の携帯電話を使って、作成したんだ。……そして、ここには、あの日土田和也が父親に送ろうとしたメールが、自動保存されて残っている」
綺堂はゆっくりと肇に歩み寄って、それを差し出した。肇は夏芽の腕を開放して、それを受け取った。
そこには、こう書かれていた。
『大学の事でいろいろ相談があって、今公園で肇を待ってるんだ。でもまだ来ないから、お昼には帰れないかもしれない』
「土田和也は、推薦入試で受かった国立大学を蹴って、君と同じ大学を一般入試で受けることを決めていたそうだ。国立大学を蹴るということは、とても勇気がいることでもある。何せ国公立大学の、特に推薦入試は“専願”、つまり、そこに受かったら必ず入らなければいけない、という暗黙のルールがあるのだからね。それを蹴るという事は、二度とその大学が、この高校の生徒を推薦入試でとってくれなくなるかもしれない、という、リスクを、後世にまで残す。だから、もしかしたら、高校の教師や、後輩から、恨まれることにもなるかもしれない。それでも君と同じ大学、しかも受かるかわからない難関大学へ、何故彼は、挑戦しようとしているのだと思うか」
肇の目から、滴が落ちたのが分かった。
もう一人の蟲男は、やっと人間に戻った。
綺堂は歩み寄り、彼の持つナイフに手を触れた。
「もうこれは、必要ないだろう」
綺堂が肇からナイフを受け取るのとほぼ同時に、肇は力なくその場に崩れ落ちた。
「俺は、俺はなんて…………」
「宮本先輩……」
夏芽は肇の肩に手を触れた。肩は小さく上下して、震えていた。
「宮本先輩、先輩が、私に土田先輩の相談をした理由、それは、本当は彼の事を、大切に思っていたからです。例え、憎き腹違いの弟だったとしても。実際は違ったけれど。だから、誰かに見つけてほしかった。自分を、止めてほしかった。それで、蟲男を信じそうな私に、相談したんですね。先輩は、優しい人です。そして、先輩は、自分で思っている以上に、みんなに愛されているんです。大切に思われているんです。だから……」
だから、もう、心で泣かないで。
悲劇な結末は、もう要らない。
ゆっくりと顔を上げる宮本に、夏芽はにっこりと笑って見せた。
「行きましょう、土田先輩が、待ってます」
「肇のやつ、抜け駆けかよ」
校庭の石段に腰を掛けながら、和也は呟いた。
「まあ、イケメンだし、仕方ないよね」
ボールを真上に投げる。それをキャッチャーミットで取って、また投げる。肇が夏芽と共に何処かへ行った後、和也はずっとそれを繰り返していた。それ以外にすることがない。暇だ。
それに、だからといって何もしないでいると、悪いことばかりが頭をよぎってしまう。
あの日、由宇奇と名乗った全身茶色の男は、和也にすべてを話した。
『気付いているだろうが、お前を襲った犯人は、宮本肇だ』
驚かなかった。やっぱり、そうか、と思った。
『宮本は“蟲男”って妖怪に憑りつかれててな。尋常じゃない状況なんだ』
『蟲男』というのは、肇が昔書いて、賞をとった小説である。親友との関係に悩み苦しんだ少年が、虫になってしまう。しかし最後に、親友が、虫になった少年を抱きしめて永久の友情を約束する、感動の物語。
『蟲男は、ある勘違いをしている。それは、お前の死んだ母親が、自分の父親と浮気をしていた、という勘違いだ』
そう言えば、週刊誌で大きく取り上げられていたことがあった。
『あれは全部、出鱈目だ』
『出鱈目でも、出鱈目じゃなくても、変わりません。肇は、僕の親友ですから』
由宇奇はそれを聞くと、笑った。
『その言葉、宮本肇に、必ず伝えてやれ。そして、奴を、蟲男から人間に、戻してやれ』
「おっと」
雑念の所為か、和也の投げたボールは大きく後方にそれた。それを目で追ったため、途中で世界が反転する。
反転した世界に映ったのは、バウンドするボールではなく、ボールを手に持って和也に微笑みかける肇の姿であった。
こんな柔らかな笑顔、いつ以来だろう。
「肇、おかえり」
「おう」
肇の目は、何故か少しだけ腫れているような気がした。
それから和也は腕時計を覗き込んで、「あっ」と言って立ち上がった。
「やばい、もうこんな時間……従姉さんに怒られちゃう」
「ごめん、俺が待たせたから」
「ホントだよ。罰として、病院まで一緒に来てもらうぞ」
「何だって」
和也は歯を見せて笑った。それを見て、肇は苦笑いを浮かべる。
「ふん、しょうがないな」
「決まりだっ」
和也は言って、スキップをした。
「そう言えば、相談、覚えてる」
「ああ。結局、どういう話だったんだよ」
「僕さ、推薦で受かった国立行くの、やめようと思って」
「……折角受かったのに、やめるのかよ」
「だってさ、推薦なんてつまらないでしょ。それにね」
和也は振り返って、キャッチャーミットを構えてみせた。
「僕は君と、一生バッテリーを組んでいたいから」
―――――。
肇は和也から顔をそむけた。
「俺みたいな三流ピッチャーなんかより、もっといいのはいっぱい居るって」
「何言ってんだよ。肇以外じゃだめなんだ」
「どうしてだよ」
「どうしても」
肇は空を見上げた。涙がこぼれないように。
「和也、ごめんな」
「何が?」
「だって俺はお前を……」
「『俺はお前を愛している』ってか!そ、そんな告白はいまさら受けられないぞ!俺はこれでもちゃんと、男だ!」
「違う!」
ははは、と和也は笑った。
「笑い事じゃないよ、俺は、犯罪を……」
「許すよ」
肇が言葉を言い終わる前に、和也は大きな声で言った。
「え」
肇は聞き返す。和也は、今度は肇の目の前に立って、肇の顔をしっかりと見つめて言った。
「僕は肇を許します」
「ど、どうして……」
「だって今、君は僕の名前を呼んでくれた」
和也は微笑んだ。
「昔は名前で呼んでくれていたのに、君は突然、土田って呼び出したんだ。だけど今、またもう一度、和也って呼んでくれた。だから、許すよ」
「そんな理由で?」
「いいじゃないか、一件落着さ」
言ってから、和也は再び腕時計を覗き込んで慌てた。
「そ、そんなことより早くしないと。従姉さん、怖いんだから」
和也が歩き出して、その少し後に肇は続いた。
少し離れたところで様子を見ていた由宇奇は、煙草をの煙をふうっと吐いた。
「なんだ、ちゃんと言えるじゃねえか」
青かった空は、いつの間にかオレンジ色を帯びていた。
通学路の坂道を、二人の少年が下っていく。
坂に伸びる桜の木たちは、小さな蕾を枝に咲かせて、
全てを受け入れ、洗い流し、
長い冬は、終わりを告げた。
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