啓蟄
三月六日、昨夜の雨が嘘のように、空は一斉に晴れ渡った。桜は、ところどころ咲いたり、咲かなかったりしている。しかし、どの木もしっかり蕾を付けていて、巣立ちゆく若者たちを精一杯に祝おうとしているかのようだ。
今日は、卒業式であった。夏芽は特に思い入れのある先輩なんて、宮本肇くらいしかいないし、宮本肇にはたかねの監視が付いているから、特に泣くことも、笑うことも出来なかった。
―――来年の今頃は、私も卒業か。
宮本肇は大勢の友人に囲まれて、幸せそうに卒業式を迎えた。もちろんその中に、土田和也も居る。肇は最後の最後に、本当の笑顔を取り戻して、そして先程、その多くの友人と共に正面玄関を出たところであった。
土田和也は、宮本肇を、許した。彼は自らの失踪を、誤って倉庫の中に入り、誰かが誤って鍵をかけてしまった、という事にして、闇に葬り去ったのである。それに、蟲男メールの事は、どうやら警察には知らされていなかったらしく――といっても、宮本肇本人が仕組んだのだから端から知らせる筈がないのである――土田和也失踪事件は、蟲男とは全く違うものとして処理されたのだという。
肇の母親である宮本雪江は、思い込みと心の闇の所為で、九人もの少女の命を奪った。しかし、和也失踪事件では、彼女は肇を守ろうとした。吉造も同じくだ。そうして、事件の糸は絡まっていった。
雪江が突如逮捕されたとき、振り向いて言おうとした言葉。夏芽は思い出した。彼女は、女性として、夫を誰よりも愛し、母親として、息子を誰よりも愛していた。
彼女のしたことは決して許されない。しかし、その気持ちだけは、わかってあげたかった。
事件解決の後、去年とある週刊誌が発表した、『よしみや』社長の“浮気”と“隠し子”の記事が偽りであった事が発表された。週刊誌の代表者は吉造に謝罪の言葉を発表し、吉造の濡れ衣は晴れたかのように思われた。
しかし、一度世に出てしまった「言葉」は、もう二度と、消えることはない。吉造は、してもいない罪を背負いながら、生きていかざるを得なくなってしまった。
全ての報道に関わる人間は、この悲劇を学ぶべきだ。自分の書いた記事や放った言葉が、誤った憶測を呼び、展開し、不幸を呼ぶことだってある。マスメディアというものは、今や人の生を変えてしまう程の、大いなる力を持っている。その力を無闇に使うことで、報道は夢の詰まった言葉の箱から、「ナイフ」に変わるのである。人間の人生を狂わせる凶器に、変わるのである。
今回の事件はその典型だ。それは、ドミノ倒しで広がっていった。
偽の、嘘の記事に、雪江は、肇は、そして吉造は、踊らされ、苦しめられ、貶められたのだ。
あの記事が、九人の少女を殺したのだ。
幸せだった家族を、言葉のナイフが、ずたずたに引き裂いたのである。
彼らが“元の姿”を取り戻せる日は、二度と来ないであろう――――――。
「なーつめ」
たかねが夏芽を呼んだ。
「ねえねえ、見てみて!私、宮本先輩のボタン、ゲットしちゃったあ」
「へえ」
夏芽はそっけなく返した。
「どんな姑息な手を使ったのよ」
「姑息だなんて、堂々と告白したのよ。そしたらね」
たかねはにっこりと笑って、
「ふられた!」
「えー!」
笑って言うことではない。
「でもね、嬉しいよって言って、ボタンをくれたんだよ。第三番目のボタンだけど。でもそれだけで幸せ!ちなみに、第二ボタンは他の人にあげるんだって」
「そうなんだ」
夏芽は遠くを見るように言った。
「大切なもの、彼はいっぱい持っているからね」
たかねは他の友人に呼ばれて、夏芽の元を去っていった。
その時、後ろから声をかけられた。
「夏芽ちゃん」
振り向く。肇が立っていた。
「あ、先輩。卒業、おめでとうございます」
夏芽は頭を下げる。
「私、先輩なら、幸せになれるって、信じてます」
「ありがとう」
肇は笑った。あの日から、肇は“ちゃんと”笑えるようになっていた。
「夏芽ちゃんのお蔭で、父さんともちゃんと会話できるようになったよ。父さんは、俺が思っていたより、俺の事ちゃんと、愛してくれてた。夏芽ちゃんが気付かせてくれたんだ」
肇は頭を下げた。
「本当に、ありがとう」
「そんな、私の力じゃなくて」
夏芽は少し離れたところで、友人たちと無邪気にじゃれ合う、土田和也を見た。
「土田先輩の力ですよ」
「それもある。あと、」
少し間を置いて、
「あの探偵にも、感謝しなきゃな」
「あのひとは、そんなこと求めてないと思うから、大丈夫ですよ。でも、伝えておきます」
ざわめきの中で、肇は少し顔を赤らめた。
「実は、貰ってほしいものがあって」
「貰ってほしいもの?」
その時、校門の方から、夏芽を呼ぶ声が聞こえた。
「夏芽さーん」
綺堂である。
「綺堂さん!なんでよりによって学校になんか!」
肇は綺堂を見ると、慌てて夏芽の手を取って、掌の中に何かを押し込んで握らせた。
「俺の思い。俺、忘れないから、夏芽ちゃんのこと」
「わ、私もです」
頬が赤くなるのがわかる。
「じゃあ、夏芽ちゃん、またね!偶に連絡して!」
肇は早口でそういうと、夏芽の元を離れて行った。夏芽は肇によって握りしめられた掌を開くことが出来ないまま、それを見送る。
「夏芽さん」
いつの間にか隣に来ていた綺堂が言った。
「綺堂さん、なんでこんなとこに居るんですか!」
少し離れて、他の友人たちと楽しそうに喋っていたたかねが、着物姿の異様な男を見つけて、駆け寄ってくる。
「夏芽、綺堂壱紀って、このひと?」
「うん、そうだよ」
「わー!すごい!実在したんだ」
確か、夏の事件の時、綺堂が颯爽と現れた際、たかねは平沢に切り付けられ、意識を失っていたのだった。つまり、二人は初対面であって、初対面でない。
「はじめまして!夏芽がお世話になってます!」
「君が、いつも夏芽さんを困らせてる、“あの”たかね君だね?」
綺堂は眉を顰めて言った。
「まあ、君のお蔭で僕と夏芽さんは結ばれるわけだから」
「結ばれないです!綺堂さん、こっち!たかね、先帰るね!」
綺堂があまりにも学校の雰囲気に馴染んでいなかったため、夏芽は慌てて綺堂を連れ出した。綺堂とともに地獄坂を下る。
「もう、いつも突然すぎるんですよ、綺堂さんは」
「はは、すまないね。土田和也と、宮本肇の様子を見に来たんだ。元気そうで、なにより」
綺堂は満足げに頷いた。
綺堂の言葉で、夏芽は事件の事を再び思い出した。
「雪江さんは、どうなるんでしょうか」
「精神鑑定の結果にもよるが、九人も殺したのだからね。残酷だが、極刑は免れまい。それに例え精神鑑定での異常が発見され、入院なんてことになっても、最早彼女に、元の暮らしに戻る猶予は与えられないだろうね」
一つの記事が引き起こした誤解、これによって狂わされた宮本家。確かに、殺された九人の学生を思えば、死刑は当たり前の宣告かもしれない。しかし、夏芽はやはり、居た堪れなかった。
「誰があんな記事……」
「それなんだけどね、僕も引っ掛かっていたのさ」
綺堂は腕を組んだ。
「どうやら、一般からの公募だったらしくてね。名前だけわかっているんだが、顔も素性も明らかになっていないんだよ」
「じゃあ、罰は下らないんですね」
「残念だがね」
綺堂も夏芽も、肩を落とした。
「因みに、なんていう名前の人なんですか?」
「多分ペンネームだと思うのだが……」
*
公園で煙草をふかしながら、由宇奇は雑誌の記事を破り捨てた。全く、なんていう内容だ。これを信じてしまう人間も、人間だが、それにしても、あんまりである。ありもしないことを、さも有り気に語り、読者の心を煽っている。文章の中に密かに潜む狂気。こんなものを載せる編集者がいるなんて。同じ、一記者として、怒りが湧いてきた。しかも、これがペンネームでないとするならば、“あいつ”だ。
―――ふざけたことしやがって。
由宇奇は怒りに震えた。
―――この記事一つで、九人も死んだんだぞ……。
死んだのは九人だが、人生を狂わされた人間はその倍以上。怒りと共に、ある“嫌な予感”が由宇奇の脳裏を過った。
―――現実にならなければいいが……。
「由宇奇さーん!」
不意に声がして、顔を上げる。夏芽と綺堂が、由宇奇に手を振りながら向かってくるところだった。
由宇奇は記事を踏みつけると、手を振りかえして歩き出した。
破かれ、踏みつけられた記事の片隅に、この記事を書いた者の名があった。
―――夜崎拾―――
*
「旦那あ、今日は葉巻はいいんですかい」
「今日は吸いてえ気分じゃねえ」
派手な着物姿の男は、目の前のベンチに仰向けに寝転がった。
「嫌なことでも?」
「両方さ。片方はうまくいったのに、もう片方は邪魔されたの」
「また、綺堂の旦那にですかい?」
「誰だかは知らねえのよ。知りたくもねえ。でも、合計九人、向こうの人間が死んだ」
「そりゃあ、穏やかじゃねえ」
「全くだ。心躍るね」
「気味の悪いこと言わねえで下せえよ、夜崎の旦那」
長い髪、爛れた右側の顔を隠すために巻かれた包帯、胸まで開けて着崩された派手な着物―――夜崎拾は綺堂壱紀と同じく、半妖半人の類に当たる。しかし、妖怪の力を受け入れきれず、顔の半分が焼けただれてしまった。右半顔の余りの醜さゆえに、親に捨てられ、それ以来、人間を憎み続けてきた。哀れで残忍な、男である。
夜崎拾は曇天を見上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「旦那、何をお考えなんです?」
煙草屋の親父が聞く。
「俺が考えることなんか、一つしかねえわけ」
不気味な微笑は、賑やかな街の音を全て消し去ってしまうほどの殺傷能力を持って、妖怪の世界に響いた。
「人間を苦しめること、それが俺の唯一の生きる希望よ」
*
「由宇奇さんと綺堂さんのお蔭で、事件が解決されました。ありがとうございます」
八千代トンネルに向かって歩きながら、夏芽は頭を下げた。
綺堂は肇の母親が犯人である“蟲男事件”、由宇奇は肇が起こした“土田和也誘拐事件”を解決に導いた。
「土田先輩も、宮本先輩も、元気になったみたいで、よかったです」
「俺は、何もしてねえよ。青森にも行ってねえしな」
「ああ、あれは、今思うと無駄足だったな」
「あれが無駄足だったとするならば、その無駄足が、私を一番恐怖のどん底に陥れたんですよ」
夏芽は肩をすくめた。
その時、近くの木陰で何かが動いた。
「今、何か……」
「地虫じゃあないか」
「む、虫ですか」
夏芽は思わず身震いをした。
夏芽は、正直虫が嫌いである。蛙や蛇やヤモリやイモリは好きなのだから、変に思われるかもしれないが、特に芋虫や蛆虫、あとナメクジなど、そういう系統の這う虫が大の苦手であった。例外で、蟷螂も苦手である。子供のころ、蟷螂の鎌で怪我をしたことがあったからだ。
「虫なんて、一生出てこなければいいのに」
「そう言うわけにはいかないさ。それに、今日は、啓蟄(けいちつ)だからね」
「けいちつ、ですか」
「“啓蟄”、三月五日、六日ごろの、太陽の黄経が三四五度になったとき、二月節気のことを言う。亦、暖かくなって、冬眠していた虫や蛇が穴を出てくること」
由宇奇が淡々とした口調で、辞書のように言った。
「啓蟄は、俳句の季語には欠かせねえ単語だからな。カレンダーにも載っているぜ」
「でも私、そんな言葉今日初めて聞きましたよ」
「今日初めてって、おい……お前それでも蟲男を追っていた身か?俺の書いた蟲男はな、啓蟄が非常に関係してんだ」
「そうなんですか」
由宇奇は残り少なくなった煙草を地面に落として火を消した。
「蟲というのは、人間の中に潜む、隠れた感情や欲望のことを言う。春になるとその欲望が這いだし、蟲男という名の妖怪が産まれる」
「なんだか、綺堂さんも同じようなこと言っていませんでしたか」
「ははは、参ったね」
綺堂は笑った。
「啓蟄とは言うが、桜はまだまだ、咲かねえな」
由宇奇が言った。
「これじゃあ、花見酒も美味くねえ」
「桜が咲いたら、また三人で集まって、花見でもしようじゃあないか。まあ夏芽さんの事だから、花より団子、という奴だろうがね」
「酷いですよ、綺堂さん。私だって、それなりに風流をたしなめる女の子ですよ」
夏芽は言った。
「それに、桜を見ながら食べるお団子だから、余計においしいんです」
「それは確かに」
綺堂が笑った。
「“向こう”は、桜は咲かないんですか?」
「ああ、季節がないからね」
綺堂が言った。
「啓蟄から暫く、六十五日間は静かな日が続く」
心なしか、嬉しそうだった。
「じゃあ、行ってもつまんねえな」
「静かでいいじゃあないか。静かな妖怪世界も、風流でいいものさ」
「そうなんですか。一回、静かな妖怪世界に行ってみたいです。静かな方が、綺堂さんも優子さんも、外に出やすいでしょう?」
「お前とあいつは出不精の塊だからな」
由宇奇は新しい煙草に火をつけた。
「まあな。夏芽さん、六十五日の間、妖怪は喪に服したような状態になる。八千代トンネルが通れない日があるかもしれないが、そういう時もある、と我慢してくれ」
夏芽は目を見開いた。
「そんな不思議なことがあるんですか?」
「あるんだよ、そういう奇妙なことは。そして、奇妙なことがない世界など、全くもって、つまらない」
綺堂は意味深気に微笑んで見せた。
「それじゃあ、夏芽さん」
「じゃあな、お嬢ちゃん」
綺堂と由宇奇は同時に歩き出した。
「さよなら」
夏芽は手を振る。
二人の後ろ姿は、トンネルの半ばで、すっと消えた。
夏芽は、何だか心に穴が開いたような気持ちになって、少しの間、立ち尽くした。
その時、ぐう、とお腹が鳴った。そう言えば、もうお昼はとうに過ぎている。今日は卒業式であり、学年が変わる大事な日だ。春代が、きっと、おいしい御馳走を用意して待っているに違いない。
夏芽は回れ右をすると、トンネルと幼い日の自分に別れを告げて、帰路についた。
そう言えば、肇は何をくれたのだろう。握っていた掌を開くと、制服のボタンだった。
『ちなみに、第二ボタンは他の人にあげるんだって』
夏芽はふっと微笑んだ。
―――第二ボタン、だったりしてね。
桜並木を、一人歩く。
花は、まだ咲かない。
啓蟄……冬籠りをしていた虫が動きだし、巣の外へ這い出る、の意。春の季語としても知られており、陽暦では三月五、六日のことを言う。
啓蟄 了
啓蟄(綺堂談義其の二) 篠田 悠 @deco10mame
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