四、
煙草屋に、いつもの男がやってきた。長髪で派手な花柄の着物、右側の顔を包帯で隠している。
「旦那、いらっしゃい」
今日の男は上機嫌だった。
「どうしたんですかい。いいことでもあったんで?」
「ああ、最高だよ」
くくくく、と不気味に笑う。煙草屋の親父は男にいつもの葉巻を差し出した。
「旦那の事ですから、また人間世界で、面白い事件でも起きたんでしょう」
「ああ。蟲男、だって。聞いたことある?」
「蟲男?妖怪ですかい?」
「わかんねえのさ。だから面白い」
男はまた、くくくく、と笑う。
「人間は、脳味噌にちょっと刺激を与えてやるだけで、バレリイナのように踊り始めるのよ。一度踊り出したら最後、死ぬまでそれは止まらない」
「まさか、噂で聞きやしたけど、人間世界で起きてるらしい誘拐事件、旦那が発端なんで?」
男はちらり、と親父を見た。切れた目が、怖い。親父は思わず目をそらした。
「旦那はいいねえ、あっちとこっちを行き来できる。あっしもそんな生活送ってみてえや」
「退屈しのぎ位にしかなんねえよ、あっちの世界は。でもねえ」
男は葉巻に火をつけた。
「人を転がすことほどおもしれえことはないよ」
「旦那は、物好きですねい」
葉巻の煙がすうと空に吸い込まれていく。
「いや、これが俺の宿命なわけさ」
男は気味の悪い微笑を浮かべたまま言った。
「俺あ人間が大嫌いでね」
*
宮本肇は、夕暮れの公園に立ち尽くしていた。あの日、肇はここで、土田和也と会う約束をしていた。「キャッチボールをしながら、話したいことがある」、そう和也は言ったのである。しかし二度と、二人でキャッチボールをする日は訪れない。
昔、肇も和也も幼かった頃、二人はよくこの公園でキャッチボールをして遊んだ。いや、それはつい最近、二人が高校に入学するまで、ずっと続いていた。しかし、忙しくなるにつれ、お互い、知らず知らずのうちに距離を作るようになっていた。試合中、心を通わせねばならない、大切なパートナーであるというのに。
――和也……。
肇は、揺れるブランコをぼんやりと見ていた。二人の幼い少年たちが、ブランコに揺られて微笑んでいる。肇はその姿を、幼いころの自分と、和也と重ね合わせる。
いつから――――。
不意に風がやんだ気がして、肇は振り返った。
そこには、茶色のスーツにスラックスを着た無精髭の見知らぬ男が立っていた。朝日の光の加減で、髪は茶色にも、緑にも見える。男は、右手に火のついた煙草を持ち、首を傾げたようなだらしのない姿勢をして、ふう、と息を吐き出す。
「よう」
男は、まるで肇と知り合いであるかのように言った。肇は、こんな男は見たことが無かった。
「お前さあ」
言いながら、男は肇の隣に歩み寄った。
「あの二人を見て、自分と重ねていただろ」
肇は、ドキリとした。男の仏頂面は、肇ではなく、ブランコで遊ぶ二人の少年を見ていた。
「だがな、あの二人とお前たちは違う」
男は、何もかもを知っているかのように、そう言う。肇は、地面に目を落としたまま、いや、地面を睨み付けたまま、男の声を、ただ聞いていた。
「あの二人は、兄弟なんだ。年子のな。お前たちとは、だから、違うだろ」
「おっしゃっている意味、理解しかねます」
肇は言った。いつもの肇の喋り方とは違う、堅い口調である。不信感を露わにしているのだ。
「お前たちのバッテリー、さあ」
男は、自分勝手に話を進める。肇の言葉をまるで聞いていない。
「あれは、すごく息が合っていたな。初めて見たときは、俺も驚いたんだ。正に、神童だと思ったね」
「俺たちは、生まれた時から生活を共にしてきました。息が合うのは当たり前です。そして、神童であるということも、正しい。俺たちの才能は、あの学校では持て余すほど、群を抜いていたんです」
肇は、自分の瞳が黒く濁っていく様を、脳裏でぼんやりと眺めていた。今喋っている肇は、ここに“居る”肇とは、まるで別人だ。
男は、煙草を口に運ぶ。
「俺たち、じゃないだろ」
男は、肇の方に向き直って、口に溜まった煙を、態と肇にぶつかるように吐き出した。肇は、それでも表情を変えない。だが、対する男も、最初と同じ仏頂面のままである。こうしてみると、まるで人形たちの掛け合いのようだ。それではつまらない。男は肇を挑発するように言った。
「“俺”だろ」
肇の眉毛が、ぴくり、と動いた。
男は続ける。
「お前は、才能は、自分のほうにあるって、そう思っていた。あいつはおまけだった。違うか、坊や」
少しの間をおいて、肇が答える。
「あなたの、質問の意図が全く読めません」
「……まあ、そうだな」
男は肇から少しだけ離れた。
「今のは全部、単なる俺の興味に過ぎない。まあ、だからなんだ、忘れてくれて一向に構わねえ、寧ろそうしてくれ」
「俺は不快になったんですよ」
肇の抗議の言葉に男は少しだけ笑ったようであった。
「そりゃあ、すまなかったね」
男は煙草を左手に持ち替えた。
「本題は、これからだ。『よしみや』の御曹子さんよ」
「本題?」
人形のような仏頂面の男は、口元を歪めて笑った。
「ああ。今のは、お前さんの気を引くための、まあ、前置きっていうか、作戦っていうかだね。だから、忘れてくれて一向に構わない。それに俺は“その件”に関わろうなんざ、全く思って居ねえ。お前が“違う”ってこと、そして“無関係”だっていうことも、ちゃんと理解ってるさ。それに、俺は自分と、そして“奴”を救うことにしか目がないんでね、お前まで救ってやる義理は無い。つまり、俺が知りたいことは、ただ一つ、一つしかねえってこった」
男はずらずらと、まるで暗号のような言葉を吐いた。肇は顔をしかめる。この男は、一体どこまで、知っているのだ。
肇は、仏頂面を初めて睨み付けた。
「それは、僕に聞けばわかることなんですか」
「まあ、それは分かんねえけど、聞いた方が良いだろうよ、と思ってな」
男は、当たり前だとでも言うような顔をしてそう言う。肇は、男の黒い瞳の中に映る自分を見つけながら、そのくらいの至近距離で尋ねた。
「それは、なんですか」
瞬間、風が音を立てて吹き荒れた。男が何かを言ったのだが、それは肇の耳には届かない。だが、口の動きを見て、肇は理解した。
蟲男――――。
目を覚ますと、見知った天上があった。ここは、しかし、夏芽の家では無い。
―――確か私は、蟲男に襲われて、それで、綺堂さんが……。
はっとして、夏芽は飛び起きた。
「綺堂さんは!」
「夏芽さん」
知った声がする。窓辺を見ると、上半身を包帯で巻かれた綺堂が、痛々しい姿で座っていた。
「綺堂さん!大丈夫なんですか!」
綺堂は笑った。
「ははは、僕より先に夏芽さんの方が失神してしまったんだよ。人の心配をする前に、まず自分の心配をしなさい」
「す……すみません……」
誰かが階段を上がってくる。目をやると、そこには意外な人物がいた。
「……あなたは!」
「おう、珍妙娘。起きたか」
あの時、八千代トンネルでぶつかった、無精髭に茶色スーツの男だった。
「綺堂が糞やべえって時に、てめえまで寝ちまうから、二人担いで運ぶの大変だったぜ。ほんと、昨日は災難だった」
男は煙草を取り出した。それを見て綺堂は、
「由宇奇、悪いがここは、全面禁煙だ」
「あ?助けてもらったのになんだその物言いは」
「助けてくれと頼んだ覚えはない」
ちっ、と舌打ちすると、男は煙草をしまった。
「夏芽さん、紹介しよう。昨日、倒れた君と、深手を負った僕を背負ってここまで運んでくれた、ルポライターの由宇奇秋人だ」
「こいつとは、昔からの腐れ縁でよ。丁度家に来ててよかったぜ」
由宇奇秋人……。聞いたことのある名前だった。夏芽は思考を巡らせる。そうだ、最近よくテレビに出ている、派手な発言をするルポライターだ。
「救ってやったんだから、ありがとうの一つくらいほしいもんだがな」
夏芽は慌てて、
「あ、ありがとうございました」
と言った。
「由宇奇はね、ルポライターであり、あの『蟲男』の作者でもあるんだよ」
「え?じゃあこの人が」
「蟲男さ」
「嘘!やっぱりあのトンネルを抜けて追ってきたのね!」
「おい綺堂、紛らわしい言い方はやめろ。またこいつがぶっ倒れたらどうする」
由宇奇は腕を組んで、夏芽の寝ていた布団から少し離れたところに胡坐をかいた。
「『蟲男』って小説は、俺がまだ若かった頃に、カルト雑誌に送った読み切り小説だ。文庫化されてたのは知らなかったけどな。それで、俺の死んだじじい……おじいさんが間蟲を司る妖怪。おじいさんは人間と結婚して糞じじい……親父を産んだ。俺はその子だから、間蟲男クオーターって感じだな。そんで、俺だけ間が取れて、蟲だけ残っちまった。因みに、今人間世界で起きている事件とは、何の関係もないから、安心しろ、お嬢ちゃん」
「な、夏芽です。夜崎、夏芽」
「夜崎?夜崎ってあの……」
「な、なにか……?」
「ん、いや、珍しい苗字だと思ってな」
由宇奇は頭を掻いた。
夏芽たちは今、綺堂の自宅の二階に居た。二階が、綺堂の自室に等しい。壁に沿って這うように並べられている本棚には、見るからに古い本が綺麗にぎっしりと詰まっていた。これらは全て、綺堂のお気に入りの本であるらしい。
綺堂は、蟲男に襲われた夏芽を助ける際に、蟲男のナイフで腕と背中に傷を負った。蟲男事件の件で、たまたま居合わせた由宇奇が、夏芽をここまで運び、綺堂の手当てをしたのだった。
「かなり血が出ていたし、本当に大丈夫なんですか、綺堂さん」
「ああ。血はかなり出ていたが、そんなに深い傷では無いようだ。な、由宇奇」
「ああ。俺も心配して損したぜ。こいつ、家に着いた途端気を失ったふりをしやがったんだぜ。俺、マジでやべえと思って」
「精一杯の大声で僕を揺さぶり起してくれて、うれしかったよ、由宇奇」
「てめえ、いつか殺すからな」
言葉は怖いけれど、この由宇奇という人、悪い人ではなさそうだ。夏芽は二人のやり取りを聞きながら、安堵した。
「あっしも吃驚(びっくり)しやしたぜい」
いつの間に来ていたのか、辰之助が、階段の方から顔を出して言った。
「お二人が歩いてきた後ろにゃあ、血が点々と、続いていたんでさあ。夏芽姉さんと由宇奇兄さんが心配するのもわかりやすぜい」
「そうですよお……」
「人間、そのくらいでは死なないのさ」
綺堂はにんまりと微笑んだ。夏芽はなんだか損をした気分になり、頬を膨らませる。綺堂という人間は、本当に性質の悪い奴であるのだ。
しかし、同時に内心ほっとしていた。あの侭綺堂が死んでしまっていたら、いや、そんなことなど抑々(そもそも)なかったに違いないけれど、そういう結末に進まなくて本当によかった。
突然、綺堂はいつもの堅い表情に戻った。
「ところで、夏芽さん。何故君は、襲われたんだい」
「何故って……暗い夜道だったから通り魔的に襲ったんじゃないですか?それに、公園で、私何か見つけたんです」
「では夏芽さん、君が調査をしていると、知っている人間は何人くらい居るかい」
「そうですねえ…………四人、くらいかな」
もしかしたらたかねや宮本肇が言いふらしているかもしれないが、と思いながら、夏芽は言った。
「それは、誰だい」
「えっと、私の親友のたかねと、依頼主の宮本肇先輩、それからそのお父さんの吉造さん、あと、行方不明の土田和也先輩のお母さん、の四人です」
「宮本肇と唐沢たかねについては想定内―――というか、唐沢たかねはあんなことがあった後だというのに懲りないのか―――だが、何故宮本の父親や土田和也の母親が知っているということを断言できるんだい」
「だって、さっき、聞き込みに行きましたから。宮本先輩の家と、土田先輩のお母さんに」
「……成る程」
綺堂は顎を拳に乗せて、考える人のポーズをした。
沈黙が流れる。夏芽は、もしかして出しゃばった真似をしてしまったかもしれない、と思い、綺堂の顔色を窺う。綺堂の腕と胸に巻かれた包帯には、血が滲んでいる様子はない。だが、そうやって考えているうちに、じわじわと滲みてきてしまうのではないだろうかと、夏芽は、不安な気持ちに陥った。
「夏芽さん」
突然、綺堂は言った。夏芽は背筋を伸ばす。
「君を襲うとしたら、その四人のうちの誰かだ」
「だ、誰かって……たかねは有り得ないし、他の人たちはみんな、どちらかといえば被害者ですよ。私を襲う理由なんてないです」
「理由はあるさ。もしその中の誰かが、蟲男事件、に深くかかわっている人間だとしたら、ね」
「え…………」
「あれが蟲男で、その蟲男が“本当に通り魔的に人をさらっている”として、あの時も君を“通り魔的にさらおう”としていたとしたら、第三者である僕が現れた時点で、すぐさま犯行を中断して逃げるだろう。蟲男事件の犯人で無かったとしても、単なる通り魔が、あそこまで執念深く僕たちを追いかけてくるなんてことはありない。少女ばかりを狙って犯行に及んでいる時点で、大人が介入したら怯んで―――犯行が明るみになるのを恐れて―――逃げ出す筈だ。それに、少女が消えた事件では、彼らが消息を絶ったであろう場所や見つかった所持品から、血痕らしきものは全く出ていないらしいじゃないか。拭き取られた後、つまり、ルミノール反応もない、と新聞に書かれていた。つまり、被害者たちは、無傷で監禁されている、若しくは血の出ない方法で殺害され遺棄された可能性が高いんだ。それであるのに、変ではないか、夏芽さんの場合だけ、あんなに殺意をむき出しにして、そして僕が現れたというのに、全く怯むこともなく、寧ろ、僕までもを殺そうと、あんなに追いかけてきた……。それは何故か。理由は一つだ」
綺堂は考えるポーズをやめて、夏芽を見た。
「君はもしかして、自分で調査をしているというだけでなく、“僕が”調査に加わっているということも、言ったんじゃないかい」
「……あ」
思い当たることはあった。夏芽は、宮本肇、吉造、そして土田和也の母親に、「優秀な探偵を雇って調査を進めている」と言ったのである。
「やはり、そうだね」
綺堂は納得したように頷いた。
「“あれ”は、君が、一人で調査を進めている、と言っても、特に気には留めなかっただろう。まだ高校生の見るからに幼い君が、犯人にたどり着いてそして犯人を捕まえることが出来るなんて、普通の識人なら考えまい。だがそこで、僕が出てきたらどうだろう。知り合いのお兄さん、とかなんとかと言って僕を紹介すれば別だが、お人よしの君のことだ、被害者であろう彼らを安心させようと思って、優秀な探偵とか、刑事とか、そんなことを言ったんじゃないかい。他にも、昔いろいろな事件を解決に導いた人物とかね。そうなると、話は変わってくる。そんな危険な奴らに、これ以上捜査を進められては困る。だから“あれ”は、君を襲って、これ以上事件に関わらないようにさせようと思ったんだろう。蟲男に襲われて、怖い目にあったら、もう犯人を捕まえるどころか、蟲男なんて言葉も聞きたくなくなるだろうからね。ところが丁度よく、現場に僕が駆けつけてしまった。それで犯人は計画を変更して、“君が雇っている探偵かもしれない人物”である僕を、殺してしまおうと思ったんだ。それで、あんなにも必死になって、追いかけてきたんだよ」
「な、なるほど……」
「つまり、君を襲った犯人は、君が“優秀な探偵を雇って土田の行方を捜査している”と知っている、その四人の内の誰かだ」
「姉さん、大手柄でさあ」
今までまるで存在を消したかのように黙っていた辰之助が、やっと発言のタイミングを見出して、嬉しそうに言った。
「姉さんのおかげで、犯人が四人に絞られたんでい」
「まだ居たのか、ぎょろ眼」
綺堂はやはり辰之助を横目でちらりと見て、こぼすように言った。それから夏芽に向き直って、困った、というように眉を歪めた。
「終わりよければ総てよし、と言ってしまえばそれまでだが、しかしあそこに僕が現れなかったら、夏芽さんは本当に危険な目にあっていたんだ。聞き込みでもなんでも、そういうことで危険が生ずることもある。今度からは、自分一人の考えで行動するのは、謹んでもらいたいね」
「す、すみません……」
夏芽は首をすくめた。夏芽の行動の所為で、自分は兎も角、綺堂は大怪我を負ったのだ。言われなくても、反省せずにはいられない。
そんな夏芽を見て、辰之助がああ、と声を漏らした。
「旦那はこれだから、夏芽姉さんにも、そのご両親にも、認めていただけねえんですよ」
「そ、そうなのか」
綺堂が驚愕の声を上げた。
「見て下せえ、夏芽姉さんがこんなに落ち込んだ顔になって」
「そうか、ああ、僕の悪い癖だ」
綺堂が項垂れる。
「おい綺堂、こいつ、お前のイロなのか」
由宇奇が小指を立てる。
「ち、違います!」
「え?違うのかい」
夏芽は苦笑いを浮かべた。
「あ、えっと、それで」
夏芽は、そう言えば自分は宮本肇から聞き込みをしたのだ、という事を思い出して言った。
「宮本先輩から聞いた情報で、気になることがあるんです」
「ああ、なんだい」
綺堂は腕を組みざまに言った。
「土田先輩は、両親に十二時に帰るって言って家を出たそうなんです。でも帰らなかった。連絡もなかったようです。それで、十一時十二分に、土田先輩から宮本先輩へ、着信があったそうなんです。その後掛け直したけど土田先輩は出なくて……。つまり、もしかしたらその時すでに、蟲男に襲われていたのかもしれない。でも、おかしいんです。だって土田先輩が宮本先輩に”蟲男メール”をしたのは、六時過ぎなんですよ。七時間も公園に居たはずないじゃないですか」
「確かに。だが、他の場所に居たという可能性は無いのかい」
「いえ、それは分からないんですけど……。土田先輩と宮本先輩は、その日の十一時に、公園で会う約束をしていたらしいんです。でも、宮本先輩が突然、丁度その時間に“大事な用事”が出来て、行けなくなってしまって、土田先輩にもその事を伝えたそうです。宮本先輩は、土田先輩は『とても“人が良くて”“相手の事を第一に考えるような人”』だって言っていました。その土田先輩が、どうして宮本先輩が“大事な用事”があるって言った時間に、わざわざ電話をしたんでしょう」
「ということは、やはり十一時には捕まっていて、それで助けを求めて電話をしたという事だろうか」
「でも、それだったら、メールの時間差が意味不明なんです」
「犯人がメールを打ち込んだんじゃあないですかい」
「だとしたら、土田先輩を捕まえた直後にメールをすればいいじゃない」
夏芽はううん、と唸った。綺堂も同様に、首を捻る。
「土田和也の身に、一体何が起きていたのだろうか……」
その時、下の玄関から物音がした。戸を叩く音である。夏芽は一瞬びくりと肩を震わせるのだが、綺堂と辰之助は、予期していたかのように穏やかに反応した。
「お、来たか」
「来やしたねえ」
「ぎょろ眼、出迎えて来い」
「へーい」
「おい、誰だ、俺は聞いてねえぞ」
由宇奇が顔をしかめる。
「お前に見知った奴だよ」
「この世界に見知った奴なんざ星の数ほどいるっての」
辰之助が階段をどてどてと駆け降りる。夏芽は、きょとんとしたまま、先程まで辰之助が居た空間を見つめた。
暫く下の物音に耳を澄ませる。
「あ、あの、誰が来たんですか」
「まあ、すぐにわかるさ」
だだだだ、と階段を上ってきた辰之助に対し、その後に続く足音は、上品に階段を一段一段厳かに上ってくる。階段を上りきった辰之助は、そのまま綺堂の隣に胡坐(あぐら)をかいた。夏芽は少しだけ息を殺しながら、階段の方を見つめる。そこから顔を出したのは、いつかに見た、色白の顔の横に、長い黒髪を結って流している、赤い着物を身に着けた美しい女性であった。
「ゆ、優子さん!」
呼ばれて、通称“人喰い女”の波奈(はな)野(の)雌(め)優子(ゆうこ)は微笑んだ。
「久しぶりだねえ、夏芽ちゃん」
「遅かったな、人喰い」
「だから、その呼び方やめないかい、坊や」
人喰い女の優子は、他人から「人喰い女」と呼ばれることを嫌う。しかし、それを知っていて綺堂は、いつもそうやって呼ぶのである。
「そんで、その傷はなんだい。何かあったのかい」
「ああ、ちょっとね。人喰い女に食いつかれるよりはマシな怪我さ」
優子ははあ、とため息を吐いた。
「夏芽ちゃん、もうこんなのとつるむのはお止しよ。綺堂の坊やは、頼みごとをしといて、あたしの名前さえ憶えちゃあいないんだ。心配してやっても、この扱いだよ。全く、性格の悪い男だよ、この子は」
そんなことを言いながら、優子も決して綺堂を嫌っているわけではない。友情とは、そんなものだ。
「よう、優子」
由宇奇が手を上げた。
「久しいな。元気か。まだあのまじいコーヒー飲んで引き込んでんのか」
「おやまた、珍しい客人じゃないか」
優子は驚いたように言った。
「秋人の坊やがこんな所に、何でいるんだい」
それから肩をすくめて、
「性格の悪い二人が同時に同じ空間に居るなんて、道理で居心地が悪いわけだよ」
綺堂は不服そうに扇子を叩いた。
「おい、人喰い女、僕は決して性格が悪いわけじゃない。どちらかと言えば、そりゃあいい方さ。そんなことより、お前の仕入れた情報を、早く聞かせてくれ」
「だからその呼び方……まあ、そう焦んないでおくれよ。順序立てて、ちゃんと説明するからさ」
言いながら、優子はその場に膝をついた。
「それじゃあ、話すよ。まずね、何も知らない夏芽ちゃんにもわかるように、最初から言うけれど、あたしゃ、綺堂の坊やに頼まれて、今人間世界で起きている『連続失踪事件』について、そこら中の情報屋やら、座敷童やらに聞きこんでいたのさ。それで、色々とわかったんだけどね」
「何がわかったんでい」
辰之助が茶々を入れる。
「だから、焦るんじゃないよ。わかったことは幾つかあるんだ、まとめて話せったって、無理だろう。……まず、一つ目。いつ失踪したかっていう事は、もちろん新聞にも書かれている通り、夕方時から夜までの間らしいけれど、報道では、場所については詳しく述べられていなかった。でも、子供たちが消えた場所には、ある、共通点があったんだよ」
「共通点、ですか」
「ああ、そうさ。必ず半径五キロメートル以内に、『よしみや』って名前の、レストランがあるんだよ」
「よ、『よしみや』ですか……」
『よしみや』は、宮本吉造が経営する、飲食店である。『よしみや』は全国にチェーン店があり、県内にも沢山の店舗を有している。夏芽は、思わず息を呑んだ。先程の綺堂の推理が、脳裏を駆ける。
「二つ目、今度は、人間の共通点だよ。消えた子供たちは、みんな似た雰囲気の子ばかりなんだ。だから警察は、そういう趣味を持った男が犯人なんじゃないかとみて、捜査しているらしいんだよ」
「どういう特徴なんですか」
「写真を見た方が、わかりやすいんじゃあないかねえ」
優子は、赤い着物の袖から、四角い紙きれを数枚取り出した。夏芽と辰之助、綺堂は、同時にそれを覗き込む。
「黒髪で、髪の毛の短いひとばっかり……」
「身長はそんなに高くはないよ。それで、目がくりっとしているのが、みんな似ているね。そう、夏芽ちゃんみたいな子、ばっかりなんだよ。これを見て、夏芽ちゃんが襲われないか心配になったよ」
「ルックスにも、共通点があるんですね」
自分と似たような外見の学生ばかりが狙われていると知って、夏芽はぞっとした。今まで、テレビで何度も被害者の顔写真を見てきたが、そのように意識したことは一度としてなかった。決して、良い気分ではない。
「最後にね、今度は、その宮本家の御曹司の肇っていう子についてだよ。これは去年ある週刊誌が書き立てた記事で、関係者は皆、事実無根だって言っている事なんだけれどね、宮本肇には、腹違いの兄弟がいるらしいんだよ。まだ出世する前の『よしみや』の経営者、宮本吉造はかなりの浮気症でね、あるとき、人妻と浮気をして、よりによって妊娠させちまったんだ。女の方も、吉造も、吉造の子だってことには気付いたらしい。でも、人妻が子を流すなんて、おかしいじゃないか。それで、仕方なく、浮気を隠して、女は子を産んだんだよ」
「もしかして……」
夏芽の脳裏には、何故か土田和也とあの母親が浮かんだ。しかし、次に人喰い女が言った言葉は、逆にそうではないという事を確信させた。
「そうなんだよ、その女のルックスが、背が低くて、黒髪の短髪だったらしいんだよ。目は大きくてね」
土田和也の母親は、全く正反対の人物である。背は高くて、髪は長く綺麗に巻かれていた。夏芽は、ほっと胸をなでおろした。
「話には続きがあってね、これは、“本当に噂”なんだけれど、吉造は、そのスキャンダルのことで、相手の女から色々と脅されていたらしいんだよ。『よしみや』は今や全国にチェーン店を持つでっかい店だ、そんなことが知れたら、マスコミの恰好の餌食じゃあないかい」
ちらりとルポライターの由宇奇を見る。由宇奇はそれに気付いて、
「俺あそんな記事書かねえよ」
と言った。
「成る程」
暫く押し黙っていた綺堂が、やっと口を開いた。
「やはり、『よしみや』関係者に、“蟲男”は居る、ということだな」
「そうさ。ここだけの話、あたしゃあ社長の吉造が絶対に怪しいと思うんだ」
優子が、声を少しだけ小さくして言った。
「よ、吉造さんが」
「だってね、吉造には、犯行の時間帯、アリバイがないんだよ。彼は、その時間帯に、いつも一人でドライブしているらしいんだ。帰ってくるのは夜の八時。それに、そういういざこざがあって、ストレスも溜まっていただろうよ。そこに、その忌まわしい女に似た少女が現れたら、どうだい。あたしだったら、ぶん殴りたくなるね。吉造の場合、さらっちまったのさ。それで、捜査を攪乱させるために、『蟲男を見た』って言うメールを、自分で携帯電話に入力する。何故蟲男にしたのかはわからないけれど。まあ、きっと、そのメールで惑わされたのは、一般の人間たちと、妖怪のあたしたちだけだっただろうけどね」
綺堂は腕を組んで、ああ、と言った。
「確かに、吉造は怪しいな。だが、彼が蟲男であるかどうかは別として、だ」
「別としてって……今のあたしの推理、聞いてなかったのかい、坊や」
優子が不服そうに言う。綺堂は首を振った。
「いや、ちゃんと聞いていたさ。そして、多分、お前の推理はある程度正しいだろう」
「なんだいそりゃあ。言っていることが矛盾しているよ」
「すべて正しい、と言ったんじゃない。ある程度、と言ったんだ。そして、これは僕の予想だが……夏芽さん」
綺堂は突然夏芽の方を向いた。夏芽は自然と背筋が伸びる。
「もしかしたら被害者たちは皆、死んでいるかもしれないね」
綺堂は、さらりと恐ろしいことを言った。
「綺堂さん!」
夏芽は思わず強い口調になってしまう。
「そんな、だって、血の跡だって見つかってないんですよ。そんなわけないじゃないですか。そんな、そんな残酷な……」
失踪した少女たちが正確に何人だったか、夏芽は把握していなかった。一人二人だったなら、夏芽でも覚えていただろう。だが、そうじゃない。大勢の中学生、高校生の幼い少女たちが、消えているのである。
彼女たちが皆死んでしまっただなんて、夏芽には考えられなかった。
だが、綺堂が夏芽を絶望の淵へ追いやるように、続けた。
「あくまで、僕の想像だと思って聞いてくれ。少女たちが消えた場所を誰かが知っていたのは、何故だかわかるかい。それはね、そこに少女たちのものと思われるバッグやらの所持品が綺麗に残っていたからなのだよ。だが、不自然じゃないか、少女たちは、バッグを持っていたんだ。普通、車やらを使ってさらうなら、バッグごと連れ込んだ方が頭がいい。何人も連れ去っているのだから、一人や二人そういうミスを犯してもいいだろうが、だが、何せ行方不明になった少女全員の荷物がそうやって見つかっているんだ、不自然すぎる。“誰かが置いた”としか、考えられない」
「つまり、どういうことなんだい、坊や」
綺堂は夏芽の顔色の変化を見て、少しだけ間を置いた。
それから、目を瞑って、
「他の場所で殺されて、あたかもそこで犯行が行われたかのように見せかけるために、犯人は彼女らの所持品を置いた。あくまで可能性の話だけれど」
と言った。
「そんな!」
これは、陳腐なサスペンス劇場や人が死んでも平気な空想世界の推理小説なんかとはわけが違う。現実世界なのだ。大勢の少女が死んでいる、それをこんなにも冷静に、語れるだろうか。夏芽は少しだけ、綺堂を軽蔑した。
「すまない、勿論、生きている可能性だってある。違う場所に監禁されていて、それで監禁場所がばれないように、少女たちの荷物を持ち出し、それらから指紋をふき取って現場に置いたのかもしれない。そういう可能性も、十分あるんだ」
可能性、という言葉は、あまりに曖昧で、説得力のない言葉であった。夏芽は項垂れた。綺堂は、本当に頭がいい。勘が外れたことは一度として無い。
今回が、その第一回目になってしまえばいいのに。
「夏芽さん」
綺堂が懐から扇子を取り出しながら、柔らかい口調で言った。
「今から一緒にもう一度宮本肇に会ってみよう」
「今から、ですか」
夏芽は顔を上げた。それから、はっとした。自分は、“どのくらい寝ていたのだろうか”
「嬢ちゃん、あ、いや夏芽。残念だがな、日はとっくの昔に変わってて、もう向こうの世界じゃ昼ごろだぜ」
「え!嘘!私、親に連絡してないです!」
夏芽は慌てた。
「捜索願とか、出されてたらどうしよう……」
「安心したまえ、夏芽さん」
綺堂は言った。
「僕の方から、連絡しておいたよ。よかった、お母さんが出てくれてね。上手く誤魔化しておいたから、大丈夫だろう。まあ、お父さんはどうかわからないけれど」
「……そうですか。ありがとうございます」
ひとまず、安心した。
「さて、支度でもしようか」
「綺堂」
由宇奇が遮るように言った。
「肇は、犯人じゃないぜ」
「なんでそう思う?」
「朝、会って来た。あの公園に居たんだ。少しだが、話した。あいつじゃない。少なくとも、“少女たち”をさらったのは」
なつめは、はっとした。被害者の中で唯一、土田和也だけ“男”である。
「俺は、宮本家には行かねえよ。顔も割れてるし、肇も嫌な顔をするだろう。それに、俺にはやらなきゃなんねえことがある」
「やらなきゃならないこと?」
「ああ。土田和也は生きている。“他の少女”たちとは違ってな。蟲男は“二人いるんだよ”」
由宇奇は綺麗な、買ったばかりの様な冊子を差し出した。
「ここに書いてある小説、『蟲男』。俺の書いた奴じゃねえ」
「え?」
「『蟲男』の作者はもう一人いるってわけだ。まあ、読んでみろ」
由宇奇は立ち上がった。
「俺は土田和也専門、てめえらは、“蟲男事件専門”ってことで。俺は、そろそろ、行くぜ。和也が待ってる」
*
曇天の空の下、橙の提燈が至る所で輝いている。街を歩く妖怪たちは、皆、浴衣や甚平といった祭り独特の衣装を身に着けて、手には綿飴やら水ヨーヨーを持って歩いていた。人間世界はまだ寒いが、この世界は穏やかに生温い。雪も降らない。賑やかな雰囲気。都会のそれとはまた違う、耳触りの良い爽やかなざわめきだ。空が落ちてきたような暗闇の中で、ここだけはこんなにも賑やかで、光に満ちている。ああ、これが日本の祭りだ、夜だ。
綺堂と夏芽は由宇奇と別れて、祭りで賑わう中央通りを歩いていた。これから、宮本肇の元へ向かう。
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