三、
綺堂が家に着き、ガラス戸を閉めた途端、閉められたばかりの戸が、ドンドン、と鳴らされた。
「もし、綺堂壱紀、いるか」
綺堂は戸を開ける。
「その声は、由宇奇じゃないか。久しぶりだな。そして」
綺堂は玄関の床に置かれた雑誌を拾った。
「待っていたぞ、『蟲男』」
「失礼な奴だな。誰が蟲男だ、この野郎」
「青森まで行ってきた。貴様の小説を読んで、蟲男の住処がそこだと判断してね。そしたら、人間世界の同じ場所に、人間と妖怪のクオーターが住んでいるというじゃあないか。すぐにわかったよ、由宇奇秋人。蟲男の正体はお前だな」
由宇奇は頭を掻いた。屋台の提燈の光が当たって、由宇奇の髪が緑色に光る。
「確かにあそこは俺んちだし、『蟲男』を書いたのも俺だ。確かに親父は火間蟲入道と人間のハーフで、俺はその子供だから火間蟲入道のクオーターだ。腕に、白い蟲が住んでいるのも、事実。じいさんは間蟲だったってのに、俺はその間が抜けた蟲が憑りついちまった。だが、お前が一瞬でも考えたことは、それは、間違っている。寧ろ逆だ。俺は、この事件を止めに来た」
「ほう」
「ほんで、その『蟲男』って小説、駄作だから捨ててくれ、マジで」
「結構面白かったぞ。特に“青虫に接吻したい”というところが、奇異で素敵だ」
「やめてくれよ。あれはな、俺がまだルポライターなりたての頃に、生計立てるためにカルト雑誌に送ってた読み切り小説だ。文体も子供じみているし、その、わざわざ“接吻”なんて言葉を使っている時点で気色が悪い。捨てろ、今すぐ」
「嫌だね。貴様の事は嫌いだが、あの小説は気に入った」
綺堂は雑誌を床に置き、懐から文庫本の方を出した。由宇奇は頭を抱える。
「誰だよ勝手に文庫化した奴。殺してやる」
「いいじゃあないか。フアンもひとり、増えた」
「黙れ。お前は若かった俺の駄文を読んで、優越感に浸りたいだけだろう。そんなことは端からわかってんだよ。……それより、向こうの世界で起きてる、蟲男の事件、早く解決しないとやべえぞ」
「いつになく必死だな」
「もう、七人目の犠牲者が出た」
「犠牲者?生死はまだわからないだろう」
「何を言ってる、お前にだってわかっているだろ。魂が消えてく音がする。大きな音だ。まだ、余命が沢山残っている魂が、消されている」
「相も変わらず変なことを言う奴だ。残念だが、僕はそんな能力を持ち合わせていなくてね」
「兎にも角にもだ。お前の事は糞ほど嫌いだが、頭が切れる奴だってことは俺が誰よりもよく知っている。力を借りたい」
「力ったって、何をしてほしいのさ」
「俺にもわからん。ただ、怒りが湧いて湧いて仕方がねえのさ」
由宇奇は眉を歪め、とがった眼光で綺堂を睨み付けた。
「俺の小説を“利用して”犯罪を犯している“糞野郎”にな」
*
急ぎがちに歩く。幸い八千代トンネルから宮本家は近く、十分後には到着した。目の前には巨大な黒い門があった。そこからは庭園が続いていて、ずっと向こうに見える、白くて巨大な建物が、宮本肇の家である。
夏芽は背筋と正して、レンガ質の柱についているインターホンを押した。
『どちらさまですか』
家政婦だろうか、女性の声が聞こえる。夏芽は少し緊張しながら、
「夜崎といいます。肇さんに用があって来たんです」
と言った。女性は少しだけ間をおいて、『少々お待ちください』と機嫌悪そうに言った。肇はモテる、というところから察すると、女性は夏芽のことを、肇の付きまといの一人だとでも考えたのだろう。
暫く待っていると、がががと音がして、自動的に門が開いた。金をかける所を間違えている。夏芽は少し戸惑いながら、足を進めた。両側に花畑。ヨーロッパにでも来たような気分である。
建物の方まで行くと、ドアが開いて、中から宮本肇が現れた。
「待ってたよ、夏芽ちゃん。悪いね、受験とか、進路とかで忙しいのに」
「いえいえ、いいんです。先輩こそ、友達思いで、優しいんですね」
肇の家は、外見だけでなく、中身まで豪勢であった。高い値がつくであろう骨董品やら宝石やらが、あらゆる棚という棚に置かれている。トロフィーや賞状なんかも沢山飾ってある。野球や陸上、華道。どれも高価そうな額やケースに入れられている。廊下に敷かれている絨毯も、見るからに高級そうだ。宮本肇は、かなりのお坊ちゃまらしい。
絨毯の上をずっと進んでいくと、開け放たれた白い空間に出る。どうやらそこがリビングだ。
「さあ、座って」
肇が夏芽を中央のテーブルに誘導する。夏芽は椅子に腰を掛けてから、それにしても広いリビングだな、と思って辺りを見回した。向かい側に、肇が座る。夏芽はもう一度腰を浮かせて、しっかりと椅子に座り直した。
「えっと、早速ですけど」
夏芽は聞き込みを始めた。
「土田先輩って、どんな人でしたか?」
肇は、ううん、と唸った。
「そうだなぁ、人の良い奴だった」
「誰かに恨まれてるとか、そういうことはないですか?」
「あいつに限って、それはありえないよ。あいつは、凄くいいやつなんだ。副キャプテンなのに、ボールの片づけはいつも真っ先にやっていたし、それに、野球だけじゃなくて日常生活でだって、あいつはほんとにいいやつだった。いつでも、相手のことを第一に考えるような。だから、あいつに限ってそんなことはない。あいつには双子のお兄さんがいてさ、病気で二年前に死んだんだ。あいつはその分、お兄さんの分も頑張って生きなきゃって、そんなことを言う様な、優しい強い奴だったんだよ」
『あいつに限って』。確かに親友が、誰かに恨まれていたとしても、信じたくない。その気持ちは夏芽にも十分わかった。そして、そもそも、この事件は“怨恨”によるものでは無い。“蟲男”を名乗る犯人が通り魔的に行っている犯罪なのだ。土田和也がそれだけ優しい人だったのならば、尚更、早く解決してあげたい。
「土田先輩、いついなくなったかわかりますか?それと、居なくなったときに居たと思われる場所」
「そうだなあ……」
肇は少しだけ眉間に皺を寄せて、考えるポーズをとった。
「土田が消えた日に、話があるって言われて、十一時に神坂公園で会う約束してたんだけど、丁度その時間に用事が入っちゃって、前日にキャンセルしちゃったんだ。だから、最後に会ったのは、その前の日かな……」
それから少し間をおいて、
「あの時、俺がキャンセルせずに、土田に会いに行っていれば、な」
と寂しそうに言った。
「宮本先輩のせいじゃないです。悪いのは犯人……蟲男、なんだから」
慰めにはならないだろう。夏芽だって、例えばたかねがそうなってしまったら、そして今の肇と同じ境遇であったら、同じことを言うに違いない。どんなに優しい言葉をかけられても、きっと、自分を責めずにはいられない。
「土田先輩が消えた日、土田先輩から、何か連絡はありませんでしたか?」
「連絡、か……電話が来ていて、それですぐに掛け直したんだけど出なかったんだよ」
「それが、何時ごろだかわかりますか?」
「ちょっと待って、携帯で確認するから」
肇はポケットから携帯電話を取り出して、左手に乗せると、いくつかボタンを押した。
「あいつから電話が来たのが、午前十一時十二分、俺が電話を掛け直したのが、午前十一時二十一分。因みに、あいつから電話があったのは一回だったけど、俺は二回掛けなおしてるんだ。昨日、土田のお祖父さんにちょっと聞いてみたんだけど、あいつ、午前十時頃に、神坂公園に行くって言って家を出たらしい。それから連絡が一切なくて、それっきり、夜も帰ってこなかったって言ってた」
「ってことは、今のところ、最後に土田先輩が連絡をとろうとしたのが、宮本先輩で、それが午前十一時十二分」
「電話が来ただけだけどね」
「ちょっと待って、土田先輩からメールが来たのっていつですか?」
「メールって、蟲男のメールか」
「そう。蟲男を見たっていうメールです」
肇は再び携帯電話の画面を覗き込んだ。
「えっと……午後六時三十二分」
「つまり、少なくともそれ以降に、土田先輩は誘拐された……?」
夏芽は腕を組んだ。
「ちょっと変……」
「何が変なんだ」
「だって、変じゃないですか。土田先輩は、神坂公園に一、二、三……七時間以上も居たことになります」
「それはわからないじゃないか。だって、もしかしたら神坂公園に行くって言って、途中でお昼を買いにコンビニに行ったかもしれない。気が変わって、友達の家に遊びに行ったかもしれない」
「友達の家に遊びに行ったんなら、その友達が、何か証言をする筈です。宮本先輩の電話にも出る筈だし。土田先輩のご両親は、何か言ってませんでしたか?」
「いや……ああ、お祖父さんに聞いたら、昼に帰ってくるって言っていたらしい。でも、あいつ、時間守らなかったりすることがよくあったから、あんまり気にしなかったんだと。それに、俺も、確かに電話を掛け直したけど、あいつ、電話に出ないことなんてよくあったからさ、全然気にしてなかったんだ」
「土田先輩って、結構大雑把な性格だったんですね」
野球部の副キャプテンをやる程だから、しっかりした人物だと思っていた。
「あの、土田先輩って、宮本先輩が、その時間に用事があるってこと、知っていたんですよね?」
「ああ、言ったからね。大事な用があるって」
「だったら、どうして宮本先輩に電話をしたんでしょうか」
「え」
「だって、土田先輩は、相手のことを第一に考えるような人だったんでしょう。その土田先輩が、宮本先輩が“大事な用事がある”時間に、わざわざ電話を掛けるなんて、なんだか不自然ですよ。余程の何かがあったんじゃないかな」
「ということは…………もしかして、土田は、その時既に襲われていて、俺に助けを求めようとして……」
「……あくまで、可能性ですけど。蟲男は、もしかしたら、人をさらった後に、本人に成りすましてメールを送っているのかもしれませんね……」
肇は両手で顔を覆った。
「やっぱり俺の所為だ!」
「待ってください、自分を責めないで、仕方なかったんだから」
夏芽は立ち上がって、肇をなだめた。肇はやはり、いや、夏芽の思っていた以上に、土田和也の事を大切に思っていたようだ。しかも、夏芽が色々と質問をしてしまった所為で、責める必要もないのに自身を責め始めている。これ以上、彼から情報を聞き出そうとするのは、余りに酷すぎる。
もう十二分に、情報がつかめた。この豪邸に入ったのは、やはり、正解だったらしい。
「宮本先輩、私、早速綺堂さ……知り合いの探偵さんに、情報を伝えてきますね」
「探偵?」
宮本肇は顔を上げた。
「探偵……っていうか、探偵ぽいっていうか、とにかく、凄く信頼できる人がいて、その人に相談に乗ってもらってるんです。だから、絶対に、土田先輩は取り戻します、約束します」
取り戻す、と言っても、肝心な蟲男すら発見できていない。しかし、肇の泣きそうな顔を見ていたら、自然と口からこぼれた。
「そうか。ありがとう、夏芽ちゃん。俺も、出来ることがあったら、なんでも協力するから、言ってくれ」
「はい、わかりました」
夏芽が言うと、肇は微笑んだ。ああ、よかった、と夏芽は思う。光り輝く宮本肇は、やはり笑っている方が似合っている。
後ろで足音がした。振り返ると、上品な灰色髪の、長身の中年男性が立っていた。男性は、夏芽に微笑みかける。
「おや、いらっしゃい」
それから肇を見て、
「肇、お友達かい」
と言った。どうやら、この中年男性が、宮本肇の父親であり、株式会社『よしみや』の社長、宮本吉造氏であるらしい。
「こちらは夜崎夏芽さん。失踪した土田を、探偵まで雇って探してくれてるんだ」
「そうか……。和也君には、肇はお世話になってたからな。本当に気の毒な話だ。早く見つかってほしいのだがね」
肇が、夏芽の方を向き直って、吉造の方を示した。
「この人は、俺の父さん」
「よろしく、夏芽さん」
「初めまして、よろしくお願いします」
夏芽は足をそろえて、額に膝が付くほど深々と頭を下げた。普通の友達のお父さんになら、ここまではしないだろう。この人は何せ、社長さんで在らせられるのだ。
吉造は笑って、
「よくできた娘さんだ」
と言った。よし、上手くいった、と夏芽は思う。
突然、吉造は表情を曇らせた。
「だが、君のような女子高生が和也君の捜査をするという事は、同時に、犯人に狙われるかもしれないという危険を伴う。あまり、深入りをせずとも、きっと警察が解決してくれるだろうから、どうか、危険なマネだけはしないでほしい。……あくまで、同じ高校生の子を持つ親としての意見だけどね」
「す、すみません……」
首をすくめる夏芽を見て、
「巻き込んだのは俺なんだ」
と肇は言った。
「あ、でも大丈夫です。別に、危険なことをしようってわけじゃなくて」
「そうかい、ならば、いいんだけどね」
吉造は再び、最初の時のように笑った。夏芽は調子に乗って、
「はい、私は聞き込みをしただけで、事件の解決は知り合いの優秀な探偵さんがやってくれるんです」
と余計なことを言ってしまう。
「探偵さんが、かい」
「あ、はい……でも、優秀な人だから、心配しなくても、きっとすぐに事件を解決してくれます。もう、犯人の目星くらいついてると思いますし……」
口から出まかせというのは、こういうことだ、社長というお偉い方の前だと、どうも自分を大きく見せようとしてしまっていけない。
吉造は、しかしにこりとして、
「それは、頼もしい」
と言った。
*
夏芽は公園に向かおうと決めていた。土田和也が消えた、神坂公園。そこで消えたのか、あるいは別の場所に居た時にさらわれたのか、それはまだ分からない。しかし、行ってみる価値はある。
「何かがあるかもしれない。無かったとしても、それも新たな真実だ……か」
先程、綺堂が言った言葉を思い出す。確かに、蟲男の住処と思われるあの場所には何も無かった。しかし、単に何もないという状態では決してなかった。あの場所で綺堂は、蟲男の存在を確信した。
しかし、公園に行く前に、まだもう一か所だけ、行かなければならない場所があった。
土田和也の、家である。
もうすぐ午後五時。辺りはもう真っ暗だ。
―――こんな時間に行ったら迷惑かな。
国道から離れた路地を進む。神坂公園が見えるが、夏芽はそれを素通りする。土田和也の家は、宮本肇曰く、この路地をまっすぐ進んでいったところの、国道との隣接点にあるらしい。
がたり、ことり、と電車の音がする。神坂公園は、人間世界の木沢駅のその裏にある。そして、この公園からは、あの八千代トンネルがしっかりと確認できる。夏芽は、何故だか、昼間出会った男の事を想い出して、一瞬だけ緊張を覚えた。
夕方五時を知らせる鐘が鳴った。
考えているうちに足は進み、いつの間にか、車の音がぶんぶんと聞こえてくるところまで来ていた。国道との隣接点が近づいているのだ、そう思って、夏芽は立ち止まった。質素な、落ち着いた佇まいの家が、目の前に在る。暗くてよく見えないが、多分、屋根は赤茶色で、外壁はベージュ。表札の『土田』を見て、夏芽はそれが土田和也の家であると確信した。
腹が鳴るのを抑え込みながら、夏芽はインターホンを押す。即座に「今開けます」という女性の声がした。突然の来客に遭遇したにしては、対応が早い。
ドアを開けながら、
「あなたが夏芽さんね」
と、土田和也の母親は言った。
「さっき、肇君から電話があってね。探偵さんを雇って、和也を探してくれてるんですってね」
わざわざ肇が連絡してくれていたらしい。
土田和也の母親は、非常にきれいな顔立ちの、芯の細そうなひとであった。美しい栗色の巻き髪が印象的で、肌の色は白く、その所為で目の下のクマが目立って仕方がない。土田和也の失踪に、かなりのショックを受けている様子であるという事は、初対面の夏芽から見ても、一目瞭然である。夏芽は、かける言葉も見つけられないまま、沈黙して彼女の後を追って靴を脱いだ。
広い、清潔そうなリビングに夏芽は招き入れられた。あらゆる壁に、土田和也とその兄弟と思しき少年の写真が貼られている。
「丸坊主の方が、和也で、髪の毛を染めてる方が、兄の翔也よ」
初見、夏芽は和也の方が兄だと思った。
「翔也と和也は双子だったんだけど、性格は真反対でね。翔也は不良で、和也は真面目な野球少年だった。翔也は、病気で……死んでしまったんだけれどね」
母親は、優しい顔つきで言った。
「翔也の分まで生きるって、私を慰めてくれたのよ、まだ子供なのに。あんな良い子、他には居ないわ」
それから夏芽に向き直る。
「ごめんなさい。事件の時の話をしなければダメよね、思い出話なんて」
「お辛いときに、すみません。私も、土田先輩が恨まれてたとか、そういう風には全然考えていないんです。でも一応お聞きしますが、事件当日、誰かが、土田先輩と喧嘩をしたとか、そういうことってなかったですか」
「無いと思うわ、少なくとも、家に居たときはね」
「そうですか。じゃあ、土田先輩が失踪した日の十一時十二分以降に、土田先輩から何か連絡があったりしませんでしたか」
「和也から。そうねえ……時間通りに帰ってこないことなんてよくあったから、全然心配していなかったのよ……。でも、どうして十一時十二分なのかしら」
「十一時十二分に土田先輩が宮本先輩に電話しているんです」
「じゃあ、その時はまだ無事だったのね、和也は」
白い顔が、ぐにゃりと歪んだ。泣いてしまうかと思った。しかし、白い顔はそれを思いとどまると、思いついたというように目を見開いた。
「あ、そういえば……」
「何かありましたかっ」
「あのね、事件に関係があるかはわからないんだけど、あの日、十二時ちょっと前くらいにね、宮本さんから電話があったのよ」
「肇先輩からですか」
「いいえ、お母さんからよ。家族三人で出かける予定なのに、夫が少し買い物をすると言って出て行ったきり、帰ってこないって」
「吉造さんが……それで、宮本先輩のお母さんは、他になにか言いましたか」
「わかりました、って。今物騒な事件が起きているときだし、大人が狙われたって前例はないけれど、余りに遅いから心配でって言ってたわ。私も、あの話を聞いたときに、すぐに和也を探しに行けばよかったのだけれど」
白い顔が、また歪みそうになる。しかし再びそれを阻止したのは、なんと夏芽の腹の音であった。事件の話を聞くのに真剣になって、腹が減っているという現実をすっかり忘れていた。
「あ、す、すみません……」
土田和也の母親は、栗色の巻き髪をかきあげながら、ふっと微笑んだ。
「あら、もうこんな時間になるのね。家でお母さんたちがご飯作って待ってない?大丈夫?」
「そうですね、ちょっと、一応連絡だけさせてください」
夏芽は携帯電話を取り出して、メールを打った。
『ごめん、ちょっと用事で遅くなる』
返信が即座に来た。
『物騒な事件が起きてるから、誰かと一緒にいてくれなきゃ嫌』
『大丈夫、綺堂さんと一緒』
夏芽は嘘を吐いた。
土田和也の家を出た時にはもう午後六時になっていた。あまり帰宅が遅くなると、例えお気に入りの綺堂と一緒にいたと言っても、母、春代に何を言われるかわからない。夏芽は少し急ぎ足で神坂公園へと向かった。風が冷たい。夏芽は歩きながら、宮本肇と土田和也の母親から聞いたことを頭の中でまとめようと努めた。
二人の話を聞いて、気になる点がいくつかあった。
第一に、土田和也の電話とメールの時間差である。土田は肇に電話をし、それから肇は土田に電話を返すが、土田は出なかった。最も考えられるのは、その時点ですでに襲われていたということである。しかし、だとしたら、メールが送られてきたのが遅すぎる。
第二に、宮本肇の父、吉造が、事件当日、しかも丁度土田和也が音信不通になった時間に、外出している、という事実である。あの優しそうな吉造に限って、そんなことはないとは思うのだが……。
ふと視界が開けて、夏芽は顔を上げた。公園がある、その向こう側にはいつものあの地下トンネルがずんと居座っている。
夏芽は公園の伸びきった芝生の上に足を進めた。人っ子一人いない。
神坂公園は、小さな公園である。遊具も錆付いていて、中々の年代ものであろう事が伺える。夏芽は、そういうところが逆に好きだった。今は何でもかんでもいらないものは『削減してしまう』とか『仕分けしてしまう』ような時代だ。この遊具たちも、いつ撤去されてしまうかわからない。
ブランコがひとりでに揺れている。風が吹いているのだ、そう思った時、ブランコの真下で、何かが光った気がして夏芽は目を見張った。何だろうか、白い光を放つそれは、四角形の何かだ。
土田が襲われたこの公園に残る痕跡。
もしかしたら、重大な真実を語るモノかもしれない。
目の前には、あの蟲男の住処を見つけた時とは違い、何かが“在る”のである。夏芽は、近くでそれを確認しようと、足を踏み出した。
その時、
……………………。
背後に緊張が走った。
がさ。
夏芽のものでは無い足音が公園に響き渡る。小さな、ほんの微かな足音である。
悪寒が夏芽の背中に走る。
額に冷や汗が浮かぶ。
こうやってびくびくしながら、振り向いたら実は友人だった、なんてことはよくある話だ。しかし、今は違う気がした。
後ろでする邪悪な雰囲気は、“異常”だ。
意を決して、夏芽は振り向いた。瞬間、何かが夏芽に向かって突進してきた。咄嗟に全身の筋肉に力が入り、夏芽は自分でも驚く勢いで飛びのく。
襲われたのだ、そう認識するのに、数秒かかった。それから自分が、今地面に手と膝をついているのだ、と自覚する。
顔を上げて夏芽が見たものは、銀色に輝く、刃であった。それは、何者かによって握られている。
刃物を持った何者かが、夏芽を襲ったのだ。
その何者かは、上から下まで黒い服を着ている。そいつは夏芽が避けた所為でブランコに肩をぶつけたらしく、その衝撃で右腕だけ皮膚があらわになっていた。
夏芽は息を呑んだ。
虫が、湧いている。
虫が、生えている。
そして、蠢いている。
―――蟲男だ!
夏芽はなんとか立ち上がろうともがく。しかし、必死になれば必死になる程、体が思うように言う事を聞かない。
近づいてくる男を見ながら、夏芽は後悔した。蟲男の噂は、ただの都市伝説に過ぎないと思っていた。本当の犯人は人間で、その人間が、蟲男の噂を利用しているにすぎない、そう思っていた。
だが、目の前の現実は、その夏芽の予想を簡単に裏切った。目の前の男こそ――かの蟲男なのである。
蟲男がナイフを振り上げる。
スローモーションで時が流れて行く。
夏芽は、まだ立ち上がることが出来ないでいる。
逃げなければ。
逃げなければ――――。
その時、夏芽の前を紺色の影が覆った。同時に、夏芽は肩を抱かれ、体を押される。
一瞬の出来事であった。
何が起きたのかわからないまま呆然とする夏芽の前に、綺堂壱紀の顔が、あった。
思わぬ邪魔が入り、蟲男は一瞬だけ怯(ひる)む。しかし、こちらは武器も何も持っていないのに対して、男の方は刃物を持っている。
男は綺堂という大人の介入を確認しても尚、逃げるのではなく、刃を振り上げて向かってきた。
綺堂は立ち上がる。着物の裾が―――いや、今日は袴だ―――袴の裾が、さらり、と夏芽の前で舞う。着物の袖をはらりとはためかせて、綺堂は蟲男の腕に衝撃を加えた。
ナイフが落ちるのが見える。
蟲男は綺堂から距離をとって、自分の腕を押さえた。
死んだ虫たちが、ぱらぱらと落ちていく。
「夏芽さん、立って」
綺堂が鋭い声で言う。
「立って」
一喝されて、夏芽はやっと我に返った。スローモーションだった時間が、通常通りに再生を始める。
夏芽は慌てて立ち上がった。同時に綺堂は夏芽の手を掴む。
「走るぞ」
いつか、こんなことがあった。初めて夏芽が妖怪世界へ行った時、いや、迷い込んだ時、あの時、人喰い女に襲われそうになって、腰を抜かしている夏芽を、綺堂は同じように助けてくれた。
夏芽の手を取って、人食い女が見えなくなるまで走った。
夏芽は綺堂に手を引かれ、何度も転びそうになりながら、後ろを振り返った。
今日はあの時とは違った。
蟲男は二人を追って走ってきていた。
「綺堂さんっ、蟲男が追ってきてます」
「分かってる。八千代トンネルを目指すんだ」
「でも、妖怪は八千代トンネルを通れるんじゃ」
「妖怪だとしたら、八千代トンネルを通って人間世界に出ることが出来る筈がない。あのトンネルを行き来できるのは、少なくとも人間の血が通っている者だけだ。半妖半人であっても」
綺堂は走りながら、全く息を切らす様子もなく、静かにそう言った。
―――綺堂さん、あれは、その、半妖半人、ですよ、だって腕から、
腕から虫が――――――。
八千代トンネルがすぐそこに見えた。
ばさばさと綺堂の袴がはためく。夏芽はやはり不安で、また振り向く。
蟲男は、全く距離を広げる様子もなく走っていた。なんという足の速さと、そして執念だろう……。
「夏芽さん、振り返るな」
綺堂が言った。
「君はただ前だけを見て走っていればいい」
夏芽は頷きながら、落ちている木の枝に引っ掛かって転びそうになる。そうなる夏芽を、必ず綺堂の腕が力強く支える。綺堂の腕は、一見細いようで意外とがっしりとしていた。
トンネルが近づいてくる。綺堂の左手に、少しだけ力が入ったのが分かった。
妖怪蟲男は……ついてきているのだろうか……。
「振り返ってはいけない。走るんだ」
トンネルに飛び込むと、綺堂が言った。
夏芽は振り向きそうになる顔を無理やりに捻った。
二人はトンネルを抜けた。
祭りで賑わう、中央通り。オレンジ色の提燈達。無数に並ぶ屋台。
妖怪世界に、来たのだ――――。
夏芽ははっとした。あの腕、無数に生える蟲……蟲男は……。
振り返る。悍ましい姿の蟲男がいて、再び二人に襲いかかってきたらどうしよう。
しかし、そこにはトンネルと黒い空間があるだけだった。
夏芽は、ただほっとして、その場にくにゃりと沈み込んだ。それを綺堂が慌てて支える。
「夏芽さん、怪我は無いかい」
「あ、はい……。ありがとうございます。ホントに、綺堂さんにはいつも助けてもらってばっかで……。でもなんで、助けに来れたんですか?」
「虫の知らせとでも言おうか、嫌な予感がしてね。来てみたら案の定」
綺堂はため息をついた。
「君は本当に、運がいいのか悪いのか」
「ごめんなさい……。ていうか、綺堂さん、今日は袴なんですね」
「走るんじゃないかと思ってね」
「よかったですね、袴で。いつものだったら、絶対追いつかれてましたからね、蟲男に」
夏芽は安堵の混じった笑顔を浮かべる。
「でもどうして、蟲男は妖怪なのに、トンネルを潜ってもこの世界に来れなかったんでしょうか。こちらの妖怪が人間世界に勝手に行けないのと同じで、向こうに出て行った妖怪も、勝手にこっちに帰って来られないんでしょうか?」
「蟲男、かい」
綺堂は眉を顰めた。
「だって、綺堂さんも見たでしょ。あの、腕。虫だらけの」
「いや。あれはただの人間だったよ。現に、このトンネルを抜けて来れなかった。妖怪の血が混じっている者であるなら、必ず通れるはずの、このトンネルを。向こうの世界に出ることを許された妖怪は、“通行手形”を持っていて、それがあればこのトンネルを抜けて来れる。そして、君みたいに霊感のある人間も、同じだ。だが、蟲男は、ここに入って来られなかった。人間だからだ」
「嘘ですよ。私、見たんですよ。腕から虫が生えて、ぐねぐね動いて」
虫が蠢いていたのである。
「夏芽さん、君はどうもいけない」
綺堂が言った。
「君の脳は、蟲男に洗脳されている。全ては僕が悪いのだけれど。僕は君に、蟲男のグロテスクな話をしてしまった。その所為で君は、いや、君の脳は、無いものを認識してしまうようになってしまった。確かに、それは時に手掛かりや足掛かりを作る。だが、時に先入観や誤解なんてものを招いて、人は自らを攪乱させる」
「でも……でも私、見たんですよ……」
「それは、脳が視たんだよ。まあ、言葉の綾ではあるが、確かに、蟲男と言えないことはない。君を襲おうとした男は、思うに、君の友人の思いを寄せる人の友人とやらをさらった張本人か、またはその深い関係者である可能性が高いのだからね。それにね、君が視た腕の異常は、強(あなが)ち、間違いではない。確かに奴の腕は普通ではなかった」
「私には……虫が居たように視えたんですけど」
「見方によれば、確かにそうも見えるだろう。特に君の脳は、蟲男を“映してしまう”のだからね。奴の腕は、何故だかはわからないが、爛れていた。病なのか、火傷のよるものなのかは、あの一瞬では判断できなかったけれどね」
綺堂は夏芽の手を取った。
「さあ、いつまでもここでしゃがんでいるわけにはいくまい。そろそろ、僕の家にでも避難しようじゃないか」
夏芽は頷く。それから、綺堂の袴の裾に何かがついているのに気付き、手を伸ばした。触れると、濡れた感触が指を覆う。水?汗?何だろうか。夏芽の伸ばした右腕に、ポタリ、としずくが落ちた。この世界は妖怪世界。雨など降らない。
滴は、天から降ってきたものでは無かった。綺堂の着物の袖を伝って、そして夏芽に注いでいるのである。
指の水滴を確認しようとして掌を返した瞬間、夏芽は言葉を失った。
――血だ……。
「綺堂さん!綺堂さん怪我してる……」
夏芽は、思わず叫んだ。綺堂は、まるで素っ頓狂な顔をした。
「怪我?」
それからゆっくりと、袖を捲る。先程の蟲男との“やり合い”で、蟲男が振り回した刃が当たってしまったようだ。綺堂は傷を見て、やっと痛みを感じたのか、顔を歪めた。
「ああ……大したことはないよ。さっきあの男に切り付けられた時に、出来た傷だろう」
「そんな、そんなあっさりと言えるような、浅い傷じゃないですよ……だって血が……ああ、大変……」
腕の肉は、深く切り裂かれているように見えた。赤い縦線が、綺麗に入っている。どうしよう。こんなとき、どうすべきなのだろう。
夏芽は半ば錯乱状態だった。
綺堂は、ばさりと袖を返して、傷ついた右腕を体の後ろに回した。
「心配しなくていいよ、夏芽さん。家に帰れば、何とかなるのだから」
綺堂の白い顔が、儚く笑った。夏芽は、気が動転して、その場に倒れ込み、意識を失った。
「夏芽さん、夏芽さん!」
綺堂が夏芽の身体を揺さぶりながら、呼びかける。その時、提灯の灯りで微かに緑色に光る髪を揺らして、茶色のスラックスが二人の前に現れた。
「なーにやってんだ。突然家を飛び出したかと思えば。若い娘と手つなぎデートか、この野郎」
由宇奇は倒れた夏芽を覗き込む。
「このお嬢ちゃんは……昼間に見た珍妙な女子高生じゃねえか。なんでこんなところで寝てるんだ」
それから、いつになく無口の綺堂に目をやり、由宇奇は目を見開いた。
「おめえ、怪我してんじゃねえか!」
「不覚だった」
「見せてみろ」
腕の傷は深かった。血は、腕だけでなく、背中からも流れている様だった。由宇奇はその場で綺堂の着物を上半身だけ脱がせた。
「こりゃ……深いぞ」
「ああ。夏芽さんを庇った時に、やられた、蟲男に」
「馬鹿野郎。家行くぞ。手当してやる」
「誰が貴様の手当てなど受けるものか。自分で歩ける」
「馬鹿か!」
由宇奇は綺堂に肩を貸し、もう片方の方に夏芽を背負った。
「悪いな……無様なサマを晒してしまって」
「いいんだよ。その代り、明日俺に酒おごれ」
「……酒でも……何でもやるよ……」
ぽたぽたと滴る血が、三人の歩いた道筋を綺麗に示している。早く止血しなくてはならない。
中央通りを抜けて、由宇奇は綺堂を引きずるようにして綺堂の家へ向かった。少しずつ、あの独特の古びた民家が近づいてくる。
変だ、靄がかかって見えるぞ。
綺堂が言った。
「おい、しっかりしろ、もう少しだ」
由宇奇が励ます。
ヘンゼルとグレーテルを思わせる、赤い点々は、血である。
家の玄関まで辿り着いたとき、綺堂は意識を失った。
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