第5話
目を覚ますと、ヤマネさんはピンク色の靴下を床に座ってはいていた。
「どこか行くの」
訊くと、ヤマネさんは一瞬ぽかんと口をあけて、それからカレンダーの黒丸を指差した。
「きょう、博物館行くって、約束したでしょ」
ヤマネさんの目が三角になっている。そういえば、そんな話をしたような気がする。
「支度をするから、ちょっと待ってて」
わたしが飛び起きるとヤマネさんは、
「はやくしてよね」
と言い捨てて玄関に向かった。
チェックのシャツとジーンズとしじみ色の靴下をはいて玄関に行く。途中、ナップサックを忘れたことに気がついて廊下を引き返すとうしろからヤマネさんのため息が聞こえた。急いで玄関に行くとヤマネさんはもう靴をはいて立っていた。
「遅くなってごめんね」
スニーカーの靴ひもをしばって顔をあげる。しかし、そこにはヤマネさんの姿はなく玄関の扉が大きく開いていた。慌ててマンションの通路に飛び出すと、ヤマネさんの青色のパーカーのフードが階段を下りていくのが見えた。
「まって」
空き部屋の前を二つ通り過ぎてから、鍵を閉め忘れていたことを思い出してもう一度引き返す。鍵がきちんと閉まったか確認してから、狭い階段を駆け下りる。ヤマネさんは街路樹の横に立っていた。
「まってって、言ったのに」
わたしが口をとがらすと、ヤマネさんは顎をつんと上に向けた。
「アンタが遅いからいけないのよ」
「そうだけど」
ほら、さっさと行くわよ。いじけるわたしの腕をひいてヤマネさんは歩き始めた。
くじら博物館はわたしたちが住んでいる町から海を越えた場所にある。町とくじら博物館の間には大きな橋がかかっていて、そこを専用バスが通る。しかし、満ち潮になると、橋全体が沈んでしまうため、バスは限られた人数しか乗車することができないのだ。専用バスに乗ることが出来なかったひとたちは、船で行くことになる。船体にはくじらのイラストが描かれていてかわいい。
バス乗り場まで行くと、すでに順番待ちの列がずらりと並んでいた。それを見ただけでわたしはおじけづいた。いつも行く居酒屋とは人口密度がちがう。
「見て」
わたしは船乗り場を指差した。船乗り場はバス乗り場に比べて随分と風通しがよさそうだった。どちらにしろ、博物館には行けるのだから、べつにバスじゃなくても。そう言うと、ヤマネさんは口をへの字にして答えた。
「いやよ。ぜったい、バスに乗る。だって、特典もらえるのよ」
大きなボストンバックの持ち手を握りしめて鼻を荒く鳴らした。ヤマネさんの決意は固いようだった。
順番がきてバスに乗り込む。職員の女の人がきょうはここまでです。と札を掲げた。
「ラッキーだったわね」
ヤマネさんは嬉しそうに言って窓際の席に座った。バスが走り始めると、ヤマネさんは窓に鼻をつけた。すごいわすごいわ。はしゃぐ声にすこし腰を浮かすと、車道を飲もうとする海が見えた。波が車体にぶつかる音がする。
「渡りきるまで大丈夫かな」
「だいじょうぶに決まってるじゃない」
「決まっているの」
「そうよ。だって、きょうの運勢アタシが一位でアンタが三位よ」
車体が大きく左に揺れた。頭がヤマネさんの肩にぶつかる。
「ほんとに、だいじょうぶかな」
「だいじょうぶよ、たぶん」
車体が大きく右に跳ねた。今度はヤマネさんの頭がわたしの頭にぶつかる。
「ヤマネさん」
「だ、だいじょうぶよ」
わたしたちは手のひらを合わせて、無事にバスが着くように祈った。目を閉じている間、ざぱんざぱんと車体をたたく波の音が聞こえていた。
チケット 麦野陽 @rrr-8
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。チケットの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます