第4話

 一緒に住み始めてわかったことがある。どうやらヤマネさんは外見にそぐわず、ちいさな物音ひとつで眠れないらしいのだ。意外と神経質なんですね。鏡越しに笑うと、化粧水を塗る手を止めてヤマネさんは鏡の中でわたしを睨んだ。


「意外とは余計よ」


 ヤマネさんは女のわたしよりも丁寧に肌の手入れをする。めんどうくさくないのかと訊くと、めんどくさいわよとヤマネさんは言った。


「でもね。いつどこでだれに見られようと卑屈にならないためには、日々の努力が大切なのよ」


 そう続けて、乳液を頬にぐいと伸ばした。鏡越しに見るヤマネさんの顔は、てかてかと光っていた。


 夜十時がヤマネさんの就寝時間である。その時間に合わせてわたしも自室の布団で横になる。理由は前の通りである。こんなに早く、眠れるだろうか。布団を鼻先まであげると、ふすまの向こうから鼾が聞こえた。


 きのうは寝言がひどかったが、きょうは鼾か。わたしは、音をたてないように寝返りをうって、ふすまに背をむけた。


 ひとの音は気になるのに、どうして自分のは気にならないのだろう。考えながら、部屋の壁にとろとろと満ちていく夜をじっと見ていた。夜は壁をつたい、床に垂れる。垂れて、わたしのまつげを触ろうと揺れながら迫ってくる。夜が部屋の四隅にぎっちりと詰まると、今度は敷布団ごとわたしを持ち上げようとする。近づいてくる。近づいてくる天井の木目。木目。木曜日は、たしか燃えるごみの日。あれ、ビンとカンは第二火曜日だったっけ。きょうは、あれ、きょう、きょうはもう。夜の色水にとぷとぷと沈み、ヤマネさんの鼾は遠く、すべてがぼやけてくる。




 ヤマネさんは寝るのも早ければ起きるのも早かった。


 まだ陽が顔を出す前から起き出して、洗濯機をまわしたり、プランターの植物に水をやる。プランターの植物は、ヤマネさんが買ってきた。なんという名前かわたしは知らない。黄色や青色や白色の葉っぱが剣山のように生えていて、十日に一度、黄緑色の実をつける。それはざらざらとしていて、薄皮をむいて食べると喉の奥がきゅうとしめつけられる味がした。一度になるのは三つで、ひとつずつお互い食べたあと、三つ目は半分に包丁で切って、わけて食べるのがわたしたちの決まりだった。


 ヤマネさんが朝食とお弁当をつくり終えた頃、わたしは目を覚ます。ついでだから。そう言ってヤマネさんはわたしのお弁当も用意してくれる。家でする仕事だし、適当に食べるよ。と遠慮はしたが、


「アンタ、若いうちはいいけどね。年とってから、痛い目みるよ。健康の貯金はいまからしておかないと」


 とヤマネさんに押し切られて平日は毎日ヤマネさんがつくったお弁当を食べている。元恋人にも同じことをしていたのだろうか。考えて、ヤマネさんが淹れてくれたそば茶を飲む。香ばしいそば茶が食欲を押して、ご飯をいつもより一膳多く食べた。


 洗濯物を干すのは、わたしの仕事である。しわを伸ばして、どんどん洗濯バサミではさんでいく。パンツは一番内側に。ズボンは洗濯竿に通して。色物は裏返して干す。すべてヤマネさんが来るまで知らなかったことだった。


 はじめて洗濯物を二人分干すとき、ヤマネさんの下着がボクサーパンツで驚いた。てっきり、ヤマネさんもわたしと同じ女物の下着を使っていると思っていたのだ。その旨を仕事から帰ってきたヤマネさんに伝えると、ヤマネさんはわたしのおでこに手刀を落とした。


「アンタ、それヘンケンっていうのよ」


 ヤマネさんはすこし怒っているようだった。隠しておいたとっておきのおつまみを手に謝るとすぐに許してくれた。


「だって、こんなことで怒るのは疲れるもの」


 おつまみの袋を開けてヤマネさんは言った。おつまみはカイヒモである。海の物産展で買った。スーパーで売っているものより、やや値段のはるものである。


「でも、さっき怒った」


「そりゃ怒るわよ」


「え」


「けど、すぐに許したでしょ」


「そうだけど」


「こういうのはね、いつまでも怒っていちゃだめなのよ」


「どうして」


「時間が経つにつれ、許すことが難しくなるから。どんなことでもね」


 でも、さっきのわりとシツレイよね。ヘンケンよね。やあだ。とっておきのカイヒモはどんどん減っていき、ビールの空き缶は増えていく。五分に一回ヤマネさんは、ヘンケンよね。シツレイよね。と交互に口にだし、げらげら笑った。わたしはヘンケンとシツレイという角ばった言葉が、床を埋めていくのを見ながら缶ビールのプルトップをあけた。

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