第3話
ヤマネさんが行方をくらまして随分経った。ずっといい調子でいっていた仕事がうまくいかず、元気をだすために焼き鳥屋へ行った。あの焼き鳥屋である。ヤマネさんと会わなくなって、すっかり足が遠のいていた。のれんをくぐると、そこにヤマネさんがいた。見間違いかと思って、目をこすった。まつげを人差し指の腹で感じてまばたきをする。やはり、ヤマネさんだった。
「あら。ちょっと一緒に飲みましょうよ」
ヤマネさんはわたしに気づくと、最近まで会っていたかのように話しかけてきた。わたしが立ち止まっていると、ヤマネさんは、やあね、と笑った。
「ちょっとやめてくんない。そんな、幽霊見るみたいな顔」
「いままで、どこ、行ってたんですか!」
思わず、大きな声がでた。ヤマネさんは、ビールのジョッキを持ち上げて、
「ビールおかわりちょうだい。あともう一杯追加してー」
とカウンターに声をかけた。まだ、動かないわたしをヤマネさんは呼んだ。
「まあ、まずは、再会の乾杯をしましょうよ」
新しい恋人ができたのよ。毎週金曜日、アタシに隠れて逢引きしてたのよ。あのひと。気づかないアタシもバカよねえ。ホレちゃってたからねえ。仕方ないわよねえ。
ビールを三杯飲み干してから、ぽつぽつとヤマネさんは話し始めた。
いわく、ヤマネさんの元恋人が新しい男と住むため、ヤマネさんが邪魔になった。家に帰るとヤマネさんの荷物が全てダンボールに詰められていて、訊くと出て行けという。
おまえよりも。
はっきりヤマネさんの目を見て彼は言った。ヤマネさんは大層傷ついたが、そういう〝決めたら絶対意見を変えない〟という姿勢の彼がすきだったので、頷くことしかできなかった。
残りは捨てていいから。
最低限の物を持って、家を出ようとすると元恋人は言った。
おれは捨てないよ。
えっ。
声を漏らすと、元恋人はヤマネさんの荷物が入った段ボールを指差して言った。
おまえが捨てたら。
ヤマネさんは三階の部屋とゴミ捨て場を往復しながら、泣いた。涙は、元恋人の部屋へ戻ると止まり、ゴミ捨て場へ行くとちょろちょろでた。
いっそのこと。ヤマネさんは階段をのぼりながら思った。いっそのこと、あのひとの前で大きく泣けたらいいのに。そうしたら、あのひと、きっといやな顔をする。新しい恋人よりも、アタシのほうがあのひとのこと、知っているんだから。ふんだ。ばーか。たこやろう。ゴミ捨て場に重なった段ボールを見て、ヤマネさんは思いつく限りの汚い言葉を吐いた。けれど、大した言葉はでなかった。その代わりに、涙が際限なくでた。もちろん、ゴミの分別などできるわけもなく、ヤマネさんは心の中で明日くるであろうゴミ収集車のひとに謝って、でもあのひとがわるいのよ、と言い訳した。
「とりあえず、友だちの家に泊めてもらおうと思って連絡とろうとしたら携帯ないわけよ。ああ! くつばこの上! って気づいた頃には遅いわよねえ。取りに戻るのもシャクだから、そのままにしてきたの」
ヤマネさんはお店の紙ナプキンに持っていたボールペンでさらさらさらさらと文字と数字をつらねた。これ、新しい連絡先ね。二つ折りにした紙をヤマネさんは、わたしの携帯の下に敷いた。
「怒らなかったの」
二つ折りにされた紙ナプキンをさらに折ってジーンズのポケットにしまう。
奥の座敷にいる団体客のにぎやかな声が一瞬、大きく沸いた。どうやらビンゴゲームをしているらしい。若い男が両腕を天井に突き刺さんばかりにぴんと伸ばしている。
「怒ってどうにかなるならいくらだって怒るけど」
ヤマネさんはそこから視線をビールジョッキの雫に戻してぽつりとこぼした。
「でも、ならないでしょう。なってくれないでしょう」
わたしはどう返していいかわからなくて、お手ふきを畳んだり広げたりしてヤマネさんの次の言葉を待った。長方形、正方形、ひらいて、正三角形、ひし形、ひらいて、円筒、ひらいて。これを三回繰り返して、やっとヤマネさんは言葉を漏らした。
「アタシ、引き際はきれいにしたいの。そうしないと、かわいそうでしょ」
「相手が?」
訊くとヤマネさんは前髪を揺らした。
「自分が」
自分が。わたしが繰り返し呟くと、ヤマネさんはお勘定と言って立った。
「きょうはアタシが払うわ」
「えっ」
しわのない万札を財布から取り出しカウンターに置くと、わたしがもたもたしている間にヤマネさんはのれんをくぐって行ってしまった。店主からおつりを受け取るとわたしも慌ててのれんをくぐった。
「半分返すよ、ヤマネさん」
遠くの空とビルの境目がすこし明るくなってきている。おつりを渡してわたしが言うと、ヤマネさんは手のひらをわたしに見せた。
「いいわよ。オカマの愚痴を聞いてくれたお礼」
それから、ひとけのない商店街を二人で歩いた。ヤマネさんがタクシーをひろう場所が近づいてくる。
「きょうはどこに泊まるの」
「さあ」
「さあ、って」
「一応荷物は友だちのところに置いているけれど、いつまでもいるわけにはいかないし」
はやく住むところ決めなきゃねえ。ヤマネさんは背伸びをして言った。わたしは何回も心の中で繰り返し練習したセリフをもう一度反芻して、言った。
「ヤマネさん」
「なあに」
柔らかい瞳でヤマネさんがわたしを見ている。
「うちにおいでよ。泊まるところ、まだ決まってないなら」
しばらく沈黙が続いた。わたしは自分の握った拳の温度が急激に上がっているのを感じて、でも、拳をとくことはせずにじっと待っていた。なんだか、きょうは待っているばかりだ。ヤマネさんはわたしの顔を見てうーんとうなった。
「アタシ、一応男なんだけど」
「でも、恋愛対象は男でしょ」
「そうだけど」
ほんとに、いいの。逡巡したあと、ヤマネさんはこちらをうかがうように顔を傾けた。いいよ。頷いて、わたしたちは、また歩き始める。タクシーが横を通り過ぎていく。
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