第2話
大きな仕事がひとつ終わって、祝いに町に出た。クラッカーばかり食べていたのでがっつりしたものが食べたくなり、目についた焼き鳥屋へ入った。空いているカウンター席に座ると、喉が鳴った。もも、ねぎま、せせり、ぼんじり、かわ、つくね、きも、もう一回せせり。小休止に冷奴をつまんでいると、空いていた隣に男のひとが座った。
「ぼんじり、ねぎま、それからハツちょうだい」
かっしこまりましたー! 店主が声を張り上げる。いつの間にか店内はお客さんでいっぱいになっていた。
ここは人気のお店なんだな。
冷奴でビールをちびちび飲んでいると、店主が声をあげた。手には、ぼんじり、ねぎま、ハツが乗ったお皿を持っている。店主はそれをカウンター越しに隣の男のひとに渡した。ハツ美味しそう。あとで、頼もう。唾液を口の中にためたまま、視線は男の顔へいき、気づいた。
「あ」
料理教室で出会った男だった。男はわたしの視線に気づき、こちらを見た。顔には〝このひとどこかで見たような〟と書いてある。しばらく思いだせなかったようだったが、ぼんじりの最後のかけらに犬歯を刺したところで、
「ああ、炒り卵の」
と言った。炒り卵の。わたしは繰り返し呟いて、それから、店主を呼んだ。
「ハツください」
男は名前をヤマネと言った。公務員をしていて一緒に暮らして半年になる彼氏がいるらしい。ヤマネさんはよく酒を飲んだ。そしてよく食べた。焼き鳥屋が閉店するまで、わたしたちはおおいに食べて飲んでしたたかに酔った。
「わたしい、あの、あれ、傷ついたんですからねえ」
うまく口がまわらず、料理教室の担当職員のような口調になる。空はすこし明るくなってきていた。
「なによう、あれって、なあにいようう」
ヤマネさんも口がまわっていない。担当職員が、ふたり。考えて静かな道で笑った。別れ際、勢いで連絡先を交換して手を振った。ヤマネさんはふらりふらりと歩いて手を大きくあげた。夜明けの道路に赤いタクシーが一台とまった。
それから時々、一緒に酒を飲むようになった。飲む曜日は金曜日と決まっていた。ヤマネさんの仕事が翌日休みで、ヤマネさんの恋人が仕事でいないからである。連絡してくるのはきまってヤマネさんで、いつも電話口の背後で民族音楽が流れていた。
「その曲、ヤマネさんいつも聞いているね。すきなの」
一度訊いたことがある。するとヤマネさんは、ちがう、と答えた。
「彼が、すきなの」
焼き鳥屋でわたしたちは枝豆を食べていた。枝豆の殻は皿の上で緑のタワーとなり、ビールのジョッキに届きそうな高さになっている。
「そういうものなんだね」
わたしが言うと、ヤマネさんは、そうそうと頷いて、新たに枝豆を追加した。
「アンタ、彼氏いたことないもんね」
ぷりんと枝豆を口に放り込みヤマネさんはいじわるな顔で言う。わたしは素知らぬ顔をして、ジョッキのビールを飲み干した。
わたしにも、すきなひとがいたこともあった。十八の冬。毎日、目で追った。けれど、そこから、どうしていいのかわからなかった。コクハクとかそういうことをしてみようかと考えたこともあった。しかし、相談する友だちがいなかった。レンアイするかどうか他人に相談しないとできないようなら、しないほうがいい。そう、ずっと自分に言い聞かせて教室の冷たい椅子に座った。十八のわたしは今よりも孤独で幸せで、そして惨めだった。毎日、すきなひとの絵を描いて一人過ごした。購買で売っている百二十円のノートに数えきれないほど彼を書いた。横顔、正面、うしろ姿、わらった顔、おこった顔。描いて、描いて、描き続けているうちに、冬が終わった。卒業文集に載っていた彼の誕生日と自分の誕生日の相性をネットで占うと〝最高の相性〟と画面にでて、跳ねて喜び、そしてすこし泣いた。
緑のタワーの中腹を指で弾くと、ヤマネさんが悲鳴をあげた。
「イヤーーー! アンタ、なにすんのよう」
せっかくここまで高くなったのに。ヤマネさんはじっとりとわたしをねめつけた。
「おかえし」
ふん、と鼻を鳴らす。ヤマネさんはこぼれた枝豆の殻をせっせと積み上げながら、目を細めた。
「やだ。アンタ鼻息荒い。アタシの手に風がきたわよ。ここ、無風なのに」
腹が立ったので、ヤマネさんに顔を近づけて鼻をさらに荒く鳴らした。ふんふんふーん。ヤマネさんはさらに目を細めて、やだー、と身をひいた。それを何回か繰り返して、枝豆の皿は空になった。代金を二人で割っていつものように払った。いつもと同じタクシー会社のタクシーに乗ってヤマネさんは帰って行った。
それからしばらく、ヤマネさんと連絡がとれなくなった。ヤマネさんは行方不明になったのである。こちらが電話をかけても留守番サービスにつながり、焼き鳥屋の店主に訊いてみても、しばらく見ていないと言う。ヤマネさんとのつながりが携帯しかないわたしは、どうすることもできず、ただいつものように連絡がくるのを待つことしかできなかった。
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