チケット

麦野陽

第1話

 ヤマネさんとくじら博物館へ行く約束をする。


 くじらと名前がついているものの、展示内容はこの町の歴史が中心の博物館である。くじらのことには一切触れていないのに、なぜそういう名前になったかというと、館長が〝くじら〟だかららしい。館長は博物館の屋上にある巨大プールに住んでいて、たまに潮を吹く。いつ行ってもひとがいっぱいで、なかなかチケットがとれないと聞く。


 このことを教えてくれたのはヤマネさんだった。博物館のチケット二枚余っているから、どう。誘われて、了承した。ヤマネさんはうれしいようなうれしくないような顔を一瞬のうちにして、いそいそと二枚のチケットを茶封筒にしまった。


 日付は月末の土曜日に決まった。わすれないように、カレンダーの数字を黒い油性ペンで囲む。黒じゃ目立たないんじゃない? ヤマネさんは不満そうに言ったが、わたしは聞こえないふりをしてビールを飲んだ。



 わたしとヤマネさんは市が主催している料理教室で知り合った。美味しいお店のシェフを講師に呼んで行う教室は、流行りのレシピを覚えられると人気だった。生徒は抽選で選ばれる。わたしは第一回の時からその教室に参加していた。そのおかげか、抽選にこぼれたことはなく、不平等だよなあ、と思っていた。思いながら、辞退することはなかった。


 その教室の角でヤマネさんは退屈そうにたまごをかき混ぜていた。


 第六八四回のメニューはデミグラスソースをかけたオムレツと角切り野菜のコンソメスープ、セロリのサラダだった。

 男のひとが料理教室にくるのは珍しくないけれど、女のわたしより手際がいいところに目がいった。たまごをかき混ぜ、フライパンにバターをいれて熱っし、バターが焦げないうちにたまごを流しいれる。箸の先で大きく円を描くと、フライパンの柄の根元を右手でたたく。あっという間にたまごは丸まり、お皿の上にぷるりと横になった。それはここに通っている誰のオムレツよりもきれいで美味しそうだった。思わず拍手をすると彼はわたしの顔を見て言った。


「退屈だし、ここ、人気だって聞いたからきてみたけど、こんなの家でも作れるわね」


 わね? 予想外の女言葉に面食らっていると、彼は視線を自分のオムレツに戻して続けた。


「あなた、前からここに通っている人?」


「そうですけど」


 答えると、ヤマネさんはふうんと息を漏らしてデミグラスソースをオムレツにかけた。


「むいてないんじゃない、料理。だってあなたのオムレツ、デミグラスソースと同じ色だし、オムレツっていうより炒り卵って感じだし」


 仕上げにパセリを散らす。デミグラスソースはきらきらと光っていた。


 自分の席に戻って、まだ固いコンソメスープのにんじんを奥歯ですり潰していると、怒りが沸々と喉元まであがってきた。


 そこまで言うことないじゃないか。わたしだって頑張って作ったのに。確かに見た目は悪いし、じゃりじゃりしていてすこし塩辛いけれど、でも食べられないわけじゃない。というか初対面なのに、どうしてあんなこと言われないといけない。


 しばらく無心で食べた。ひとかけらも残さず平らげた。食器を荒々しく洗いながら、でも、と思う。何年も通っているのに、すこしも上達しないことってそんなにない。だいたいはちょっとぐらい前進するもんじゃなかろうか。わたし、やっぱり、むいてないかも。料理。見るとヤマネさんは優雅に皿を洗っている。


 結局、その日のうちに手続きをして料理教室をやめた。手続きといってもたいしたことはなく、担当職員に言うだけである。


「あらあ、残念ですう。フタガミさん、第一回からいらしているのにい」


 職員は首を左右に傾けながら言った。あまり残念そうな顔をしていない。わたしがやめても参加希望者は大勢いるからだろう。また、気が向いたらきてくださいねえ。職員の間延びした声に押されるように、わたしは教室を後にした。

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