そこにもう村は無く
我が辺境の村にやってきて、20年近くが経とうとしていた。
最初は小さな村があった。
いつか誰もいなくなってしまうであろう、寒村があった。
だが、もうその面影は――存在しない。
村は元の数百倍の広さになり、都市と言っても差支えのない広さになっていた。
いくつもの家々が立ち並び、もうすっかり日が暮れたというのに幾人が楽しげに歩いている。収穫祭の準備や、先走ってもう飲みに飲みまくっている者達が騒いでいるようだった。
祭りが迫っていなくても、街に明かりが灯されている事は少なくない。
昔は少しの燃料でも貴重で、日が暮れると直ぐに寝静まっていっていたのに、人が寄り集まって大きな市場が出来た頃からは珍しくない光景となりつつある。
街の中心には大きな河が流れており、我が何人も収まりそうな畑へと石造りの水路を走らせていっている。根深い木は街の外れにはまだまだ生えているものの、材木として切り出され、都市の拡大と共に減っていっている。
畑には普通の二倍近い大きさの作物が実っており、収穫の時を今か今かと待っていた。畑には……我の糞から出来た肥料が撒かれている。
そして畑の一角には――我にとっては――申しわけ程度の衝立が立てられた我専用の便所及び畑のための肥溜めがいくつも存在している。酷い扱いである。
……アレが他所の村にも作られつつあるのを想うと、目眩がしてくる。
初めて肥料のために糞をして以来、人は我の糞を最も求めた。魔物の肉よりも竜の労働力よりも、竜の糞を求めたのだ。
というのも、竜糞の肥料が正直引くぐらいに効果があったためだ。
肥溜めに溜めて肥料にし、桶で運んで土に撒くだけで作物の実りは劇的に良くなった。夏だろうか冬だろうが構わずモリモリと実り、なおかつ普通の作物より早く成長するのだ。ものによっては翌日には実っている事すらあった。
普通の二倍近い大きさに育つ事が珍しくなく、そのくせ大味ではなくしっかりと濃縮された味なのだ。美味い事は美味いのだが……これが殆ど我の糞を力に育ったものだと思うと、少しゲンナリせずにはいられない。
果物には手が伸びてしまうが、やはり魔物の肉の方が臆せず食べれる。
食べれるのだが……人族の者達が「今日も沢山実りましたよ」と持ってくると、なんとも断りづらいので食べずにはいられない。
子供など面白がって我の口に投げ込んでくる。
美味いのがまだ救いである。
村はもう、村では無くなってしまった。
だが、色んなものが良い方向へと変わっていったように思う。
変わってほしくない方向へ、変わったものもあった。
我が初めの頃から世話になっていた者達は、半分近くがこの世を去った。
彼ら以外にも多くの死を、我は看取ってきた。
村長の妻――ミミの祖母も、村のために力を尽くしてくれた難民達の死も。
その度、人間は脆いと思わずにはいられなかった。
剣や槍で突かれるより、ずっと手酷い痛みが我の胸をえぐった。
冷害と飢餓の後に始まった戦争は10年近く続いた。
ここは戦火に見舞われる事は無かったが、難民は絶えずやってきた。
その度に人々は苦心しつつ、受け入れ、村を――都市を大きくしていった。
我も微力ながらそれを手伝ってきた。
いまはもう、国内も一つに落ち着いた。
新たな王がこの国を平定したのだ。
対話と食事と――あと、少々の
色んなものが、初めとは変わってしまった。
我と相対し、我を村に迎え入れてくれた小娘。
大いに笑い、大いに跳ねまわり、元気の塊だった小娘。
そんな小娘は――ミミは――もういない。
それが少し寂しい、と我は想った。
「…………」
「……もう、眠られたのですか?」
「ん……いや、少し、昔の事を考えていたのだ」
「昔の事?」
「昔のお前は、子鹿のように元気に跳ねまわり、騒いでいたなぁ……と」
「む……私は、別に昔から変わりないですよっ」
そう言ってむくれる小娘――いや、女に対し苦笑する。
そうだな。まだまだ、そういう子供っぽいところも残っている。
これでも平時は凛として慈しみを持って人々の話を聞き、よく考えたうえでよくわかるものに事を任せる、皆に慕われているまとめ役なのだ。
重いものをいくつも背負いつつ、それでいて何でもないという顔で微笑む女だが……我と二人きりの時などは、暴れはしないものの静かに寄り添い、言葉と態度で甘えてくる可愛いヤツである。
「でも、ドラゴンさんが一番変わってないですね」
「そうか?」
「ええ、昔から――強くて、大きくて、頼りがいのある、私の旦那様です」
そう言って、女が――ミミが、我の頬に身を寄せて甘えてきた。
昔と比べると随分と背が伸びた。普段は動きやすいように三つ編みにしている長い髪は、もう仕事も終えたからか解かれ、そよ風に揺れている。
いまは薄い布地を一つ纏っているだけだった。頼りない肩紐がそれを支えているが、それが解ければチラチラと覗く白い肩だけではなく、簡単に壊れてしまいそうな体つきが全て露わになってしまう。
日が暮れたゆえ、見ている者はいない。
だが、我は慌てて頬を寄せてミミの身体を隠す事にした。
見ていいのは我だけである。
ミミは我が単に甘え返してきただけと思ったのか、クスクスと笑っている。「そういうはしたない格好をするでない」と言おうと思ったが……止めた。
もっと見ていたかったのだ。
「もう、政務の残りは良いのか?」
「今日はそんなものありませんよ? ドラゴンさんが大事な話があると仰られていたので、ササッと終わらせてそそくさ帰ってきましたから」
「あ、いや、家の中で残務を片付けているものと」
傍らに建った家を見る。我が寝転んでもなお余裕のある広い庭の中、ミミが寝起きする一軒家が建っている。
「まさか……自分で言っておきながら、忘れてました?」
「お、おう……そういう説もある」
「もうっ、大事な話なら忘れないでくださいね?」
ミミは怒ったような声を出していた。
だが、ニコニコと笑って硬い竜の鱗に頬ずりをしてきている。
その声に、触れる肌に、心臓が高鳴ってしまう。
ミミは我を変わらないと言ったが、我はミミに変えられたと思う。
「それで、どんな大事なお話なんですか?」
「…………心の準備をするゆえ、後でな」
「今日帰ってきたらそう言ってて、現在に至るのですが?」
「そ、そうか……ええと……」
「ほら、頑張って言ってください。ウンコみたいに一度出し始めると楽ですよ」
「こ、こういう時にウンコの話をするでないっ」
はい、そうですね――と言ってミミが黙る。
ニコニコと――いや、大人の女らしい、少し艶っぽい笑みで。
「あ、あー……我とお前が
「そうですね。もっと早く結婚したかったのに、私が熱烈に体当たりしていっても直ぐに飛んで逃げちゃうんですから。あれはズルかったです」
「お、お前が竜と結婚するなどと、バカな事を言うからだ」
「私は、私が成したいと思った事を実行しただけです。いまでもその選択は間違ってなかったと思っていますし、大変幸せですよ?」
「……跡継ぎがいるだろうに」
「私が生きてる間は私が責任持ちますけどね、後のことなんてしったこっちゃないです。引き継ぎとか頑張りますけど、皆さんそれ以上に頑張って私の幸福を邪魔しないでくださいね? としか」
「何というか……お前、ふてぶてしくなったなぁ」
「色々ありましたからねー」
ミミが苦笑する。
「その度、皆とドラゴンさんが助けてくださいました。ホントはドラゴンさんと二人きりでイチャイチャしたいですが、助けていただいた恩あるので、いまの仕事を頑張ってるだけですもん」
「そうか……」
「ええ、そうなんですよ?」
「…………その、だな」
「はい」
「子供が、出来るかもしれん」
ミミが、我の腹を心配そうに見る。
「誰に孕まされたんですか……? 農場のベヒちゃんですか? 他にも何匹かの牛にお尻とか舐められそうになってましたよね……うわぁ」
「そういう話ではない! 我はオスだぞ!?」
「あ、いえ、ドラゴンさんなら人族の定規で測るべきではないかなぁ、と」
「ちゃ、ちゃかしているな? お前」
「ええ――だって、すごくドキッとする話題だったんですもの」
緊張のあまり、何と言ったものか惑う。
「……我は人間になりたいと思った事がある。
いまでこそ安住の地を見つけたが、放浪生活中は竜の姿だと追われたからな。
人族の姿に化け、人族の営みの中に紛れる事が出来たら楽だろうと」
「…………」
「だから、少しずつ人族に化ける練習をしてきた」
「私は初耳なのですが」
「失敗したら恥ずかしいから言わなかったのだ」
「へー……」
「だ、だが一ヶ月ほど前から変化に成功し、そこから密かに練習を重ね、安定して人の姿に化ける事が出来るようになった」
「辛かったりしませんか? バキバキと身体痛くなりません?」
「そういうのはまったく無い」
元々、身体の大きさはある程度変える事が可能だったのだ。それをもっと大幅に変化出来るよう、練習に練習を重ねてきただけで。
ただ、より熱心になったのは、ここに来てからだった。
動機に変化があったのだ――自分も人の姿で、
「で、ではさっそく変化を開始する。少し離れているが良い」
「ホントにデメリットは無いんですね?」
「無い。安心するが良い」
問題が無いわけではない。
それゆえ、子供が出来るというのは先走った発言だったかもしれないが……。
その件も言わなくてはならない。
強く念じ、変化を開始する。
竜の身から白い煙が立ち上り、身体の感覚がぐにゃぐにゃとあわふやになる。煙が止まり、新しい感覚を得た時、我の姿は人族のものになっていた。
ミミが目の前でひどく驚いた顔をしている。
「…………」
「…………」
「…………」
「……ど、どうだろうか?」
人前で人に変化したのは初めてだ。
未だ、人族の美醜感覚を身につけれたわけではない。
他の者達はともかく、ミミに気に入ってもらえないと困る。
「…………」
「な、何か喋ってくれ……」
「……いや、あの」
「な、なんだ? これではダメか?」
「そうですね……正直、好みからかけ離れた姿です」
軽く目眩がした。
なんたる――なんたる事だ。
密かに苦労してミミの好みを調べてきたつもりだったが、「ドラゴンさんみたいなヒトが好き」と言うばかりで、まったく具体性が無く、「大きくて」「丈夫で」「強い」あたりを人間サイズで実現したつもりだったのに。
「お、お前はどういう男が好きなのだ?」
「そりゃ、端的に言うとドラゴンさんみたいな方ですよ」
「この姿でダメなのにか!?」
我の言葉にミミがクスクスと笑う。
何がそんなに可笑しい。
「その姿は人間になったドラゴンさんの姿でしょう?
私はいつもの、山みたいに大きくて丈夫な鱗を持っている貴方が良いんです。
身体は強いけど、実は繊細な心を持つ優しい貴方が」
「だ、だが……それは、人間ではない」
竜と人間のままでは、子は成せんのだ。
「竜の貴方が好きだから、結婚したんです。ファーストキスまで捧げてね」
「だが、子供無しで本当に結婚した事に……なるの、か?」
「そりゃなりますよ! 精神的な繋がりで私は十分なんです。そりゃ……まあ、ドラゴンさんがホントはムラムラしてるけど、ガマンしてるなら可哀想で申し訳ないなぁ、とは思いますが」
「そ、そんな想いはしていない」
「私、ムラムラしません? 女性的な魅力に欠けるんでしょうか」
「そんな事はない! お前が一番だ!」
夜中なのに大声を出してしまった。
ミミに注意され、慌てて改める。竜の姿だとマズかっただろう。
たとえ――女の竜がいたとしても、我がムラムラするのはミミだけである。
あの日、あの時、口先に触れた感触で――意識し始めてしまったのだ。
今更、コイツ以外の女を想うことなど、出来ない。
……幼女趣味だの変態だの、好きに言えばいい!
もう結婚して夫婦になった! だから我の勝ち!!
「むふーっ……」
「な、何を得意げにしている……」
「他のヒトに取られず、射止めれたのが嬉しくって」
「何を――「ていっ!」――うおっ!?」
不意に体当たりされ、背中から地面に倒れる。
慌ててミミを抱きしめて庇うが、こっちは痛い。
やはり、人型の状態では弱くなってしまう。
「おぉ……幻覚じゃなくて、ドラゴンさんがホントに人間大に」
「イタタ……変化したのだ、当たり前だろう」
「こうやって押し倒せたの、初めてです」
「そりゃ、竜族と人族では元の大きさが全然違うからな……」
「嬉しいものですね」
「は?」
ミミはニコニコと笑っている。
いつもに増して――しかし、どこか恥ずかしげに。
「人型になったのは、私のためなんですよね?」
頷く。
放浪していた時分はともかく、今は竜の姿でも静かに暮らす事が出来る。
皆にウンコをしてくれと言われたりはするが、それでも楽しい毎日だ。
いま、人型になったのは――半分は――ミミのためだ。
もう半分は、自分自身のためである。
「お前に喜んでほしくて……」
「なるほど」
「それと……お前を、遠慮無く抱きしめたかった」
「なるほど。ではどうぞ。ギュッ! とお願いしますね」
マウントを取っていたミミが倒れこんできた。
受け止め、遠慮なしで抱きしめる。
竜の身体ではこうはいかん。
愛しい
「あー……これ、結構いいですね……」
「う、うむ……クセになりそうだ……」
「一番好きなのはドラゴンさんですけど、
人型のドラゴンさんも二番目ぐらいに好きになろうと思います」
「そうか……」
「…………」
「…………」
「……はい、では十分に余韻に浸ったので、子作りしましょうか」
「早くないか!?」
「良いではないですか。ホラ、直ぐ脱がせるんだから全裸で人型になれば良かったというに……あ、コラ、抵抗しないでください」
「待て待て! 心の準備が!」
「何を生娘みたいな反応してるんですか」
「お前も生娘だろうが!」
「まあそうですけどー」
慌てて抵抗し、ミミの肩に手を置く。
大事な事を言っておかなければならない。
「よく……よく聞け? 我も先走った事を言い過ぎたが」
「うわ、股間が固い。これが噂の……」
「頼むから聞いて!? ねっ!?」
「あ、はい。どうぞ?」
「人型になるのは成功したが、子供が出来るかは正直、まだわからん」
「ふむ?」
「単に人の真似をしただけで、子供までは出来んかもしれん」
「へえ?」
「だから、もし出来んでも……ガッカリせんで欲しい」
「しませんって。とりあえず試しましょ? ねっ!?」
「や、やめろ……! まさか貴様! 外でやるつもりか……!?」
「そうですよ! はよ、はよスッポンポンに」
「だーーーーッ!」
ミミを抱え、家の中に担ぎ込んでベッドに投げて覆いかぶさる。
今更ちゃんと恥じらいだしたが、もう容赦はしない事にした。
人族は小さく、脆く、直ぐに死んでしまう。
だが……人の営みは良いものだと、強く感じた日だった。
ちなみに攻守は直ぐに逆転した。
「あーーーーーっ! やめろやめろ! そんな汚いとこ!」
「良いじゃないですかっ♡ きもちいーくせにっ♡」
恥ずかしい。
恥ずかしいが、外ではなく、家屋の中だから大丈夫だろう。
我はそう慢心していた。
かつての――初の肥溜めウンコの失敗を忘れて。
翌日の皆の態度は半ばニヤケ、半ばよそよそしかった。
我はちょっと死にたくなった。
ミミは少し頬を染め、ニコニコと笑っていた。
いつまでもこうして、ミミと一緒にいたい。
我は、そう願った。
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