補遺


 引き継ぎを終えたのち、制服姿にかるく上着を羽織っただけの着替えで、バーテンダーは職場をあとにした。

 先刻までの静けさが嘘のように、大通廊にはいつもの人通りが戻っている。いや、やはり催し物があった反動で、つねよりは活気があるのだろうか。

 通廊の末端、バーの寄り添う展望窓方面へ流れる人波に逆らうように、バーテンダーは帰路についていた。足取りは傍目にはしっかりしているはずだったが、自分では雲を踏むようにおぼつかなく感じていた。

 曖昧な基地の照明が、普段よりもことさら気にかかる――こんな暗さではすれちがう人々の顔つきもはっきりせず、うそ寒い夢のつづきをさまようようだ。

 さっき、同僚はなんといっただろう? 森の奥。遭難した女。残された男。狂った男。遺跡の古代機械は――死者の魂を呼び戻す宗教遺物。


『技術屋だった旦那さんの研究メモに、そう記してあったんですって』


 そう言って、同僚は興味ぶかげに首を傾げていた。


『惑星の発見当初に考えられていたより、高度な先住文明だったようです。とはいえ講演者の先生も、さすがにそんな装置ではないだろうって。おそらく医療用の生体再生培養タンクかなにかでしょう。

 装置の詳細な分析冊子が、事件のどさくさで盗まれてしまったのが残念でした。旦那さんはデータ盗難を怖れて、古風なことに紙媒体に記録していたらしいんですね。今頃はどこかの闇オークションで、好事家にでも高値で売られているんでしょうかねえ……』


 やがて左手側に、空中歩廊で橋渡しされた大講堂入口が見えてくる。

 無意識に鈍っていた歩調に気がつくと、バーテンダーは自分の小心を笑い飛ばそうとした。実際には、喉奥が塞がったような半端音が出るだけに終わったが。

 怖れる必要などないのに――展示物に関する悲惨な逸話は、すでに過去のものだ。だが、そうおのれを鼓舞するはしから自問せずにはいられない。

 その機械があるという部屋を、自分は覗かずにいられるだろうか?


『古びた装置を修復して、男は奥さんの再生を試みたようです。危うく実験材料に――つまり、奥さんの魂とやらの新しい宿主にされかけた助手の訴えで、地元警察や会社の人たちが、彼を捕まえに遺跡へ押しかけました。

 ところが旦那さんは、むしろにこやかに人々を出迎えて紹介したそうですよ――これが妻の生まれ変わりだといって、森に生息する緑色の野生の鹿を』


 既視感――。

 同僚の聞いてきた話は、航宙士の女の物語とあまりに似通っていた。

 異なるのは登場人物の役割などほんの細部と、古代機械のくだりくらいか。最後に男と鹿が命を落とす点まで同じ――そう、大すじは同じだった。

 ちがうのは細部だけ。


『森へ逃げた旦那さんと鹿は、民間まで巻きこんだ大規模な捜索のあと、死体で発見されたそうです。男は、鹿の角で心臓をひと突き。鹿のほうは口に短銃をくわえた妙な格好で見つかったとか。彼らは寄り添うように死んでいたらしいですよ。

 ただ、話題になったのが鹿の死因で、警察によると旦那さんには銃を撃った痕跡がなかったそうです。つまり、誤って銃をくわえた鹿が、自分で暴発させて死んだんだろう、って。――でもね、』


 と、同僚は声をひそめたのだ。


 バーテンダーは、また床に爪先をもつれさせた。転びかけて立ち止まると、もう大講堂が目前だった。

 連合の威信をこめた革張りの、観音開きの大扉が怪物の口もどきに巨大に開け放たれている。内部から煌々とあふれでた強烈な照明は、暗い通廊に立つバーテンダーへ光の直線道を伸ばす一方、講堂内を拒絶的な白さで覆い隠している。


『でも聴衆は、ひょっとしたら講演者の先生だって、こう考えていたんじゃないかな――助手を逃がしてしまった男は、かわりに鹿を材料にしたんじゃないだろうか? そして鹿として蘇ってしまった奥さんが、自分の姿に絶望して旦那を殺したあげく、自殺をしたのでは?』


 どうかしている。


 バーテンダーは大扉から意識的に一、二歩あとずさった。拍子に、うしろからの通行人と肩をぶつけて謝罪する。思いのほか明瞭に聞こえた自分の声音に、勇気をもらうようだった。

 おそらく真実は、それほど突飛なことではないのだ。

 航宙士の女は自分の話を事実だといったが、もしかすると講演の遺物のいわくを知っていて、少しだけ歪めて語ったのではないだろうか。百話目だからと、気負って見栄を張った可能性もある。航宙士たちの誰かも言っていたように、宇宙には心の均衡を崩した者はたくさんいる。自分の夫を――いや、恋人を亡くしたばかりの者なら、なおさらに――真空の無音と孤独とが、人間の正気を蝕むから。


 ――自分も疲れているらしい、とバーテンダーは首すじをさすった。

 早く帰って熱いシャワーを浴び、空腹を満たしたら眠るべきだった。そうすれば、些細な符合にいきすぎた意味を見いだしては、自ら惑わされようとすることもなくなるだろう――そうして一歩を踏みだした、その瞬間だった。突然、巨大な衝撃がバーテンダーの全身を打ち据えてきた。

 基地が裂けたかと思うほどの轟音だった。

 殴りつけられた鼓膜から鮮明な痛みが脳髄を貫く。鳴りの爆発と、平衡感覚の消失――うねり波打つ大通廊が現実なのか錯覚なのか。強烈な眩暈めまいが去り、やっと聴覚が戻っても、こめかみでどくどく脈打つ鼓動と身震いはおさまらなかった。


 人々は、いっせいに悲鳴をあげて倒れこんでいた。不吉な重低音を引きずって大通廊全体の照明がダウンしている。もどかしいほどの一拍を置き、緊急電源のサブ照明がぶつぶつと不満げに瞬いて灯った。

 雷鳴の残響は、吹き抜け空間いっぱいにこだましていた。そのせいで破裂音の出所はまったくわからない。混乱した新しい悲鳴があちこちで生まれつづけ、基地を鳴動させるほどの轟音は一度きりのようだったが、バーテンダーは動転したまま、自分がまだ呼吸ができることを必死でたしかめた。

 減圧事故らしき風はない。近場の空気漏れなどではなさそうだ。では、いったいどんな事故が発生したというのだろう?

 事態の説明ができそうな施設技術官らしき制服は周囲にない。鳴り響く基地アラームだけが焦燥をかきたて、そんな騒音の中、このとき、なぜあれほどかすかな物音を聞き分けられたのか――かわりにバーテンダーの耳が拾ったのは二組の足音だった。

 やけに落ち着いた歩調だった――この状況には不釣り合いにすぎるほどの。

 やがて現れたのは一組の男女だ。へたりこんだ人々のすきまを悠然とすり抜けてくる――いまや完全な闇に塗りこめられた大講堂の入口、空間に巨大に切り抜かれた暗黒の正方形の内部から。

 この緊急時に、なぜ平然としていられるのか? 呆けたように見守るバーテンダーの心臓がひとつ、大きく脈打つ。陶然とした微笑みを唇にたたえた女は、間違いなくあの航宙士の女だった。

 では、彼女が甘えて腕を組む男は、仲間の二人のどちらか――ではない。

 彼らよりずっと背丈が高く、体格も大柄にみえた。赤色灯が不規則に明滅し、いまひとつ顔つきがはっきりしないのだ。それでもバーテンダーは、自分でも不可解な、予感に裏打ちされた熱心さで揺らめく男の黒影を見つめた。こちらに一歩を近づくたび彼の印象は微妙にぶれ、だが気まぐれな非常灯が強いフラッシュを焚いた刹那、バーテンダーは全身にどっと冷や汗が噴き出すのを感じた。ぴたりと印象が重なったのは、航宙士たちの卓で見た、あのホログラムの微笑だった。


 フレアの爆発で死んだ男。小太りで大柄な体躯に、えらの張った顎の輪郭。やや覇気の足りない顔つきだが、笑うと人懐こさが滲みでる――。


 スロー再生の映像ホロを見るように、恋人たちがかたわらをすぎてゆく……。


 すれちがいざま、女がこちらへよこした眼差しは、しかしまるで焦点を結ばず、どこか遠い虚空を見やるようだった。


 鋭いサイレンが耳をつんざく。

 世界の騒音が戻ってくる――。


 ハッと息を飲むと、頭の真横を重い羽音が飛びぬけていった。振り向けば、緊急メンテナンスの飛翔ドローンたちが猛スピードで集結してくるところだ。機械群は働き蜂の熱と唸りを発しつつ、強烈なサーチライトであちこち舐め照らしながらすっ飛んでいく。向かう先は大講堂の入口で、つづいて駆けつけてきた技術官たちも、殺気だった形相で足音荒く講堂へ殺到していった。ようやく騒然とした基地内にアナウンスが流れはじめる。


『皆様にお知らせいたします――先ほど施設内の一部に過剰な電力が流れ、一時的に数区の停電が発生しております――原因は現在調査中ですが、生命維持系統含む主要システムに異常はなく、全系統は数分で復旧の見込みとなっております――皆様には多大なご迷惑とご心配をおかけしましたことを、お詫び申し上げ……』


 やがて放送どおり照明が穏やかな白色に戻り、人々もそろそろと立ち上がりはじめた。皆、同じ難を得た周囲の仲間と脅えきった顔を見かわし、言葉を交わして不安を吐きだしてから、それぞれの日常へと戻っていく。

 基地はふたたび平穏を取りもどす――ただ一人、バーテンダーを除いて。


 バーテンダーはぼんやりと、あの二人が去った方向を眺めやっていた。

 今、見たような気がしたものは、もうどこにも見当たらなかった。やめようとする意に反して、視線は何度も人波の表面を往復するのだが、みつけたとして、あとを追う勇気などバーテンダーは持たなかった。


 恐怖が生んだ妄想だった――きっとそうだろう。口の中はカラカラに渇き、両手はまだかすかに震えているほどだ。白昼夢を見るにはじゅうぶんだった、あれほどの恐ろしい轟音に撃たれた衝撃は。しかし……、


 死んだ男。悲しむ女。装置を用いて死者を蘇らせるには、がいる。


 ――あの航宙士の男たち二人、年輩の男と若い男は、今この基地のどこかに、


 息を呑み、バーテンダーは猛烈な勢いでその考えを振り払った。通行人が心配そうに看護師を呼ぼうかと声をかけてくる。バーテンダーは断り、人波はふりむきながら、通廊のさなかにたたずむ一人を取り残して流れていく。

 どこか頭上で、空調機が憂鬱な息を吹きかえした。呼ばれたようにバーテンダーは背後をふりかえった。

 視野を大きく切り裂いたのは、基地をまっぷたつに縦断する大展望窓の薄明かりだ。影ばかりの暗い基地内へ、淡い星光を差しこませてくる深宇宙の巨大なうつろ。

 もはやすべて亡霊めいた影法師の人群れがゆらぐ。現実と非現実のすきまに隠れた底なしの断裂に、魂のわずかな一部を置き残したまま、バーテンダーもようやく震える一歩を踏みだす。


 基地は、ほの明るい闇のほとり。ここは人間世界からあまりに遠い。


 どこか足もとの深淵から、銀河の巨大な渦流にも似た重く気怠い眩暈めまいが、ゆるやかに立ちのぼってきていた。






(おわり)

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航宙士夜話 鷹羽 玖洋 @gunblue

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