終幕


 静寂は、ずいぶん長かった。

 航宙士たちは沈黙し、身動きもなく、バーテンダーは理性と幻想の曖昧な狭間で不安に立ち尽くしていた。どことなく居心地の悪い滑稽さを感じながらも、三人と一人は固唾を飲み、なにかが起こるのを待った。


 だがもちろん、どんな怪異も起こることはなかった。


 バーテンダーの頭上で、空調機が長ながと憂鬱なため息を吐きだした。大通廊の遠い彼方では、水中の声のように模糊とした基地内アナウンスが、聞き取れない何事かを呟きはじめている。

 静止していた時が動きだす。呪縛のとけた航宙士の一人は展望窓へ視線を走らせ、一人は両腕を天に突きあげて大きく伸びをした。


「なんにも起きないようだな」


「起きたら銀河チャンネルのトップニュースだよ。勘弁してくれって」


 疲れてはいるが、男たちの声はどこか清々しいように聞こえる。

 カウンターからも目に留まるほど、若い航宙士の男がグラスを勢いよく仰向けて水を飲み干し、年輩の男はゆったりと椅子に座りなおして、心やすげに女へ片手を差しあげてみせた。


「どうだろうな。結局なにも起きなかったとはいえ、やつへの弔いとしてはじゅうぶんだと思うんだが。念願の百物語ができて、やっこさんもあの世で喜んでるとおれは思うよ」


「そうだね。きっと楽しんでくれたはずさ」


 さっぱり明るい女の声を、意外に感じたのはバーテンダーだけではなかったらしい。遠目にも、若い男が首をひねりながら冗談めかすのが見えた。


「おれはてっきり、あんたがいつ、もう百話やろうと言いだすかとヒヤヒヤしてたよ」


「なんだい、それ。銀河中の怪談を語りたおす気かい」

 女も、さも可笑しげに笑い、

「たとえ枕元であの人の幽霊に囁かれたとしても、とても付き合っちゃいられないよ。ねえ、そんなことより、あたしの最後の話はどうだった?」


「どうって……、驚いたよ。そんな不思議な出来事があるもんだな。しかも実際に関わったというんだから。信じないわけにゃいかないし」


「おれは幼馴染が壊れちまったのを見てるから、なんとなくようすがわかったな。だけどその会社の連中も無責任だよ。鹿を殺して、そいつを助けてやればよかったんだ。怖がることなんかない。ちょっと餌でもやれば、人になつく野生の獣だっているだろうに」


「まあなあ、そうはいっても、実際当事者になってみるとわからんもんだぞ……。ところで、今のはどこの星系の話だったんだ?」


「さあ、それがね。ほんとの僻宙で、星系分類番号しかない名無しの星だったから。憶えてないのよ、悪いね」


 ふうん、そうか、と興味の薄い相槌を打ったのは若いほうで、しかし、と年輩の男が言葉を継ぐ。


「それなりの文明があったんなら、連合がまた保護だなんだとうるさそうなものだが。そこの工学機械遺跡は、たいして価値あるものじゃあなかったわけか」


「あら……、あたし遺跡の機械のことも話したっけ」


 ふいに女は自分一人に呟くような囁きを漏らした。一瞬、三人のあいだにいぶかしむような間が生まれた。

 しかし奇妙な空白は、我に返った女の返事で何事もなく流れ去る。


「悪いけどあたし学がないもんだから、あれがどんな文明かなんてさっぱりわからなかったよ。それにほら、遺跡はほとんど植物で埋まっていたし」


「そうか。まあ、航宙時代前に滅んだんなら原始文明だろう……」


「じゃ、そろそろお開きにしようか」


 そう言って女が手を打ったのが少しばかり唐突だったので、二人の男たちだけでなく、カウンターにいたバーテンダーも思わず身じろぎをした。

 バーテンダーが怪談話を聞きはじめたころと比べれば、女はほとんど別人のように陽気でほがらかな喋り方になっている。男たちは束の間あっけにとられたものの、「そうするか」と応じた声音にはどちらかといえばほっとした解放感が聴きとれた。


「さすがに寝ないと明日に響きそうな時間になっていたな」


「二人とも、今日は付き合ってくれてありがと。わがまま聞いてもらって、ずいぶん夜更かしさせちまったから、お勘定はぜんぶあたしが持つわ。気にしないでちょうだい」


「へえ、いいのか? そいつはすまないな……」


「なんだ。ならもっと飲んどきゃよかった……」


 三人の笑い声をしおに、バーテンダーはシールホンの通信接続を切った。


 おりしも大通廊なかほどから、大勢の人声がさざめきだしたところだった。

 例の大講堂での催しが終わりを迎えたようである。基地吹き抜けの大空間にじょじょに反響を増すざわめきは、静寂と孤独と神秘に満ちた物語の時間が終わりを告げ、平凡でせわしない現実世界が戻った合図のようでもあった。

 席を立った三人の航宙士も急な人の気配に驚いたのか、月葉植物の植木囲いを透かしてそちらを眺めやっている。指さし、何事か言葉を交わしてから彼らはカウンターへ歩いてきた。


 レジパネルにはすでに会計金額が瞬いていた。

 背すじを伸ばすバーテンダーの前で女は数値を確認し、作業着の胸ポケットからキャッシュ端末を取り出そうとする。だが当てが外れたらしい。彼女は心当たりを探して、肩掛けしていたナップサックをカウンターの上へと乗せた。

 女が袋の底をさらって目的のもの――淡い紫色の紐付き端末を拾いあげるあいだ、バーテンダーは無意識に彼女の手の動きを目で追っていた。頭の片隅でまだ考えていたのは彼らの語った三つの怪異譚だった。


 先人たちの整えた安全な居住環境から、一歩も足を踏みはずさない自分には縁遠い無重力の深淵。ぽつぽつと浮かぶ恒星の淋しい輝きを道標に、広漠の闇を渡るものたちが見聞きしてきた現実とも幻覚ともつかない物語を、できれば百話も聞いてみたかったなと思う。

 余韻に浸りながらバーテンダーは航宙士たちとの別れを待った。その視点が、いつしか女の荷袋のなかへすうっと吸い寄せられていったのは偶然ではなかった。


 女性の持ち物らしい、華やかな柄入りハンカチや小物袋の数かず――一方で、使いこまれたナップサックはあきらかに男物だ。

 袋の奥に、宇宙では高級店にしか見られないような紙製の手帳が押し込められている。異様なのは、その冊子の表紙や周縁部が黒く焼け焦げていることだ。なにしろ、ひび割れ状に崩壊した先から、炭化した紙片が袋の中へふり撒かれている……。


 小さな電子音に呼ばれ、バーテンダーはハッとして視線を戻した。

 レジパネルの上にかざされた、キャッシュ端末を持つ女の左手。労働者の、荒れてはいるがほっそりした五本の指。その四番目にはめられた異物に、バーテンダーは再度目を奪われた。

 汚れた銀製の指輪だった。見覚えのない――彼らの卓に二、三度給仕に出向いたとき、彼女の薬指にこんな目立つものがあっただろうか?

 火事の猛火でもくぐったというのか、指輪の表面は黒い焦げ痕と多くの傷で掻き曇ってしまっている。宝石の台座と鉤爪は、枯死した古木の枝先さながら無残にひしゃげたかたちだ。けれども肝心の台座といえば空っぽで、そこで輝きを放つべきいかなる輝石も載っていなかった。


「ごちそうさま」


 ぎくりとしてバーテンダーは顔を上げた。黒ぐろと底の深い眼で、女がこちらをじっと見ていた。


 彼女は、如才なく挨拶したバーテンダーへ、にっこりと美しいほほえみを残す。きびすをかえして店を出るのを、離れたところで待っていた男が二人、鈍い足取りであとを追った。見送るバーテンダーの耳へかすかな愚痴をこぼしながら。


「……やれやれ、すぐにでも寝たかったのに」


「……おれもだ。おごられちまった手前、断りにくいよな」


「……乗りかかった船だよ。ちょっと覗くだけだというし」


「……で、なんの展示だって?」


 講演から早めに抜け出てきた客だろうか。ぽつぽつと店の席が埋まりはじめた。

 バックルームで充電していた給仕ボットを起動して、バーテンダーは客席の片づけを勤勉な飛翔機械に任せる。新しく入った注文にシェイカーを振っている最中、テーブルをひとめぐりしてきたボットが洗い物を回収して戻り、横目で成果を確認したバーテンダーはやや無念そうに唇を曲げた。

 航宙士たちの三つのグラス。物語を終えると同時に男たちは水まできれいに飲み干してくれたのに、女へ出した創作カクテルは半分も飲み残されていたのだ。

 甘味は少ないがアルコール度数も抑えめの、女性にも飲みやすいつもりで考案したレシピだったのに……。仲間内では評判が良かったけれど、もう少し研究の余地があるのかもしれない。

 がっかりしているうちに次のシフト担当である同僚がやってきて、「お疲れさま。交代します」エプロンを締めながら挨拶してくる。


「新メニューの評判? すこぶる良いですよ。ぼちぼち注文も増えてきているし」


 だがさっそく相談してみると、カウンターに肩を並べた彼女は意外そうに眉を上げた。


「わたしが注文を受けたお客さんは、みんな喜んで飲んでくれたけどなあ。あのレシピはあれで完成形だと思いますよ。時には好みに合わない客もいますよ――それにしても、今日は客足が伸びそうですね」


 在庫は確認済みのこと、おそらく先ほど終了した講演会の帰り客が押し寄せそうなこと、もし忙しくなりそうなら自分も多少は手伝えること。眉尻を下げている同僚にとりあえずそう伝えたものの、彼女は屈託ない笑顔で首を振る。


「頼りになるボットがいますから。なんなら二、三台起動して、キリキリ働かせてやりますよ。それに、さっきすごい話を聞いてきたところで、頭もばっちり冴えているんです 。実は、その大講堂のセミナーで。噂を聞いておもしろそうだったから、わたしも早起きして参加してきたんです」


 どうやら今日は、よくよく物語に縁のある日らしかった。

 同僚の声の弾み、客入りを鑑みても、よほど期待された講演会だったようだ。最初のうち、バーテンダーはとくに気に留めず彼女の話を楽しんだ。みるみるうちに相槌が打てなくなったのは、奇妙な混乱と疑いとが胸を乱しはじめたせいだった。


「いえ、学問的な方面にはあまり興味がなくて――」


 バーテンダーの変化には気づかず、彼女は興奮気味に喋りつづける。


「不謹慎な話だけど、展示された遺物にまつわるゴシップを聞きにいったんです。でも、たぶん皆そっちが目当てだったんじゃないかな――殺人未遂と事故の話。

 ね、気になるでしょう? この基地は平和すぎて、退屈なのがたまにきずというか――ええと、それはいいんですが。

 はじまりは、この扇区の辺境惑星を研究しにいった学者夫婦の奥さんが、森で遭難した事故です。夫婦は中央星域セントラルのなんとかって製薬会社に勤める研究者で、短期の遠征調査中だったとか。

 惑星に繁栄した種族は数千年も昔に滅んでいて、航宙初期の工学遺跡だけが深い樹林の奥に残されているそうです。奥さんは生物学者で、森の生き物の調査中に行方不明になったようですね。ところが奥さんの捜索をつづけるうちに、旦那さんのほうも正気を失ってしまって。あるとき、ついに助手の女の子を殺しかけたんですよ。

 その理由というのが、今回展示された工学遺物に関するもので……」

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