第100話 森の奥
星野を航行していると、折に触れて思いだす光景があるのさ。
真っ黒な宇宙空間を臨むコクピットガラスに重なるみたいに、あの色合いがよみがえってくる――青あおとした惑星、発光する薄繭になって星をくるむ大気層。地表に近づくと、濃密な白雲をかきわけながら緑の大陸が迫ってくる。大地を覆いつくす光合成植物の広大な絨毯。草原。森。樹海。
あの惑星で聞いた木々のざわめきは、当然あたしら人類の故郷だっていう古代地球のものと、そっくり同じじゃあないんだろう。それでも梢をわたる風の音とか、ちらちら降る木漏れ日の感じを、跳躍航路での長い移動中や、星の光の均質な冷たい真空を渡るとき急に思い出したくなるのは、人の祖先がもともと緑の大地で生まれたっていう遠い血の記憶なのかもしれない。
薄暗い鋼の通路の迷宮だった、星間コロニー育ちのあたしでさえそうなんだ。元来が地球型惑星の出身者にしてみれば、あれは心惹かれる森だったにちがいない。ときたま遭難しては発見される自殺者の噂は、前からちらほら聞いていた。だから配達で通ううち顔見知りになった客の一人が森に呑まれたと知らされたさいも、驚く半面、妙に納得をしたものさ……。
知ってのとおり、あたしは航宙機免許のほかに低G惑星第Ⅱ種までは大気圏内航空機の免許も取得してる。
貨物用の軌道エレベータもない辺境星系には今もよく行かされるけど、あれもそういう惑星のひとつだった。
ありふれた地球型の環境惑星。
五十人規模の調査隊は、銀河のあちこちの星に短期間滞在しては、いろんな生物資源を持ち帰るのを仕事にしていた。薬って、ぜんぶ人工知能が設計してるものだと思ってたら、そうじゃないんだね。自然には人工的な計算じゃ合成しないような物質を持ってる生き物がいて、それをもとに新薬が作られたりもするらしい。とくに地球型の惑星では、人に役立つ化合物の当たりくじを引く率が高いんだ。それで、ああいう辺鄙な宙域にも調査の人がわざわざ出向く。
そういうことをあたしに教えてくれたのが、調査団にいた一組のカップルだった。
女の子のほうは生物学者、彼氏のほうは技術屋。二人の仲に格別問題がありそうには見えなかったけど、配達もそう頻繁じゃなかったしね。男女の仲っていうのは外からじゃ見えにくいものでしょう。あたしが配達担当になって、半標準年くらい経ったころかね。そのカップルの彼女のほうが、野外調査中に忽然と消息を絶ったんだ。
――あんたたちは、ほんものの原生樹林を見たことがある?
あれはほんとに素敵な場所さ――鳥や虫の声は絶え間ない音楽みたい。やわらかい葉擦れの音には、不思議と心が安らいでいく。新芽の香りを運ぶ風は肺を洗っていくみたいだし、雨のあとの濃厚な土の匂いも、あたしは嫌いじゃあなかったな。
時どき、そういう森の魔に魅入られて、現地に住みついてる移民のなかにも、吸い込まれるように消えてしまう遭難者が出るんだって。心が弱ってるときが危ないと誰かが言ってたけど、思いかえしてみればあの娘さんも、どこか影のある表情をしていた気がするよ……。
彼女の捜索には、あたしも頼まれて何度か参加をした。
あたしは配達を、いつも軌道上の仮設宇宙港へ母船を係留して、大気圏用
現地での滞在期間の許すかぎり協力したけど、空から見下ろせば一面なだらかな森も、樹冠の下には入り組んだ枝葉の迷路や谷、洞窟なんかが意外なほど隠されてる。障害物の多さに、救難士のスキャナさえ役立たずとなれば捜しようもなくて、さだめの期日が過ぎるとみんなは諦めた。――それでも一人、仲間の説得も聞き入れず、かたくなに捜索し続けたのが彼女の恋人だったのさ。
そりゃあそうよね。これまで多くの月日をいっしょに過ごしてきて、これからも同じように手をとりあってくはずの人だったんだ。
それに彼女が消える前、二人はささいなことで喧嘩をしていたらしい。それで余計につらかったんだろう。彼は、二人の記念日にわたす予定だった高価な婚約指輪も用意していたんだ。
――事が起きたのは、それからふた月もしたころだったかな。
いつもの配達で、あたしが森ぎわの調査団拠点に降りていくと、発着場の脇の閑地で人々の集会がざわめいている。ようすを見に近づけば、中心にいるのはあの技術屋の彼氏じゃないか。あたしを見るなり、彼は嬉しそうに手を振ったよ。満面の笑みを浮かべて、こう言ったんだ。
『やあ配達員さん、ぼくはやりましたよ。ようやくあいつを見つけたんです。だが、どうも彼女、自分のことを忘れてしまっているらしい。記憶を思い出させるために、あなたもいっしょに樹海へ来てくれませんか?』
――誰がいったか知らないけれど、樹海とはよくいったものでね。
大地には多少の起伏はあれ、密に絡みあった樹々とツタの造りだす巨大なうねりが地の果てまでつづいてる。植民地域はほんのわずかで、ほとんどは未開の土地だ。鬱蒼とした緑の壁に、人が分け入るたび新種の生き物が見つかるし、もしかしたら、どこかで半裸の類人種も炊煙をあげていたのかもしれない。
というのも、ある程度の文明がかつては存在してたようでね。調査隊には考古学者も一人二人いて、森の遺跡を調べたり、記録作りをしていたから。
あの日、男がみんなを案内したのも、そういう廃墟のひとつだった。慣れない森歩きに苦労しながら、あたしも人々の最後尾になんとかついていった。そしてようやく行きついた暗い樹海の奥底で、あの男が指さす先にいたものをみんなといっしょに見上げたのさ。
傾いだ柱の頂きで怒ったように大角を振りたてていたのは、あの彼女どころか、人の姿さえしていない。彼女が消える前、森で調査していた獣の一種――薄緑色のたてがみを逆立てた、一頭の巨大な
『あんな姿になっても、ぼくにはわかる。彼女の魂の生まれ変わりだ。森の奥で捜してたんです。名前を呼んだら、ちゃんと帰ってきてくれたんですよ』
こけた頬に妙に人懐っこい笑みを浮かべて、あの彼氏は言っていた。
それ以来、男は樹海に入り浸るようになった。
同僚たちは、もちろんのこと心配していたよ。
だからはじめのうちは友だちに説き伏せられたり、無理に引きずってこられたりして、彼は不機嫌ながらも調査拠点へ帰ってきていたらしい。服装は何日も同じまま、泥だらけの虫刺されだらけ、食事もまともに摂ってないようなひどいありさまだったとしてもね。
一度あたしが見かけたときは、服に、枝をひっかけたような大穴をいくつも開けていたな……。どうやら例の牝鹿に角で突きまわされた痕らしくて。医者が服をめくるたび治療の必要な傷は増えたし、時には飢えて倒れているのを慌てて担ぎこまれたりもしたのに、意識を取り戻すと彼はきまってこうわめいたそうよ。
『ほうっておけ、彼女が待っている。やっとぼくを思い出してくれた。誰も邪魔をするな』
男が拠点に戻る日は、だんだんに減った。
仲間の要請でやってきた会社の救護班にも匙を投げられると、人々にできることはなくなってしまったそうだ。
会社側もそれほど熱心じゃあなかったし、それも森の魔法だったのか――誰かが鎮静銃を携えて彼を捜しに行くと、どういうわけか男の姿は樹々のむこうへ隠れちまって、まるで見つからなくなるというんだ。
ただ彼は、ふとした拍子に姿を見せることはあったらしい。あたしの聞いた話では、あるとき植物学者の一人がキャンプ旅行をしている最中、大昔の廃墟奥で彼に遭遇したそうだよ。
『独りでえんえん喋っていたよ』
配達で顔を合わせた日、その人は怖気づいた表情で語ったものさ。
『あの廃墟の奥にある、広場みたいな閑地でね。もうほとんど骸骨だった。立てもせずに座りこんで、それでもやたら楽しげに喋っている。たぶん二人の思い出とかだろう。支離滅裂だった。時どき笑うが、やっぱりそれも変に明るいんだ。
あたりには気味の悪い重低音が、どこからともなく鳴り響いていた。最初は地震や遠雷かと思ったんだが、どうやらそうじゃない。たぶんあそこの機械遺跡のいくつかを彼が修復して、稼働させたんだろう。
思い切って声をかけようかと悩んだけれど、そうするうち本当には彼が独りじゃないと気がついたよ。あの牝鹿がいたんだ、崩れた壁の陰に。毛も逆立てず、こうべを垂れて、両耳だけぴんとそばだてている。彼の声をまるで子守歌でも聴いてるみたいに、じっと動かず、あの不気味な紅い目を半分ばかり閉じて――』
男の消息は、ぱったり途絶えた。
なんとかしようって仲間内の声も、その頃には下火になっていたようね。
薄情だって? まあね、あたしもそう思ったけど、かくいう自分も結局は他人事としたし、あの研究者たち、普段は
それに、例の獣――まだ図鑑に載せる正式名称もなかったあの緑の鹿は、悪鬼じみて気の荒い危険な野生動物として、現地民からさえも恐れられる獣だったんだ。
家畜化のためのゲノム改良もなしに、在来の野獣が人に馴れるなんてさ。あたしらからしてみても、まるでおとぎ話の世界だろう? それもあって選択肢のひとつだった、あの鹿を殺して彼と引き離すという強硬手段もとうとう実行されなかった。
狂った男を信じるものは、もはや一人もいなかったけど、女の生まれ変わりだという鹿を殺したがるやつだって、あたしを含めて誰も出なかったからさ。
そうして、みんなに見限られた男もまた、森に呑まれて行方不明に――。
ひょっとすると、この物語はそんなふうに終わってたのかもしれない。
だけど、またいくらか月日が流れたあとのこと。あたし自身が思わぬかたちで彼らの結末に関わることになった。
製薬会社の調査期間は、そろそろ終わりに近づいていた。
あたしの仕事は調査隊の居住用具や繊細な実験機材のひきあげに傾いていて、前よりは頻繁に惑星を訪れ、大気圏を往復した。調査員たちも、それぞれ自分の研究の総仕上げのために森と拠点を忙しく行き来していた。
その人たちが、配達のたび、
あとをつけてくる、というんだ。寄ってきた、というものもいた。
ある日は大岩の上から調査員を眺めたり、べつの日には唐突に木立から現れて、ごく間近を駆け去って行ったとか。なんにしろ、鹿は人々とすれちがうだけで怪我人も出ず、ただただ人々を気味悪がらせていたらしい。
そんな話がいくらもつづけば、頭の鈍いあたしにも、まさかと思い当たることがあってね……。腫れものに触るように、誰もが口にするのを憚り、みんなが避けたがっていた例の遺跡へ覚悟を決めてシャトルを飛ばしてみると――やっぱり、あの男が死んでいたのさ。
森の奥深く、朽ちるばかりの遺跡に囲まれた小さな草地に、彼はちょっと休息を取るようなふぜいで事切れていた。
墓標がわりの折れた柱へ背中をもたれかけて座り、うつむいた顔は梢から明るく差しこむ日射しの影になって暗かった。あたりはしーんとして、音がないのが不思議なほどさ。緑だけがむせかえるくらい鮮やかに生い茂っていて……、名前も知らない細かな羽虫が、陽の光を弾きながら無数にふわふわ舞っている。
まるでだだをこねる子供みたいに、男は手足を投げ出していた。服は、もうただのぼろきれだ。袖口や裾は腐ってほつれ、その奥から覗いていたのはすっかり剥きだしになった乾いた薄い骨だった。
彼の亡骸を眺めながら、あたしは不思議に思ったものさ――あの鹿、緑の大鹿は、このことを、彼の死を告げるために人々の前に現れたのかしら?
でもそれが正しければ、あのときいきなり草むらから跳び出てきて、遺体を弔おうとしたあたしを追い払ったりはしなかったろう。それにあたしが拠点へ戻り、みんなに彼の死を知らせたあとも、それまで同様、森を歩く人々の前へ、何をするでもなく現れつづけることもなかったはずさ。
だけどね――あの最後の日。
惑星からの完全な撤収で、調査隊の最後の集荷に来た日に、世話になった学者の一人があたしに教えてくれたんだ。
樹海の化身のようだった、あの優美な緑の大鹿が、男のあとを追うようにして森でひとりでに死んだってことを。
――ああ、ばかげているかもしれないよ。でも、その話を聞いたとき、あたしはようやくわかったような気がしたものさ。
もしかするとあの鹿は、男を捜していたのじゃないかしら? 男が、恋人の生まれ変わりを樹海の奥底に捜したように。
鹿も、彼の生まれ変わりを人々のなかに捜したのじゃないかしら? 追い払っても、怒り狂って突いても、優しく自分に語りかけてくれる男の姿を。
恋い焦がれ、食べもせず、水も飲めず、寂しくて――だというのに、記憶の中のあの人の笑顔がどんどん思い出せなくなりそうで、怖くて……もう二度と穏やかな気持ちに戻れることはない。
そうしてとうとう男を見つけられず、絶望して死んだんだ。
鹿は、彼を愛したのかもしれないね。
あたしはあの静かな草地にぽつんと座った、男の遺骸を憶えている。最後に彼を弔いに行き、彼と鹿のお墓を立てたという人は、こう言っていたよ。
死んだ男の足元に眠るように伏して、牝鹿はひっそりと死んでいた――と。
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