その英雄の名は
注文した覚えのない酒肴が目の前に置かれ、何かの間違いだと店員に伝える。しかし店員はにこにことしながら間違いではないと返した。
「あちらの席の方から、
指された方角を見やれば、今しも立ち去ろうとする二人組の武芸者が抱拳礼を向けてきた。武山は慌ててこちらも慣れない抱拳礼を返した。
「武大侠の威名はすっかり知れ渡ったみたいね」
向かいの席で他人事のように笑うルヤンに、武山はむっと唇を曲げて見せる。
「俺は大侠なんて呼ばれる器じゃない。確かにあの夜、俺はルヤンに協力して夏崇烈を討った。だけど俺自身は戦ってもいない。あの賞金首を生け捕りにしたのは君の手柄なんだ、ルヤン。それに、武芸ができない侠客なんて変だろう?」
夏崇烈が昨夜捕えられたとの報せは瞬く間に周辺の街に広まった。しかもあの強敵を殺すよりも難しい生け捕りにした。それをやってのけたのは無名の侠客、その名も武誠であると。
おかげで武山は一晩のうちに一躍有名人だ。会う人すべてに挨拶され尊敬の眼差しを向けられ、もう懲り懲りだ。それもこれも、ルヤンが役人に「すべての手柄は武誠にある」などと伝えたからだ。
いかにも疲れたと言わんばかりに息を吐く武山に、しかしルヤンは表情を引き締めて酒杯を置く。
「武芸に熟達することが侠客の条件なのか? 他者を圧倒することが英雄の条件なのか? それは違うよ、武誠。侠客とは、その心を言うんだ。正義の心の示すままに、歩みを止めない勇気ある者を言うのさ」
二人の席は酒楼の二階、通りに面した上席にある。ルヤンはその階下に見える人々を指差した。
「彼らの誰もが、夏崇烈を倒したいと願っていた。悪を討ち善なる者が救われるべきだと願っている。でも、みんなその実現に動かない。動いたのは金が目当ての賞金稼ぎだけ。――武誠は違う。自分には何の得にもならないのに、私に協力してくれた。
「そんな、俺はそんな器じゃ……」
言い差した唇をルヤンは人差し指で押さえた。ぐっと言葉を飲む武山。
「武誠、もう一度言うよ? あんたは大侠と呼ばれるべき人間だ。それは、胸を張って誇っていい」
武山はもはや何も言えなかった。確かに、今にして思えば随分と無茶なことをしたと思う。自分の中にあれほど己を奮い立たせる力があるなどとは思っていなかった。しかしそれは確かに彼の身内に存在していたのだ。武山はルヤンの身を案じ、行動してみせた。それが事実だ。
「そう、なのかな?」
「そうだよ」
二人はそれだけ交わし、また盃を掲げたのだった。
――武山が金環を抜けて現代日本へ帰還したのは、もう夜が明けるころだった。あちらの衣装を脱ぎ捨て、直接仕事着に着替える。そうしてふと、携帯電話の通知が点滅しているのを見つけた。
内容はいつものあのメール。武山は即座に返事を書いた。そしてこれまでのことが嘘であったかのように送信ボタンを押す。誤字脱字の有無などどうでも良い。せっかくのこの決意がまた揺らいでしまう前に送ってしまわなければ。今この時はそれが第一だった。
(やりたくなかったわけじゃない。やる勇気がなかっただけだ)
そもそも答えは決まっていたのだ。ただ踏み出す一歩を躊躇っていただけだ。自分を引き留めてくれる理由をずっと探していたに過ぎない。であれば、悩むなど意味のない行為でしかなかったのだ。
遁甲金環を木箱へ放り込む。修理したばかりの玄関扉を開け、朝日の中へと歩み出た。
(了)
双月の大英雄 古月 @Kogetsu
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