第8話 王道
一頭の虎が、池の端にいる。ただ、池中をじっと見つめているだけである。
その光景を、一枚の完成された絵のようだったと、バファラム翁は後に語り、鮮明に見えぬ己が視力を嘆いたという。
「『笑みを湛えたその口元、黒目がちなその瞳、化粧で引き立つその艶やかさ』」
バファラム翁は詠いながら近寄っていく。
「『絵に臨むに下地を成して彩を施す。己に望むに徳の下地を成して智の彩を施す。而して絵は紙を出でず。何ぞ己の己を出だせんや』」
若者はこちらを見ずに、やはり池中の様子を凝視している。バファラム翁は歩みを止める。
「『リグ=ヴェーダ』」
若者は顔を上げた。
「我が祖ガナハティ神が残せし大典。その難解さ故、内容はおろか、存在すらあまり知られる所となっていない」
バファラム翁はさらに近づく。若者の表情が分かる距離に来ていた。
「はじめコウ氏がその重要さに気づいたが、それを解することはできなかった。私も若い頃何度か取り組んでみたが、結局、大したことは分からずじまいであった」
若者は少し困惑した表情をしているようだった。それに対してバファラム翁は微笑みを隠せない。
「アシュバル殿下、貴方ならお分かりになるはずだ。彼の大典を解読した英知を誇る貴方ならば。この国に必要なもの、国の未来に必要なもの。何を以って政を為し、何を以って民を導くか」
若者は再び視線を池中に向けた。
「民衆は導かれるものではない。各々は各々の生を営む。そこに普遍的な基準など存在するわけはない。ならば各々の民は各々の国の王であり、各々の政を執る。たとえ一国が滅びようが、各々の王国は滅ぶことはない。大国など如何程のものであろうか」
「『各々は各々の王』か。見てみたいものですな。そのような民のいる国を」
アシュバル王子はため息一つ吐くと、バファラム翁に向かって言った。
「俺は俺を脱することはできない。師父もご存知の通り、俺は政に疎い。学も、師父が考えるほどあるわけじゃない。このような身で一国の頂点に立とうなどと……」
「そのために……そのために、この老体めがいるのではありませんか!」
バファラム翁は声を絞りだすように叫んだ。
王子は驚いたふうにバファラム翁を見つめ返す。
「恐らく、私が友や家族の死を通り越し、卑しくも長き年月を生きた理由は、この時のためにあったと心得ます。己は己を出でることはできない。されど……」
他者とともに歩むことはできるのですよ、とただでさえ多いしわを寄せ集めて、バファラム翁は微笑んだ。
老象と若虎は、暫くの間微動だにせず、蓮の咲き乱れる水面にその身を映していた。
風が一瞬どっと吹き、深緑の葉を舞わせた。
「殿下」
それを期に、バファラム翁が口を開く。厳かなる祭司の如くに。
「玉座に昇られよ」
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