第6話 夕日

 霧の中を彷徨さまよっている気分であったという。

 光の射す方角は分かっている。しかし道が分からない。結局どこへ行きたいのか……

 バファラム翁にしては珍しく、大変抽象的な思索にふけっていた。

「大変申し訳ございません、バファラム翁。私が幼少時にしっかりと躾けなかったばかりに……いや、心の悪しき方ではないのですよ。ただ、やはり、その、こう……」

「そなたは『先生』と呼ばれているのだな」

 取り繕うのに困っているサティナ公に、バファラム翁は優しい目を向けた。

「ああ、そうですね。幼き日より教育係として仕えておりましたので。本来ならばバファラム翁こそを、尊称するべきなのに」

「いや、よいではないか。そなたは慕われておるのだな」

「……は?」

 その言葉を理解しかねるサティナ公に構わず、バファラム翁は歩みを進める。

 目的とする場所があったわけではない。思索するときは歩きながらの方が良い、というのが、実体験に基づく持論である。

 気づけば、そこはサンタラ川の中流、ヴィガンダの丘であった。

 時刻は夕刻、高みから望む夕陽は、普段より大きく見えた。

 バファラム翁はその光景に見入っていた。緑鮮やかな密林が、このときばかりは朱に染まる。夜に生きる者は目覚め、昼に生きるものは家路につく。夕陽は一日の終わりと始まりを告げていた。

「以前、妻とここで、夕陽を見たものだった」

「……といいますと、シャーティア様でございますか?」

 バファラム翁は頷いた。

 シャーティア女史はバファラム翁の三番目の妻である。父は大司寇ヴァライダ卿、母は平夷将軍ラーカイル卿の娘、ラマナ君であった。もちろん政略結婚以外の何者でもなかったが、夫婦の仲は大変円満であったという。

 大変聡明な方で、バファラム翁を相手に能く問答を交わし、時にバファラム翁を論破するほどであったというから、その才は推して知るべきである。

 バファラム翁はその遠き日を思い出していた。

 いつだったか、シャーティア女史は夫に対してこう言った。

『貴方は思い切りの無い方ですねえ』

 確か、誰かに対して返しにくい返答をしなければならず、迷いに迷っていたときだったと記憶している。

『それはそうなのだがな、どうしてもこの性格だけは直らぬ。このままではいかんと思うのだが……』

『それで宜しいのですよ』

 シャーティア女史は笑みを浮かべて言った。

『そのままで宜しいのです。バファラム様はバファラム様以外の何者でもないのですから。ただ、ありのままの己を受け入れなさるが宜しいでしょう』

 その時バファラム翁は、何かから解放された気がしたという。今まで学問に傾倒し、真理たるものを得ようとしてきた。自ら高みに辿りつこうと歩んできた。ただひたすらに。

 その日々が、少し恥ずかしくなったという。

 取り繕うように、バファラム翁は言った。

『ああ……しかし、何かを決断するに及んでは、この性格が邪魔をするであろうな』

 聡明なるシャーティア女史は、やはり小さく笑って、こう返した。

『ですから――』


――ですから、私がお側にいるのです――


 シャーティア女史は惜しまれながらも、結婚後三年してお亡くなりになられた。

葬儀の折、バファラム翁は初めて泣いた。

 今までの妻の葬儀にも、忠義を尽くした国王の葬儀に臨んでも、敢えて涙を流すことはなかったのである。

 もちろん、これを以ってバファラム翁の非情を嘆くに当たらない。書に曰く、君子は顔に出ださず。それを実践してきたのだ。

 だが、この葬儀に及んで、バファラム翁は泣いた。涙は聖河に下り、嘆きは天に響き、見るものをして涙に飽かしめたという。

 それ以来、バファラム翁は、何があっても妻をとることはなかった。

 昔日の思いが、夕陽が沈むと同時に、次々と浮かび上がってくる。

「ああ、そうであった……そうであったな、シャーティア」

 ヴァルティナ山に日が没するのを見届けて、バファラム翁は踵を返した。

「お帰りになられますか、バファラム翁」

「ああ。サティナよ」

 迷いの無い声で、されど悲痛なる響きを含み、バファラム翁はサティナ公に託した。

「万に一つということもある。戦に備えよ」

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