第5話 池端
翌日、バファラム翁はカルガ池のほとりに水を求めてやってきた。そこに、一頭の虎が水を飲んでいた。
虎は特に師弟の礼を交わすこともなく、僅かに頭を下げただけで再び水を飲み続けた。
サティナ公の咳払いが響いた。
「アシュバル殿下、バファラム翁がお見えなのですよ。正しく礼を交わしたら如何です?」
子を叱る親の図といった、何とも可笑しい光景であった。もっともサティナ公はアシュバル王子の幼少時の教育係も兼ねておられたので、自然とそういう口調になってしまうのであろう。
「ああ、その、申し訳ございません。しかし、まあ、俺は正式に礼を取ってバファラム翁の門弟となったわけではありませんし……」
「慎みなさい! 今やバファラム翁は国家の師といっても過言ではありません。その方を前に会釈一つだけなどと……」
「アシュバル殿下、先日、兄君にお会いしましてな」
サティナ公の言葉を断ち切り、バファラム翁はアシュバル王子に話かける。何か言いたげなサティナ公であったが、そのまま黙ってしまった。
「はあ、そういえばここ最近は会っていませんでした」
「貴殿とカーザル殿下は、話題の渦中に居られるが、ご存知か?」
「まあ、一応は」
「如何思われる?」
「如何って、そりゃあ、早いとこ兄上に決めてくれれば騒ぎも収まるし、こっちとしても安心しますよ」
「それでよろしいのですかな?」
軽く即答すると思われたアシュバル殿下であったが、僅かに虚空を仰ぎ見てから、
「まあ、良いのではありませんか?」
と言い、こう続けた。
「ただ……」
自分は、その国には住みたくはない、と。
「兄上は確かに君子の器としては適切でしょう。その真摯なまでの学究の志、大したもんだ。だからこそ、アイツは知らないんだ。それができない者のことを。そして蔑む。学無きことを、努力無きことを、正たらんとせぬことを」
バファラム翁は驚いた。斯くも雄弁なるアシュバル王子は見たことがなかった。いや、正式に門弟として教えたことがないため(幼少時に、二、三度宮中で特別に講義をした程度のものだった)この青年のことをよく知らなかった。
「虎は、鳥にはなれない。それでいい。池中の虫も、地を踏む象も、空を翔る鳥も、それらがそれらであること、それでいいんだ。それなのに、アイツは翼を得て空を飛ぼうとしている。それを当然だとしている。自分が立っているのは、この大地だということも忘れてな」
バファラム翁は暫く話さなかった。いや、話せなかったのかもしれない。アシュバル王子の言は、バファラム翁をして驚嘆せしめるものであった。
しばしの間沈黙が続いた。
が、
「ええい、お黙りなさい! 要するに貴方は努力することが嫌いなだけでしょう!」
甲高い声を上げながら、サティナ公がアシュバル王子の頭の上を飛び回っていた。
「いや、先生、そうは言いますがね」
「まったく、これだから……そもそも兄君は幼少の折より……」
「アシュバル殿下」
またもや話の腰を折られて、苦い表情をするサティナ公の顔があった。
「では、貴方が王となられた暁には、何を望まれる?」
若虎は暫く考えた後、爛々と輝く瞳でこう語った。
「そうですなあ。まず後宮に美姫数千を囲って……いや、そりゃあ無理か。国中の虎を集めてもそんなにいない。それより一匹の美しい皇后を選ぶことが先決ですかな。『笑みを湛えたその口元、黒目がちなその瞳、化粧で引き立つその艶やかさ』ま、そんな感じの美姫を……」
「この無礼者が! せっかくバファラム翁がお尋ねになっているのに! 何という……」
「い、痛い、痛い。ただの戯言ですよ先生、って痛い」
サティナ公の嘴による猛攻の前に、アシュバル王子は、その場から鳥も斯くやとばかりの速さで逃げ出した。
バファラム翁は呆然と、その後ろ姿を見送っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます