Last:NOTE「紫陽花と、猫と、幽霊屋敷」

 水島みずしま様に依頼失敗を告げてから、ちょうど一週間後。

 梅雨に入り、榊原区の舗装が行き届いていない道には、野生の紫陽花あじさいが青色を咲かせます。

 午後から蒸し暑い雨が振り始めた今日は、木の葉にぽつぽつと透明な球ができては落ちていきます。その様子を横目に、私は先ほど雑貨店で購入した番傘ばんがさを差して、一人榊原区の屋敷の前に立っていました。

 どうやら、まだ屋敷の取り壊しはされていないようです。祟りを恐れているのでしょうか、「立ち入り禁止」の札だけが、大きな門扉もんぴに掲げられています。

 私は、つい数時間前のことを思い返しました。




「おねーちゃん」


 神奈川県縦横市じゅうおうしに広がる、青空の下。喫茶店“黒煉瓦くろれんが”の、入口のベルが鳴ります。空にかかる黒雲を眺めながら、アイスココアを飲んでいた私の耳に、聞きなれた声が届きました。

 灰色チェック模様のスラックスを履き、胸元を少し広めに開けたワイシャツの胸ポケットに黒の万年筆。女性としては珍しい洋装姿は、藍色の着物にハンドバックを合わせた私とは対照的です。

 私の実の妹、下羽しもはね小菊こぎくは、片側から胸に垂らした三つ編みを振り、駆けよってきました。


小菊こぎく、久しぶり」


 片手を上げて声をかけると、小菊こぎくは私が座る席まであと数歩と言うところで急に止まります。もじもじと手を揉みながら、伺うように上目遣いで覗き込みます。


 ああ、なるほど。


 合点がいった私は、無言で立ち上がります。両手を広げると、小菊こぎくは顔をパッと明るくさせて、勢いよく胸に飛び込んできました。

 私は、小菊こぎくの頭を抱きしめながら、心地好いさらさらした髪を撫でます。


「おねーちゃん、久しぶり。寂しかったよう」


「お姉ちゃんも寂しかったよ。今日は、時間を作ってくれてありがとう」


 小菊こぎくは、私の胸にうずめた顔を上げて、頭を横に振りました。合わせて、三つ編みがふりふりと動きます。


「ううん、全然。わざわざ神奈川まで来てくれたのに。アタシからしたら、おねーちゃんが元気な顔を見せてくれてありがとうだよ」


 歯を見せて笑う小菊こぎく。人を優しくさせる太陽のような笑顔は、子供の頃からまるで色褪いろあせる事がありません。

 私の、自慢の妹です。

 しばらく抱き合った後、対面の席に座りました。小菊こぎくはバッグから写真を取り出して、机に置きます。


「これ、比嘉ひが良子りょうこさんの遺書の全文だよ」


 小菊こぎくは、高等学校を卒業後、熊田出版社くまだしゅっぱんしゃという小さな会社で働いています。

 依頼を解決した後、比嘉ひが良子りょうこ様の自殺事件が報道発表されました。比嘉ひが様の遺書も公開すると聞いた私は、小菊こぎくに連絡を取り、遺書の全文を見せてもらうようお願いしたのです。

 無理は承知でしたが、記事にしないことを言い含めて依頼の話をすると、「そいつは気になるねー」と、二つ返事で了解をしてくれました。


「本当にありがとう。今の写真って、こんなに綺麗きれいに取れるのね」


「技術の進歩だよねえ。まあ、もちろんアタシの腕がいいのもあるけどね」


 二の腕をポンポンと叩く小菊こぎくを微笑ましく思いながら、私は写真に目を落とします。

 そこに認められていたのは、比嘉ひが様の独白のような内容でした。


“あなたの心を知りました。私にとって唯一のどころだったこの屋敷は、あなたにとってはどうでもいいものだったのですね。

 こんな屋敷、所詮は物です。屋敷が惜しいわけではありませんでした。ただ、あなたとの日々を感じられる場所が、ここしかなかっただけ。屋敷なんていらない。お金もいらない。あなたからの愛だけが欲しくて、ずっと待ち続けておりました。

 結局、私は都合のいい道具でした。やり直すには、もう年を取りすぎました。憎いのに、憎いのに、それでもあなたを憎み切れない。

 私にとっては、あなただけが唯一の人でした。あなたにとってもそうだと、私は信じておりました。けれど、“


「“唯一などなく、全てはまやかし”」


 それが、この手紙の最後を締めくくる言葉。


「憎いならば、離れればよかったのに」


 もちろん、世の中がそううまくいかないことなどは知っています。

 愛しているからこそ憎くなり、憎いからこそ離れられない。そのような気持ちがあることを、私はよく知っています。

 そのために苦しんでも、愛することをやめられない。人は、なんと不自由な生き物でしょうか。


 しかし、この手紙により、私が感じていた違和感が、確かなものとなりました。

 先生が感じた“屋敷を守りたい”という匂いは、比嘉ひが様のものではありません。

 比嘉ひが様が求めていたのは、屋敷ではなく、水島みずしま様です。それが手に入らないと感じて自死された比嘉ひが様が、「屋敷を守りたい」という≪真実の意志≫を持ったとは思えません。

 やはり、比嘉ひが様が残した匂いは、屋敷全体に蔓延まんえんする、苦い憎しみの臭いだったのです。

 ならば、先生が嗅いだ「屋敷を守りたい」という意志とは、一体誰のものだったのでしょうか。


「おねーちゃん、大丈夫?」


 小菊こぎくに声をかけられ、はっと顔を上げます。私は、取りつくろうようにココアを飲み干しました。


「大丈夫。小菊こぎく、今日はありがとう。私、もう行くから」


「えー、もう帰るの」


小菊こぎくは、仕事抜けてきてくれたんでしょ。また時間があるときに、ご飯ご馳走するよ」


「じゃなくて」


 小菊こぎくが、立ち上がる私のそでを掴みます。


「おうち、顔出さないの」


 小菊こぎくが、懇願こんがんするような眼差しで私を見つめてきました。

 私は思わず一瞬目を伏せますが、すぐに小菊こぎくの目を覗き込み、掴まれていない方の手で頭を撫でます。


「お父さんとお母さんが、私を心配しているのは知っているよ。

 でも、今顔を合わせたら、またケンカになっちゃうから。今の私のことを、二人にちゃんと話す自信がついてから、会いたいんだ。だからもうしばらく、二人のことは小菊こぎくに任せちゃダメかな」


 小菊こぎくは、不満そうな顔をします。しかしその内、諦めたようにそでを離しました。


「ちゃんと、帰ってきてね。おねーちゃんがいないと、寂しいよ」


「もちろん。いつまでもこのままでいいとは思ってないよ。時期が来たら、必ずちゃんと話をする」


「ほんとにほんとだよ。嘘ついたらだめだよ」


小菊こぎくに嘘をついたこと、ないでしょ」


 私は中腰になり、椅子に座っている小菊こぎくをギュッと抱きしめました。小菊こぎくは、安心したように息を吐きます。


「なんかおねーちゃん、素直になった」


「そう、かな」


「探偵さんのおかげなのかな。おねーちゃん、おうちにいるときより全然笑わなくなったのに、ずっと楽しそうだよ」


 私たちはお店を出た後、最後にもう一度抱きしめあい、手を振り合って別れました。

 そうして神奈川を後にした私は、その足で榊原区さかきばらく比嘉ひが様が亡くなられた屋敷の前に立っているのです。




 私は、水島みずしま様にお返し損ねた鍵を、門扉もんぴの鍵穴に差し込みます。びた金属音をたてながら、大きな扉が開きました。


「おそらくは、食堂か床下、天井裏ですかね」


 この屋敷を守りたいという意思を持つ者。それが比嘉ひが様ではないとすれば、私が持つ情報の中では、あと一つの可能性しか残りません。

 まずは、外を回って床下から、と思ったその時。


 にゃあ、と声が聞こえました。


 注意深く、耳をまします。また一声、にゃあ。私は導かれるように、雨に濡れる紫陽花あじさいの隙間を縫い、雪駄せったを濡らしながら歩きました

 寝室が所在する位置の、軒下を覗き見ます。そこには、薄汚れて濡れたモップの先のような、毛玉がおりました。

 よくよく見ると、毛玉は2つ。奥には、私の頭ほどもあるような大きなものが、ピクリともせず横たわっています。その前に立つ小さな毛玉は、突然の闖入者ちんにゅうしゃ威嚇いかくするように、金色の目を細め、全身を緊張させています。

 歯をむき出しにして立つ生まれたばかりの子ネコは、既に亡くなった母ネコを守っているかのようでした。


「あなたが、この屋敷を守ろうとしていたんですね」


 先生の鼻が嗅いだ、屋敷を守ろうとする意志。それは、この子のものだったのでしょう。

 餌場えさばがあり、雨風を凌げるこの屋敷は、この親子にとってかけがえのない家だったはずです。もしかしたら、比嘉ひが様も餌付けをしていたのかもしれません。

 比嘉ひが様が亡くなり、食べる物が無くなった後も、この子は家を守るため、何よりも母を守るために、懸命に戦っていたのでしょう。


「ごめんね。もっと早く気づくことができれば、お母さんも助けられたかもしれないのにね」


 私が母ネコに手を伸ばすと、子ネコは威嚇音いかくおんを出します。

 それでも構わず手を伸ばすと、びりびりと手をひっかかれました。一瞬手を引き戻しそうになりましたが、こらえてさらに手を伸ばします。

 恐らく、亡くなってから一週間は経過しているのであろう母ネコを掴み、胸に抱きとめます。

 その間も、子ネコは延々と私の脚をひっかいたり、噛んだりをやめませんでした。

 しかし、私が落ちていた園芸用スコップで土を掘りだすころにはそれもなくなり、結局母ネコを土の中に埋めるまで、子ネコは私のそばを着かず離れずうろついておりました。

 墓石代わりの石の前で手を合わせると、子ネコはその横でじっと石を眺めます。この子にも、分かることはあるのかもしれません。

 私は屋根の下で、すっかり濡れそぼった服や髪をハンカチで拭きながら、それが自然の成り行きであるかのように、子ネコに手を伸ばします。


「来る?」


 子ネコは一瞬戸惑うように、母の眠る墓と私の手を見比べました。

 じっと待っていると、何かを決意したかのようにてててっと駆けてきて、私の手をぺろぺろと舐めてきました。

 こうして私は、首に傘を挟み、子ネコを抱き上げて、屋敷の門扉もんぴを潜りました。


「お前の名前は、なんにしようかねえ」


 私が頭をなでながら聞くと、子ネコは口を開けました。


「……ゴァ」


 か細い、妙な声です。前足の脇を持ち、のどを覗き込むと、真っ赤に炎症を起こしていました。どうやら、何か良くない菌に感染したのでしょう。声がかすれて出ないようです。


 違和感。その正体に気づくと同時に、鳥肌が立ちました。


 私は、先ほどどうやってこの子を見つけたというのでしょうか。軒下のきしたから聞こえる「にゃあ」と言う声。それを頼りに、探し当てたはずです。

 母ネコは、亡くなってから1週間は経過しておりました。この子は、声が出ません。では、さっきの鳴き声は一体。


 にゃあ。


 背後から、声が聞こえました。振り返るも、そこには何もありません。


『この屋敷のどこかから、苦い臭いを貫いて、強烈な匂いがするのさ。この屋敷を守りたいという、真実の意志の匂いがね』


 私は、先生の言葉を思い出します。


『何しろ、死者の残した匂いを嗅げるくらいだからな。もちろん、死者の臭いは残り香だから、今その場にいる匂いの方が鮮烈に感じるけどね』


 先生の鼻は、死者の残り香を嗅ぐことができます。しかし、守りたいという意思を持ったものが“その場にいた”ならば、その匂いは死者の……比嘉ひが様の苦い臭いを貫いて、より鮮烈に放たれるでしょう。


『幽霊とはなんだ。視覚に感じ取れないものが“いる”とき、人は何を感じ、どのように認識するのか』


 視覚に感じ取れないものが、その場に“いる”ならば。


「……お母さん、ですものね」


 思い出すのは、両親のこと。

 探偵事務所で働くことを認めてもらえず、ケンカ別れ同然に家を飛び出した。そのとき、怒鳴るお父さんを押しのけ私を追いかけようとした、お母さんの必死の形相。

 結局追いつかれることなく汽車に乗り込みましたが、あの時お母さんは私に何をしたかったのでしょうか。

 怒られるか、叩かれるかだと思っていました。しかし、今思えばただ心配で、追いかけて来ただけなのかも知れません。

 子を思う母の気持ちは、死してなおそこに“ある”ほど、強いものなのですから。

 私は、屋敷に一礼をしました。


「この子はちゃんと、守ります」


 胸に抱いた子ネコは、もはや何もいないはずの屋敷を、まっすぐに見つめ続けていました。




 これにて、『幽霊屋敷』をめぐる事件は一応の終結を迎えました。

 私が連れ帰ったこの子ネコは、今後犬飼いぬかい探偵事務所のマスコットとして活躍をすることになるのですが、それはまた別の機会に語らせていただければと思います。

 余談ですが、この文を認めている現在、なおも榊原区さかきばらくのお屋敷は取り壊されておらず、水島みずしま様もご健勝と聞いております。

 水島みずしま様が問題の先送りを続ける限り、「幽霊の不在証明」と言う依頼は完遂かんすいできないままの様です。

 この通り、失敗だらけの犬飼いぬかい探偵事務所ですが、どうぞ気軽にご来訪ください。

 真実を知りたいと願う依頼者様には、必ずお力になれると思います。

 それでは、よしなに。

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犬飼探偵の芳しき失敗 無知園児 @mutiennji

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