7:NOTE「その探偵、激怒する」

「僕は、常々思うんだよ」


 私が水島みずしま様に頭を下げ、時間が止まってしまったかのような事務所の中で、先生はゆっくりと立ち上がりました。

 窓の外には、高架橋が勝鬨橋かちどきばしのように跳ね上がる光景が広がります。先生はそれを背にして、アルミサッシに寄りかかります。私と水島みずしま様は、そのお姿をただ目で追いました。


「依頼主とは、どうして自分のことを語りたがるのだろうね。ここは精神医療科でもなければ、懺悔堂ざんげどうでもない。真実を解き明かすための場だということを本当に理解している人が、どれほどいるのだろうか。

 その言葉に真実への足掛かりがあるならば、喜んで耳を傾けよう。しかし、その中に果たしてどれほどのミスリードが潜んでいるか。言葉を全て受け止めてしまえば、たちまち真実など霧中むちゅうに四散してしまうだろうさ」


 ああ、いつもの先生です。

 何を言っているのかわからない、とばかりにぽかんと口を開ける水島みずしま様。私の、ささくれだった心がしぼんでいくのを感じます。

 私は、誰にも見られないように背を向けて指で目じりを拭いました。


「つまるところ、先生は水島みずしま様のお話を」


「うん。まるっきり聞いていなかった。薄雪うすゆき君、要約してくれ」


 かくかくしかじかと、これまでの私の推理と、水島みずしま様が語られた話を要約します。

 水島みずしま様は、なんだか居心地が悪そうに、チラチラこちらを見てきます。私も、水島みずしま様と同じ立場だったら、この空気から逃れたくて帰ってしまうかもしれません。

 一通り聞き終えた先生は、立ち眩んだかのように頭を押さえて、よろよろとたたらをふみました。


「な、なんてどうでもいい話なんだ。結局、幽霊が存在するとかしないとかには、まるっきり寄与しない話じゃないか」


「どうでもいいお話、ですか」


 先生の身もふたもないお言葉に、思わずおうむ返しをします。先生は、舞台役者のように、両手を大げさに振り始めました。


「他人の色恋話ほどにどうでもいい話は、この世にはないよ。ああ、なんてことだ。いつもの浮気調査みたいなもんじゃないか。この世で最も下らない、この世で最もどうでもいい依頼を、意気揚々いきようようと引き受けてしまったというのか。

 大体、あんた」


 先生が、水島みずしま様に指を突きつけました。水島みずしま様は、突然の呼びかけにびくりと肩を震わせます。


「わ、わしか」


「あんた以外に誰がいる。

 全く持って、根性がなさすぎだろう。水島みずしまだかしましまだか知らんが、その御大層ごたいそうな名前にきずがつかないように、愛人のことは隠していたんだろうが。それがなんだ。図星を突かれたからって、ぺらぺら自分からしゃべり始めやがって。

 そもそも、薄雪うすゆき君の弁など、あんたからしたら証拠も何もない。根も葉もないただの妄想に、冷汗だらだら流して、こちらが得てない情報まで流すとは。

 情報は商売人の命だろう。情けないとは思わないのか。恥知らずのトーヘンボクめ」


 それは確かにその通りなのですが、それを先生が水島みずしま様に怒るのは、あまりにも理不尽と言うものでしょう。

 一通り言い切ると気が済んだのか、先生はなんでもなかったかのようにあごに手を当て、軽い声を出しました。


「いや、でもそうか。そういう話だと、僕が嗅いだ屋敷を守ろうとする意志は、その順子じゅんこさんとか言う女の人の臭いなのかね」


良子りょうこさんです、先生」


「すべての嫌な臭いを貫き通すような、圧倒的な意志だったよ。一念岩をも通すと言うし、餡子あんこさんにあれほどの意志があれば、屋敷の取り壊しを防ぐための偶然を起こすこともできるのかもしれない」


良子りょうこさんです、先生」


 水島みずしま様が、ぎょっと目を見開きました。


「き、貴様なんの話をしているんだ。良子りょうこの意志、だと」


「ああ、僕はそういうのが感じられるんだよ。人間の感情や心の動き、死者が残した思いもね。僕自身、なかなかにオカルティックな存在なのさ。

 もちろん、信じるも信じないもあんたの勝手だがね。しかし、そうか。あれが祟りってやつなのかな。だとしたら、いいものを見た」


「た、祟りなど」


 水島みずしま様が、先生に杖を突きつけました。


「滅多なことを言うな。ゆ、幽霊などこの世にはいない。祟りなどもっての外だ」


「あんたは、その“もっての外”が怖いから依頼したんだろ。ああ、そうだ。せっかく薄雪うすゆき君が、あんたが恨まれているということを証明してくれたんだ。優しい僕も、きちんと忠告してあげよう。

 気を付けた方がいいぞ。あの屋敷に絡みついていた意志は、真実の意志だ」


 それは、先生が匂いをほめる際の、最上級の言葉です。

 真実から生まれる意志は、何よりも強い。


「あれだけの意志があれば、屋敷を壊そうとすればもちろん、あんたが生きているだけで影響が現れるかもしれない。それこそ、直接あんたにいくつもの“偶然”が訪れるかもしれないぜ。せいぜい、り殺されないように注意しとくんだな」


「ば、ば、ばかな」


「もちろん、信じないなら信じる必要はないよ。どうせ、僕にはどうすることもできない。まあ、安心しろよ。あんたから言わせれば、所詮しょせん偶然、たかが意志だ。死者は、生者を侵せない。それが、正しい世の理、だったかな」


“死者は、生者を侵せまい。それが、正しい世の理だ”


 それは、水島みずしま様が初めて事務所を訪れた日に、放った言葉です。そう言えば、今回の依頼内容については、非常に珍しく先生が耳を傾けていたことを私は思い出しました。

 先生は、「しかし、」と仰いながら、ガスマスク越しにもわかるほど、不敵な笑みを浮かべました。


「真実は、正しきを挫く」


 水島みずしま様の顔が青ざめ、フルフルと小刻みに震えました。


「ふ、不愉快だ! 帰る!」


 先生はもたれかけていた窓から離れ、女性をエスコートする紳士のように、慇懃いんぎんに玄関扉を指示しました。


「どうぞどうぞ。お帰りはこちらだ。何か“偶然”が起こりましたら、また依頼してくれたまえ。まあ、僕にできる事なんて、幽霊の存在を証明することぐらいだろうけどね。いやあ、やっぱりこういう依頼は、恨まれている人から受けるに限るなあ」


 早足で事務所を出ていく水島みずしま様の背中が見えなくなるまで、先生は矢継ぎ早に追い打ちをかけ続けます。

 水島みずしま様の足音が聞こえなくなるころ、ついに先生はこらえきれず、大笑いを始めました。


「いやあ、いい気味だ。見たかよ、あの顔。爬虫類はちゅうるいみたいな顔が赤くなったり青くなったり、まるで避役カメレオンだ」


「……珍しいですね、先生。わざわざ脅かすなんて」


 私は、水島みずしま様が使ったグラスを台所に下げました。先生用のものと私用のもの、2つのグラスを新たに出し、テーブルに置きます。


「ただの脅しってわけじゃないよ。あの屋敷に真実の意志があったことも、多くの不自然な偶然があったことも事実だ。あの偶然を引き起こしたのが幽霊だとしたら、あいつを害すのが自然だよ」


「けれど、いつもならあそこまで、わざわざ不安をあおるようなことを言いませんよね」


 冷凍庫から作り置きのアイス珈琲を取り出し、二つのグラスに注ぎます。


「だってあいつ、この僕に真実をじ曲げろなんて言ったんだぜ。しかも、己の欲望のために。誰が許してたまるか。余計な話をして恐怖を与えられるなら、いくらでも語ってやるさ。あっはっはっは」


 私は、高笑いを上げる先生の対面に座り、アイス珈琲を持ちました。

 依頼終了後の乾杯は、犬飼いぬかい探偵事務所で一つの事件が終わったことを意味する、儀式のようなものです。

 私は、グラスを目の前に掲げて、先生がグラスを持つのを待ちます。


「何よりあいつは、薄雪うすゆき君を泣かした。万死に値する」


 先生が突然放った言葉に、私は手に持ったグラスを取りこぼしそうになります。私が感情的になってしまった事に、気づかれていたようです。


「ふざけた奴だったよ。塩でもまいておくか。いや、そうすると幽霊も成仏しちまうのか。ダメか」


 先生は、いつも通り大仰な動きをしながら、一人百面相ひゃくめんそうをします。本当に普通に、いつも通りに。

 先生は、どこまでも感情に素直で、やりたいことしかやらない方です。今回のことも、先生が不快だったから脅かしただけのことで、私のためと言う意識はないでしょう。

 しかし、先生にとってたいしたことが無いその行動が、私にとってどれほど大きなものか。私はいつも先生の優しさに助けられ、救われているのです。

 察しの悪い先生が、私への多大な影響に気づくことはないでしょうけれども。


「ありがとうございます、先生」


 掲げる二つのグラスが、事務所の窓から差す日に照らされて、木製テーブルにガラス影が写ります。そして、その影が静かに一つに重なり、チンと小気味良い音を立てました。




 さて、このお話には後日談があります。

 私は一週間後、再度屋敷を訪れました。

 最後に残った謎を、突き止めるために。

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