芙蓉の庭

望月結友

芙蓉の庭

 みどりいろをした二両編成の路面電車は、入りくんだまちなみに紛れていった。

 フェンスのむこうにみえる旧型の車両が展示されたひろばをよこめに、みじかいホームをぬけて改札すらない小さなえきをでる。神社がちかいからか、気のはやい蝉のこえがきこえた。えきまえのながめは、記憶のなかとまったくかわっていないようにおもえた。

 何年ぶりかをかんがえかけて、やめる。ここにきたのはただの思いつきだ。まっしろなあたまでいようと言いきかせる。中途半端な時間に客先での打ちあわせがおわったことと、そこからここがそう遠くなかったこと。ふたつの偶然がかさなりでもしなければ、このえきでおりることはなかったのだから。

 ふみきりをわたって数メートル、ひとつの曲がりかどで足をとめた。しらないうちに息をつめていたことにきづいて苦笑する。ちいさく肩をすくめてから角をまがった。

 吐息をもらす。安堵あんどとあきらめ、そしてわずかな心残りでいろづいたきもちとともに。そこにあったのは、まあたらしい集合住宅だった。

 つい、あの芙蓉ふようをさがしてしまう。よぞらのしたで、大輪のももいろを無数にたたえたすがたを思いうかべながら。その記憶の鮮明さにおどろきながら。


 一日の大半が、ただ生活のためだけについやされていることにきづいたのは、投げすてるように、あるいは弾きだされるように故郷をはなれ、漫然とあこがれていたこの都市で暮らしだして無我夢中のうちに時間がすぎ、数年がたったころだった。

 いまさら現実をしったところで、おれたつばさではふたたび風をとらえることも、あたらしいそらをみつけることもできず、つのる一方だったいらだちとあせりはある朝、唐突に限界に達した。どれだけちからをこめても足がまえにでず、電車にのることができなかったのだ。

 勤務先とは反対、生活からとおざかる方向にならいくことができた。曇りぞらの、はっきりしない天気だった。それがまた腹だたしくて、やみくもにあるいた。そしてみちにまよった、見事なまでに完全に。

 この都市有数の住宅地でありながら、かつてはみわたすかぎりの田園だったというまちなみは、タクシーの運転手すらいやがるほど、当時のあぜみちそのままに入りくんでおり、ゆきももどりもできずに歩きつかれて途方にくれていたとき、ひとつの立て看板をみつけた。いずみをみつけた旅人のようなきもちで、カラーチョークでえがかれたメニューと、そえられたイラストをながめた。

 一見普通の住宅のようなそのみせは、時代がかった洋風の建物で、おおきなデッキと、にわの中央で手のひらのような葉をひろげたこぶりな木が、ひときわ目をひいた。しろい漆喰しっくいのかべと、こい色あいの木の柱はどちらも、かさねたとしつきによって、やわらかな色彩をそえられていた。

 正面のまどから慎重にたしかめてから、おそるおそるとびらをひらいた。平日のひるまという時間帯のせいか、客は数名しかいない。雑貨屋をかねたカフェをおもわせるみせがまえで、カウンターといくつかのテーブル席のほかに、いたるところに飾りだながおかれているが、雑然とした印象はなく、不思議な調和をみせていた。

 店内をみまわしていた視線は、かべにかけられた一点の絵でとまった。あわい色あいで描きだされたそれが、せなかに羽をもつ妖精の絵だとわかって少女趣味だと結論づけかけたが、今まさに飛びたとうとする妖精がたたえた表情にきづいた瞬間、めが離せなくなった。

 かろやかで、希望にみちたひとみだった。絵のなかでふいてるであろうさわやかな風を、たしかに感じた。

 絵のそばの席にすわって、カフェラテを注文した。飲みおえるころには、こころのこわばりはすっかりとれていた。会計をするついでにみちをたずね、みせは路面電車の駅のそばにあるとわかったときには、こえをだしてわらうことさえできた。

 あの絵をみようと通ううちに、すこしずつみせのことがわかってきた。夫にさきだたれた裕福な老婦人が、なかば趣味で若手の作家たちに提供している場所だということや、ときおり顔をみせる老婦人はつねに笑みをたやさぬ可愛らしい人だということ、にわの中央にうえられているのは芙蓉で、あのおおきさのものはめずらしく、なつにつける花は大輪であさはしろく、よるになるにつれて桃色へといろづいていくということが。

 作家たちがすがたをみせると、店内には活気がみちた。その空気がここちよくて、さらにおとずれる回数がふえた。そして彼女と出会った。あの妖精の絵を描いた画家と。描きだす妖精そのままに、かろやかに生きる彼女と。はるかにたかい蒼穹そうきゅうを、かなたのとおい草原を、自由自在に飛びまわる彼女と。

 彼女があらわれるのはごくまれだったが、いつしかおとずれるたびに、あえることを期待するようになっていた。ああ、またおなじことを繰りかえしてしまう、そうおもった。けれども彼女のところまでとべたのかもしれない翼は、とうの昔におれてしまっていて、彼女をみあげるしかできない自分に、安心もしていた。

 ある日きづいた。作家たちの熱にあてられたのか、もう死んでしまったとおもっていた音楽が、むねのおくでふたたび息づいていることに。

 ただつばさをひろげるだけでも、ながく時間がかかった。古傷は引きつれ、にぶい痛みをうったえたが、ゆっくりと羽をうごかすうちに、すこしずつ気にならなくなった。無様にいずることしかできなくなっていた指たちに、時間をかけて羽ばたきかたを思いださせた。もう一度とびたい、つよくおもった。それが純粋に自分のためなのか、彼女のちかくにいきたいからなのか、ふたつのおもいは不可分なほどに混じりあっていた。

 数年ぶりにつくった曲の初演には、あのみせをえらんだ。老婦人がつかっていたという楽器は、持ちぬしとおなじようにやさしく、おだやかにむかえてくれた。ちいさなころのはじめての演奏会より、はるかに緊張した。二度ほどのミスタッチのほかに、彼女の姿もあった。無様な演奏をきかせたくなくて、彼女のこない日をえらんだにもかかわらず。

 聴いてくれた人たちは、あたたかな言葉をくれた。老婦人は、にこにことわらっていた。彼女は、めをほそめて微笑んでいた。みせにくる資格をあたえられたような気がした。客としてではなく、つどうものの一員として。

 レパートリーは、次第にふえていった。あの曲をききたい、と作家たちからたのまれることさえあった。あたらしくかいた曲を彼女にほめられたとき、ずっとかんがえていたことを実行にうつす勇気を奮いおこした。みせでコンサートをひらき、彼女にフライヤーを描いてもらう。それをきいた彼女は、笑顔でうなずいてくれた。クラウド・ナイン、そのことばがしめす天にものぼる気分を、はじめて体験した。

 それからは無我夢中だった。ゆるされた時間すべてを、音楽についやした。譜面にうもれ、鍵盤に突っぷしてねむった。ゆめのなかでまで音楽に追いたてられたのは、生まれてはじめてだった。いくどとなく心がおれかけ、そのたびに彼女が描いてくれたフライヤーをみて、ふるいたたせた。月日はとぶようにすぎた。

 コンサート当日のことは、よくおぼえていない。それほどひろくない店内に予想した以上の客がいたことと、本番直前にもどした胃液のにがさ、最初のおとをかなでる直前の、これ以上ないほどの鼓動のはげしさをのぞいて。

 きづいたときには、放心状態でデッキにこしかけていた。なつのよるだった。やみのなかでひらいた、芙蓉の花があざやかだった。素肌の手足に絡みつく湿気さえ、愛せるような気がした。

 だれかがとなりにすわる気配があった。彼女だった。ならんだまま言葉もなく、芙蓉をみつめた。みせからあかるい話しごえがもれてきた。

 ちょう、と彼女がいった。一頭のあげは蝶が芙蓉のちかくを舞っていた。そこでようやくきづいた、あさは白かった花がいろづいていることに。やわらかなももいろだった。それでこころはきまった。

 ことばは自然にうまれた、ただきもちをつたえた。彼女はまっすぐにこちらをみて、「ありがとう」と微笑んだ。そのえみはやはり、彼女の絵にそっくりだった。

 ほかにことばはなかった。それで十分だった。うれしくてつい、「ありがとうございます」といった。ももいろをたたえた芙蓉にはもう、鳳蝶のすがたはなかった。

 彼女にさよならをいって、花が咲きみだれたにわをあとにした。それ以来、みせをたずねることをやめた。


 もう一度、みじかく吐息をもらす。みせと同様に、あの木もまた、きられてしまったのだろう。まあたらしい集合住宅にせなかをむけて足を踏みだした。

 あゆみをとめないまま、すこしだけながく瞳をとじる。まぶた一枚分のやみのなかに、やわらかな桃色がうかんでいる。(了)

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