夏夜の果て 一

「お松はん、お客はんきよったで」

かすかに夏の気配を感じる晩春の午前。台所の掃除に精を出していたお松に、店番が声をかけた。

「お客はん……?」

この時間にお客が来るのは少し珍しい。お松は頭の中で今日の夜、どの部屋が空いているか考えた。

「はーい、ほな行きます」

お客に向かうのに失礼になると思い、着物の袖を上げるために背中に通していた襷を取って、そのまま玄関へ向かう。

暖簾をくぐってみると、玄関下には背丈のある武士らしい風体の男が立っていた。

お松の顔を見ると、男は少しだけはっと顔色を変えた。しかし、お松の変わらぬ態度に気付いてか、何もなかったかのように表情を取り繕った。

「忙しい時に申し訳ない。今晩の宿を探しておりまして」

見てくれから武士らしいが、その口調は慎ましやかで優しい。物腰柔らかな態度に、お松は少しだけ警戒心を解いた。

「あら、そうどすか。少し小さめのお部屋ですけれど、一室あいとります」

「そちらへ、今晩泊まっても?」

「ええ」

「ありがたい」

「いいえ」

男は人懐こい表情で笑って刀をおろし、玄関の床板に腰を下ろして草履を脱いだ。

「私、この店の女将をやっとります、松と言います。そちらはんのお名前は?」

「和田と申します」

「ほな和田はん、部屋へ案内します」

お松の言葉に、和田と名乗る男は小さく頷いて立ち上がった。お松は男の先を歩く。二階の部屋へ繋がる階段を登って行く。

「和田はんはどこからいらっしゃったんどすか?江戸の訛りやねえ」

「ええ。江戸の道場で剣術を少し習っておりました」

「へえ、人態を見てもお侍はんですもんなあ」

あまり見過ぎるのも良くないと思い控えてはいたが、つい男の言葉に乗せられて口走ってしまう。失礼だったかと様子を伺ったが、男は相変わらず柔らかな笑みでこちらを見つめていた。

(このお顔、私どこかで見たんやろか……)

どこか懐かしい感じがして、お松は記憶を探った。しかし見つからない。そうしている間に、今夜この男を泊める予定の部屋の前にたどり着いた。

お松は膝をついて正座し、ふすまを開いて中を見せる。

「このお部屋でよろしいやろか。手狭ですけど」

「滅相もない。結構です」

男はお松を見下ろして、満足げに笑った。その表情がやはりどこか懐かしくて、お松の鼓動を高く打ち鳴らす。

「……見ての通りなんもないとこやけど、ゆっくりしてって下さい。お茶持ってきます」

「ああ。ありがとう」

お松はそのまま礼をして下がった。そのまま階段を駆け下りる時、胸に手を当てていたのはお松本人しか知らない。

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