月下にて
夏の道場はこたえる。晩夏といえどもまだまだ容赦が無い。
空気が体温ほどに温まると、自分の意識が膨張していくようである。もう少し陽が落ちれば少しは過ごしやすくもなるが、昼間も暑かったことを思うと、それでも虫がなく時間になってようやく十分に息ができるような気温になるくらいなものだろう。
「形稽古はもう十分やった、打ち合いをやろう」
そう言って、土方歳三は額の汗をぬぐった。床板にも汗の跡が染みている。
木刀を脇に置いて、手ぬぐいで顔を拭っている沖田総司に声をかけた。
「土方さんは打ち合いがお好きですねえ」
「悪いか」
「悪かありません。でも、嫌だなあ」
試衛館道場には何人もの食客や弟子が出入りしている。この日も斎藤一や永倉新八など、血気盛んな若者たちが稽古に訪れていた。
「私でなくてほかの人とやってくださいよ」
「おい総司」
「私は斎藤さんとやろうかな、久しぶりに顔を見た気がしますから」
そう言うと沖田は、逃げるようにして土方に背を向けた。
しかし土方は気にするそぶりを見せず、近くで諸肌脱ぎとなって寝転がっていた永倉の横に立った。
「永倉君、やらないかね」
竹刀を見せる。
「おう、やろう」
一つ返事で快諾する永倉に土方はすっかり心を打たれた。
「いい奴だねえあんたは。お前さんくらいだよ、おれと気前よくやってくれるのは」
思わず嘆息した。永倉はそれに応えるようにして笑ってから、身体を起こした。
「いいが、少し待ってくれ。水を飲んでくるからよ」
そう言って立ち上がり、大股で外へ出て行った。土方は面をつけながら、背中を汗が流れていくのを感じている。
向かって右では、斎藤と沖田が地稽古を続けていた。沖田の高い掛け声に対して、鋭い声で牽制する斎藤。見つめていると自分の心にも興奮が滾ってくるようであった。
束の間見ていたが、土方はふと永倉が戻ってこないのに気づいて立ち上がる。
開け放たれた戸から顔を出してみると、井戸端で他の弟子と話し込んでいる永倉を見つけた。
「ああ、土方さん、もう少し待っててくれ」
こちらに気づいて永倉が手を挙げた。
日差しは大地を焼くように熱い。土方はそれに目を細めながら仕方がないと眉尻を下げ、腕を組んだまま頷いて少し笑ってやった。
「そりゃ本当か? 聞いたことがねえな」
大声で話す永倉の顔は表情をよく変えた。声は大きく太いのでよく聞こえてくる。
土方はこの男の豪胆で我武者羅な性格に惚れ抜いていた。声をかければ同じく試衛館の食客である藤堂平助と一緒になって先頭に立とうとしてくれるし、どんな流派の剣術でも嫌がらない。実に気持ちの良い男であった。
「土方さんよ」
ふと呼ばれて、土方は視線を永倉に戻す。
「悪いがこれから少し出かけることになった。戻ってきたら、あんたの気の済むまで付き合うからよ」
しかし、その性格ゆえにこういうことも多い。一杯食わされた気になったが、土方は二、三度頷きそのまま背中を向けて見送った。
室内に戻ってみると暗くて、少しの間、瞬きを繰り返す。
「歳、かわいそうに捨てられたか」
にこにことしながら歩み寄ってきたのは試衛館の道場主である近藤勇である。嫌味はない。だから土方は何も言わなかった。近藤は稽古場には来たもののやる気もないようで、稽古着ではなかった。
「まあ良いよ、総司に無理にでも付き合ってもらうとするさ」
その声が聞こえたのか、地稽古を終えた沖田が肩で息をしながらこちらを嫌そうに見ていた。わざと顰め面をして見せて首を振っている。
「ああ、それよりも。もしよかったら、少し散歩にでも出ないか」
「それが良い。近藤先生、土方さんをぜひ連れて行って差し上げてください」
横から沖田がからかう。
土方はその声を受けて、もう一度近藤の顔を見た。
「わかった」
困ったような表情の近藤をみて、話の内容におおよその察しがついてしまった。そうなると断るわけもいかず、土方は頷いた。こうなると話を聞いてやらねばならない気持ちになる。
土方はさっさと面を取ってしまって、目配せをした。面と胴を仕舞いにいくのを悟った近藤は深く頷いて、大股に道場を横切って行ってしまった。
町は照り返しの暑いのが嫌だと近藤が言うので、二人は川べりを歩くことにした。
まだ日没までには少し時間がある。
「良いものだな、歳」
川のせせらぎに心を洗われているのだろう。近藤は心の単純な男なのである。
近藤にそう言われて土方も川の流れを眺めやる。そのうちに土方の心もその音に従順になっていって、大きなため息を漏らしたくなった。
「ああ、良い」
二人はそのまま黙って歩いた。灯を持って来ていないから遅くなるつもりはないのだろう。だから躊躇う近藤の話を急かすつもりもない。自分の思うときに打ち明けてくれたら良いと思って、土方は腕を組んだままただ歩いた。首筋を汗が伝う。
「例の二人のことなのだが」
近藤はふいに語り出した。
「老先生も心を痛めておられる」
「次は何を?」
「他の弟子たちに古い自分の道具を売りつけるらしい。しかも恫喝に近いという」
近藤の言葉に、土方は渋面を作った。以前から弟子の中でも二人、厄介なのがいるのだ。前までは威張り散らしているくらいなものだったが、少し行動が目立ち始めた。
近藤、土方と沖田の間ではそれぞれに別名をつけて呼んでいた。一人は名前にちなんで関、もう一人はその特徴的な掛け声から応と呼ぶ。
「弟子の何人かが泣きついてきたよ」
「そうかい」
土方はむっつりと黙ったまま前を見つめている。それから近藤が何も言わないので、土方から問いかけた。
「どうするつもりだ」
「それをお前に」
「破門かね」
そういうと近藤はうつむいてしまった。相手はふたりとも昔から馴染みのある相手である。近藤はもともと二人から妬まれていたし、近藤も好いていないから自然と関わりは深くなかったが、それでも遠慮があるのだろう。
自然、土方や沖田も親しくはない。
関は近藤と同い年、応は齢こそ二つ下だが入門時期は近藤と近い。関と応は仲がよく、ともにそれなりの腕があるが、自分たちがいるおかげでこの道場の指導が行き届いているのだと勘違いしている節がある。前は他の道場で無礼を働き、次は出稽古と称して金を巻き上げるようなこともあった。懸念はあったのである。だが前の道場主であった近藤周斎も、近藤勇も、それを許してきた。こういう温情が近ごろの事件の種を芽吹かせたのだろう。
「あんたの肚はよくわかった。ならおれに任せてみろ」
「何をするんだ」
「追っ払ってやるんだよ。いられなくしてやるさ」
近藤は黙っている。承知したということだ。
「それは、どうやって」
「いいか、あんたは外の人間になにか聞かれても黙ってるんだ。知ってるとも、知らねえとも言っちゃいけねえ。時が来るまで、ずっと総司と一緒にいるんだ。いいな。全部終わったら話すよ」
土方は口角を上げた。自信のある時の顔つきである。
こういう顔を作れば、近藤は無条件に信頼してくれるのだった。
その日の夜。沖田は土方に言われたとおり、まずは永倉のいるであろう居室を訪ねようと縁側を歩いていた。
ふと道場の庭に物陰が横切るのを見る。身のこなしと足の速さからして土方である。
(土方さんはこういうことになると如才ないな。)
灯りも持たずに、大股で外へ出てゆこうとしている。
実はこの日の夕方、散歩から戻ったらしい土方に声をかけられて、沖田は自室へ招き入れていた。土方はその瞬間を誰にも見られたくないようで、用心しながら素早く部屋へ滑り込んでくる。
「総司、まずはお前にだけ打ち明けておきたいことがある」
沖田も土方も手ぬぐいで汗を拭いながら向き合った。
今晩も蒸し暑くなりそうである。近頃雨が降らない。
「そんなことだろうと思っていましたよ、散歩から帰った時から」
沖田は朗らかに笑ってから、声を潜めた。
「今度は何を企んでいらっしゃるんです」
面白がるような沖田の口調に、からかわれている気になって土方は少し眉上に力を入れた。
(人聞きの悪いことを言う。)
それを見て、沖田はわざとらしく口元を抑えてみせた。
「関と応のことは近藤さんから聞いてるな」
「ええ。私はやられていませんが、みんなかなりしつこくやられていたそうです」
そう言って売りつけられたものとやられた人の名前を挙げだした。沖田はこういうことをよく知っている。
「そんなに多いのか」
土方もそこまでだと思っていなかったらしい。呆れたような表情で床に視線を落とすと重そうに唇を開いた。
「おれが手を打つから、今晩はおれが戻るまで近藤さんの部屋にいろ。ついでに永倉君や原田なんかも連れて行け。飲み直すと言えば喜んでくるさ」
先ほど永倉は酒にやや酔って調子良く帰ってきた。それを見ていたのだろう。
「それから、この先しばらくはずっと近藤さんについて、あの人が誰にも何も言わないように見張っていてくれるか」
「しばらくって、いつまでですか」
「時がくりゃわかる」
こういうことはこれまでも何度かあった。
近藤のために、土方が陰から糸を引いて目障りな輩を舞台からおろしてしまうのだ。
だいたい試衛館の評判を落とすような噂があればたまに沖田を伴ってその火消しをしに行ったり、行き来する行商の口に乗せてみたりという程度のことであった。だから今回も、沖田はその程度のことであると思っていたのだ。
「私は構いませんが、あまり無茶なさらないように」
「頼む」
土方の瞳が、妙に明るく澄んでいた。
(何をするか知らないが、それで近藤先生の気苦労が減るならいいか。)
沖田はのんきにそう考えていた。月の明るい夜である。
その黒い背中を見送ってから、沖田は客間に声をかけた。
「永倉さん、少し近藤先生とみなで飲み直しませんか」
それから少しして、関の嫁であるお松という女が道場を訪ねてきた。
つい二日前、同じようにして応の姉も訪ねてきたのである。
二人とも、あの人が帰ってきませんと、各所に訴えているらしい。
近藤も沖田も、土方の言いつけを守ってなにも言わなかった。永倉は一緒に探しに出て行ったようで、その後他の者も後を追ったらしい。もうすぐ夜が来るから、道場にあった提灯はすべてなくなった。
近藤と沖田はそれを見送ってから一息入れたようだが、いよいよ沖田が不審に思うのも無理はない。
「土方さん」
土方が井戸端でぼんやり暗くなり始めた空を見上げていると、草履で砂を踏む音がした。沖田が笑顔でこちらへ向かってきている。
「なにかいい句ができましたか」
沖田はこんなときまで土方のひねる俳句をからかうつもりらしい。取り合うつもりもなく、土方は井戸から水を汲み上げた。
「何か用か」
「あの日、関と応をどうしたのかと思いましてね」
まっすぐに問うてくる沖田の瞳に、土方は瞼で答える。
「二人とも、もうここへは戻ってこないのでしょう」
「そうだ、そのためにやったんだから」
「何をしたんです」
土方に何かを言うつもりはない。それでも沖田は、じっと黙って答えを待っている。
沖田も、何か言うつもりもないらしい。
互いに黙ったまま蝉の鳴き声に埋もれて、じっとしていた。
「近藤先生が少し、気にしていました。もしかしたら歳はあの二人を、と」
「殺したかと?」
「ええ」
沖田の素直な言葉に、土方は大きな声で一笑した。
「生きてるさ、二人とも」
「ほんとうに?」
こいつは何か気づいているな、と土方は思った。しかし、打ち明ける訳にはいかない。あの日、月下での出来事だけは。
待ち合わせ場所として伝えてあったのは、試衛館から少し離れたところにある古い寺であった。選んだ理由は本堂の裏が切り立っていて、下に川が流れているからである。
高いところにあるこの寺へは、長い石段を登らねばならない。本堂の前は物がなくひらけているが、鬱蒼とした木々に囲まれている。その真ん中、中天に今宵の月が見えた。
土方は返り血を浴びた頬を擦って、じっと一点を見つめていた。すぐ後ろには褌一つになった関の死体が転がっている。
死体から刀と稽古着は剥いでおいた。応の愛刀の黒鞘が、血で月の光を跳ね返してめらりといやに光っている。
先に関を呼んだのは、頑固者だったからだ。
関を説得して遠くへやることが出来れば、応を殺すことはなかった。応は関の言いなりで、いつも関の機嫌を伺っていた。
土方は鞘にかけた手に力を込めた。草履が石段をこする音が近づいてきたのである。
(これはいかん。)
しかしすぐに手を離した。刀を抜く時に鞘を削りすぎて隙間が出来、それが手の震えを伝えて小さく鳴るのだ。刀は慣れていないとうまく抜くこともできない。田舎の道場の食客が、真剣の扱いに慣れているはずがなかった。
土方が関を絶命させることができたのは、関の身体に幾十もの傷が出来た頃であった。
石段を登ってきた応は、刀の柄に手をかけあたりを用心深く見回していた。裾のほつれた袴を履いている。それが見えるほどに、月の光は明るかった。
「おい土方、いるのか」
土方は息を詰めた。今の間合いで仕留める自信はない。もう少し本堂へ近づいてほしかった。もう下を流れる川のせせらぎは耳に入っていない。
応も警戒しているのか、刀の柄に手をかけたまま、なおも土方の名を呼んでいる。
「おい、いないのか。帰るぞ」
応がそう言った瞬間、土方の体は月光の下に踊り出ていた。
急な襲撃に肝を冷やした応も、すぐさま刀を抜こうとしたが、その手の甲は土方の柄に打たれている。
「土方か」
甲を打たれた痛みに顔を歪ませながら、間近に迫った土方の顔を睨んでくる。しかし土方にも、それに答える余裕などない。同じくうまく刀が抜けずに、喧嘩好きの勘で先手を打ったが、間合いが近すぎる。
「俺を殺すつもりか」
応の言葉が終わるかと言ったところで土方は砂を蹴り、そのまま柄頭を鳩尾に押し込んだ。それから大きく引いて刀を抜く。土方の紅い下げ緒が揺れた。
「死んでもらわにゃ困る」
自分に言い聞かせるように口の中でつぶやいてから、応に斬りかかった。あとは我武者羅に、ただ斬った。関のときよりもうまくいくかと思ったが、そうでもなかった。二人斬っただけだが切り口が多いせいか、刀に脂がまいたのだろう。途中からは斬るというより打つのに近く、応がいつ絶命したのかもわからない。
気がついたら石畳の上にできた血だまりに、応の体が沈んでいた。―――
「……ああ、生きてる」
土方はそれだけ言って手で水をすくい顔にぶつけた。あの日の出来事が、頭のなかで繰り返される。
「そうですか、その言葉が聞けたら安心してもいいかな」
顔をこすってから振り返って見てみると、沖田の口元に笑みが宿った。しかしまだどこか心の中で、土方のことを疑っているのもみえる。
「近藤さんにも、そう言ってやってくれ」
「今、永倉さんたちが探しに出ていますが」
「そのうち飽きるさ。放っておけ」
土方はもう一度顔を洗った。しかし、沖田がこの場を去る気配はない。
「どうした」
土方は手ぬぐいで顔を拭いながら笑った。あの日のことを詳しく聞き出そうとして、もじもじとしている沖田の様子がおかしい。
「ねえ土方さん」
「なんだ」
「次に何かするときは、私も連れて行ってください」
「いかん」
「何故です」
口を尖らせる沖田の問いを口元だけの笑いで殺し、土方はうんと背伸びをした。
晩夏の夕暮れ独特の気温と、湿った土や草の匂い、そして薄暗闇が二人にまとわりついている。
「総司、やるか」
そう言って、持っていた竹刀を上げる。
「嫌ですよ」
「たまには付き合え」
「こういう時に言われると無碍にできない」
渋々といった様子で道場へと歩き出す沖田の背中に、土方は曖昧な笑みを浮かべていた。
終り
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