雨のほころび
「今日が昨日であればよかったな」
突然となりでつぶやいた沖田に、土方は眉をひそめた。
「何を言ってやがる」
「分かっちゃいるんですが、どうも気が進まなくて」
「よせ、あまり言うもんじゃない」
土方は声を潜めて、沖田を肘でつついた。両手を袂におさめてはいるが、周囲に気を張っているのは顔を見ればわかる。
雨がよく降って、地面が泥水のようになっている。土方は袴の股立ちをとった格好で、静かに角屋を見上げていた。
「来るぞ」
角屋の二階肘掛け窓の障子がわずかに開いて、近藤の瞳が覗いた。合図である。
「向こうに着いたら、まずおれが様子見に行く。それから手引きするから、その間は雨の中悪いんだが少し待っててくれ。いいな」
沖田、山南、井上の三名は静かに頷いた。
それから少し後駕籠がきて、それに乗っていつものように芹沢らは屋敷へと戻って行った。
「ねえ土方さん」
「なんだ」
これからのことを思うと四人は気が張っているはずなのに、沖田はのんびりとしていた。土方は少し気が立っている。尖った口調で答えた。
「芹沢さんはお強いでしょう。いくら泥酔しているとはいえ、そう簡単にやられますか」
「やられてくれにゃ困る。簡単でなくてもやるしかねえさ」
武士の気概に溢れた男たちの神経は図太い。これから人の首を落とそうとしているのに、そうは見せないところがある。四人はどう見ても島原帰りの男衆であった。
土方は、音を立てないようにして玄関へ登った。しかし雨がひどいので泥水が着物から滴る。
(こりゃいかん。)
土方は股立ちを解いて、袴を絞り上げ井戸に寄り、足の裏と下駄を井戸水で洗った。泥が跳ねぬように慎重に戻って、もう一度玄関へ身体を滑り込ませた。
家中は静まり返っている。それもそうだろう、あれだけ酔いつぶれていたのだから、この時間に起きているはずがなかった。
土方は床のきしみにも気を配りながら、そっと芹沢の部屋に近づいてゆく。
月夜でない日を選んでよかった。何度目かの検分の時気づいたことだが、この部屋はこの刻限になると、月が前を通る人の影を障子に映す。大雨のこの日、土方の姿を映す灯りはない。そっとふすまに指が一本入るほどの隙間をあけると、素早く顔を寄せた。
(こちらに平山、ではあの衝立の向こうに芹沢か?)
土方は素早く廊下の角を折れて、次は隣の一辺から室内を覗いた。やはりこちらに芹沢が眠っている。隣には、お梅らしい布団の膨らみもある。やはりお梅か、と背伸びをして布団の頭の方を見ると、お梅の白い肩が見えて、土方は一瞬息を詰まらせた。
(何故今日来た。)
運の悪い女だ、とは到底思えなかった。
土方は頭の中で自然とお梅、それと平山の女を逃す手はずを考えた。しかし位置はどうしても、芹沢よりも出口からは遠い。土方はその光景を目に焼き付けると、そのまま襖を閉じた。
「平間は他の部屋、平山と芹沢は同じ部屋に衝立で寝てやがる。手早く片付けたいから、二手に分かれよう」
八木邸の前、家々の間で四人額をすり合わせるようにして、土方の話を聞いている。
「私は芹沢さんですか」
「そうだ」
「なら、私と井上さんで平山を」
芹沢であると聞いて満足げにしている沖田を横目に、声をあげたのは山南である。井上と頷き合って、配役が決まった。
「それと、それぞれ隣に女がいる」
「見られちゃまずいから、先にやりましょうか」
重々しい口で告げた土方に、沖田はあっけらかんと言った。
「さすがに殺すのは。引き取り手もなく困りますよ」
山南が言葉を添える。さすがに学のある者らしい先読みである。
「私も可哀想だと思うがね。だが見られちゃ具合も良くないし、困ったものだ」
三人の言葉を聞き終えてもなお土方は黙っていたが、井上の歳三、と呼ぶ声にやっと顔を上げた。
「女は手向いすればやむを得ん、斬っていい。後のことは、近藤さんにも相談する」
この言葉をどう解釈したのか、三人は頷いて八木邸のほうに身体を向けた。
「総司、山南君は西から回ってくれ。おれと源さんで東回り。のち全員で芹沢平山の寝室前に集まる。怪しい奴がいたら、すぐに知らせてくれ」
三人各々頷いて、手ぬぐいを顔に巻いた。身内には分かるだろうが、その風貌は一見すると狼藉者のようである。
土方も顔を手ぬぐいで覆ってから、足音を立てないように闇に紛れた。
土方は、井上と視線だけで息を合わせて裏庭に回った。厠へ行く廊下が近い。
ふと、土方は物音に気付いて、後ろにいる井上を手で押しとどめた。
「待て、誰かいる」
夜着姿の女が厠へ向かっている。おそらく出てきた部屋の様子から、平山の女だろう。
「源さん、あの女が厠から出てくる前に終わらせてくれよ」
「わかったよ」
井上は女に同情派であったから、たやすく頷いた。そうは言ったものの、二人とも女の厠がどのくらいかかるのか、とんと見当もつかないのである。そういうわけで、とにかく急いだ方がいいらしいということしか、二人の頭には残らなかった。
そのまま裏庭から駆けて、芹沢の寝室前に集まる。すでに山南と沖田は到着していた。
土方は目配せして沖田をこちらへ呼び、井上を山南の隣へ行かせる。
雨がひどい。土砂降りで、音というのは全てこの雨にかき消された。
前にいる沖田と山南は目を見てうなずき合い、そっと襖を開いた。
「あッ」
沖田はそう言うが早いか、素早く襖を開いて飛び込んでいった。慌てて山南、井上も襖を蹴破って部屋へなだれ込む。土方はふと、視界の右端に動くものを見た気がして首を回した。
先ほどの女が、怯えた様子で立ち尽くしこちらを見ている。何かに気づいて戻ってきたのだろう。
「もうここへは戻るな、行けッ」
土方はそう怒鳴ると、女が行ったかどうかすら見送る前に、室内に踏み込んだ。
土方が部屋に入ると、芹沢はすでに刀置きから刀を取って立ち上がろうとするところだった。そこを沖田の太刀が袈裟に斬る。しかし仕留め損ねたか、芹沢は躓くようにして出口を探している。
土方も飛ぶように進み出て、その白くでっぷりとした身体に太刀を入れた。しかし、これでも息絶えずに、あとは沖田と一緒になって夢中で斬った。何度か剣先が柱や梁にひっかかった。隣の部屋になだれ込むと、八木親子が怯えるようにしていたために土方は舌打ちをしたが、止めるわけにもいかなかった。布団に転んだ芹沢を、もう一度斬った。それでも芹沢は逃げようとしたが、部屋にあった文机に躓いて大きく転倒したところに、沖田と息を合わせるような格好で刀を振り下ろした。
目の前で、芹沢が人から物へ還っていく。
すでに落ち着いた様子で血振りして、刀を懐紙で拭っている沖田に目配せをした。撤退させるつもりである。
その途中、お梅とみられるふくらみに抵抗の後が見られないことに気づいて顔を覗くと、無残にも首が取れそうなほど深く斬られてしまっていた。
(総司の仕業か?)
衝立の向こうで肩を上下させる井上、山南。こちらが衝立より手前にくるとは考えにくい。二人と視線のやり取りを交わしてから、土方は沖田を振り返った。その顔の手ぬぐいは血に汚れていたが、瞳はいつものように澄んでいる。人を斬った後だと言われなければわからないほどだ。
声は出せないから、土方は袂を翻してもう一度沖田へすぐに逃げろと示した。
四人は、闇の中をかけてそれぞれの部屋に戻った。
土方はそれからすぐに着替えて、騒ぎに気づいた近隣者の整備でもしようと外へ出た。
雨の中を近藤がゆく。
「芹沢さんがやられたらしい」
近藤は引き連れの隊士の手前、そういって土方を連れた。
土方は何も言わずにあとをついていく。
そのうち八木家の妻が、外で子どもの手を引き怯えているのを見た。
「怪しい者を見ませんでしたか」
声をかけると、ひどく狼狽した様子で小さく「いいえ」とだけ答えた。土方は内心の安堵を表に出さぬよう、むっつりとしたままそうですか、とだけ言った。それからあたりを見渡してみる。
まだ沖田、井上、山南は来ていない。隊士も十分に揃ってはいないから、いくらでもごまかせるだろう。
あちらでは、近藤が死体を運ぶ手配をしている。隊士たちは、それが芹沢であると分かると、もう一度ざわめいた。
それを近藤が上から叱りつける。しかし死体となった芹沢の手前、厳しくいうことも出来ないのか、いつもほどの覇気はなかった。
「八木さん、少しここで待っていて下さい。近藤から事情を説明します」
土方は近藤に寄っていって「あんたはあっちを頼む」と肩口を引いた。近藤はすんなりと退いて、八木の家の人たちに声をかけに行った。
室内を見渡せば、いたるところに血が飛んでいる。
土方は近くにいた隊士を呼んで灯りをもたせ、部屋の中を細かく検分した。あちらこちらの柱に傷をつけている。暗闇の中、夢中で剣を振るったときに自分と沖田がつけたものだろう。
「土方君。惨憺たるありさまですね」
「山南君か?」
山南が灯りを上げる。自分の顔元を照らして、悲しげなそぶりを見せた。
「これはひどい」
血の跡や刀傷をみて、山南が声を上げる。土方は自分に芝居の才能はないと分かっているから、多くを言わなかった。
その点、山南は器用である。土方までも、さっきまで一緒に下手人をやったのが山南ではないのではないかと思うほどの素振りなのだ。
「山南君、近藤さんのところへ行って、手伝ってやってくれねえか」
「わかりました」
あくまでも悲壮な表情で、数人の隊士に土方の手伝いをするようにと声をかけてから去っていった。
(器用な男だ)
土方が内心舌を巻いていると、沖田がやってきた。
「土方さん」
「おう」
沖田もこの時ばかりは、あまり物を言わなかった。黙々と自分の斬ったのであろう柱などを見つめている。
「下手人も、相当へたくそだったらしい」
土方がそう言うと、沖田も少し考えこんだ様子でそうですね、と呟いた。
「芹沢さんの死体、見たか?」
「いいえ」
「見た方がいい」
理由もつけずに小声でそれだけ言ったが、素直な沖田はそのまま近くの隊士に声をかけて芹沢の死体を見に行ったようだ。
土方は先刻のことを思い出している。
確かに何度も柱に刀が引っかかった。大きく振りかぶれない分、力が入れづらいのかもしれない。それで何度も斬り込まねば死ななかったのだ。
一つひとつ記憶を手繰りながら、頭の中で動かしていく。突く技の方がいいから、沖田はこういう部屋の中での暗殺には向くだろう。
(こういうことに慣れるってのが、まずは肝要と見える。)
一人で黙々と考えていると、ついていた隊士の灯りが動いた。ちょうど見ていた切り傷から灯りがはずれたので、おい、と言いかけて見上げたらその意味が分かった。
「歳、ちょっといいかね」
真剣な表情の近藤がこちらを見つめている。
「ああ」
「どうも、長州の奴らが下手人とみえる。昨晩、二三人の男が近隣を歩いているのを見たという住民もある。明日、葬儀を行うから、お前は隊士たちを頼むぞ」
近藤は見事な芝居を打った。隊士たちが聞いているのを分かっていて、土方をそう激励したのである。
土方はその意をくんで、近藤が去るのと同時に大きな声で、辺りにいた隊士に号令を出した。
「おいお前ら。明日芹沢さんの葬儀を行う。その準備に取り掛かれ」
土方のその号令に、隊士たちは声をあげて動き始めた。
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