幕末末梢録

寿美琴(ことぶき みこと)

雪笠

「あっ、土方さん。見て、月が見える」

笠をあげて沖田が空を仰いだ。多摩まで行く日は、まだ夜も明けきらぬうちに道場を出る。

土方のやることに対して口出しをしない近藤も、今回ばかりは何か言いたげにしていた。

土方がこれから何をしにいくか、その勘で悟っていたのである。

雪が降るのに月が見えるのが、沖田には面白かったようだ。しかし土方は違う。

「冬は月も朝寝するらしい」

そうはいうもののまだ朝というには随分早い。

「土方さんは月が好きですよね」

「なにを根拠に言いやがる」

そう言って土方は笠の鍔を下げた。土方は地面の雪を強く踏み固めるように歩く。沖田は音を立てるのが忍びないという足取りで、ゆっくり大股に歩く。

「近藤先生、今朝は顔色がよかありませんでしたね」

「昨日も遅くまで起きてたんだ、そのせいだろう」

「誰のためです」

沖田は黙ってしまった土方を見てくすりと笑った。勿論沖田の言いたいことは、土方も十分わかっている。

しんしんと降り積もる雪が、笠に乗っては水っぽくなって、そのまま落ちては着物を濡らした。しかし二人とも、番傘を持っていない。近藤にしきりと勧められたが土方が辞した。沖田には土方の考えることが手に取るようにわかむた。この道中を警戒しているのである。

「耳の感覚がなくて困る」

さして困った風に言わないのが沖田にはおかしかったらしい。手甲に包まれた手の先で自分の耳を触る土方を、沖田が真似しながら笑う。それを気持ち悪く思って、土方はふんと鼻を鳴らして前を見据えた。


沖田が十になる頃にはもう、土方や近藤とは起居を共にしていた。そのせいか他人の目に映る土方がどれほど陰険で冷酷であっても、沖田にそう感ずる目が育っていなかったらしい。

土方は沖田を横目で盗み見た。肉親よりも近いかもしれない。

だからいつか読んだ保元物語や雨月物語にはもはや文句を言う気にもなれなかった。血を分けた兄弟でさえ殺しあうというのに、こうも互いに裏切らないとわかりきった関係は、なんと言えばいいのだろう。


無論、沖田にそんな議論を吹っかけたところで首をかしげるだけである。

土方は自分の中にむくりと起き上がった多弁の兆しを手折った。


月は出ているのに、雪の止む気配はない。

しばらく互いに黙って歩いた。人家にはまだ火もついておらず、月光とそれを跳ね返す白を頼りにした。

「寒いなぁ。早く陽がのぼらないかな」

土方は黙り込んだままむっつりと前を見据えて歩いている。雪を踏みしめる足先の感覚はもうない。

「近藤さ先生があんなに行かせたがらないなんて、私たちはこれから何をしにいくんでしょうね」

沖田はそういうが、別に近藤は二人を引き留めたわけではなかった。

ただ一度でも火がついてしまうと冬の山を焼く火事のように燃え猛り、消えたように見えてもずっと赤い火を灰の下に抱えるような土方が心配だったのだろう。

「喧嘩さ。それしかねえよ」

多摩へ薬を売りに行った際、そこで土方は厄介ごとに巻き込まれた。

以前試衛館に道場破りにきて負かされた男との邂逅である。しかもその男、都合の悪いことに自分の相手をしているのが代理であるとわかっていた。顔を覚えられていた土方は、文句を言われても最初こそのらりくらりとかわしていたが、そうは言っていられない事情ができた。

男が辺り一帯に天然理心流の評判について言いふらしたのである。その噂が近所まで聞こえてきて、土方は意を決した。

「人を斬ることになるんですか」

「なったとてやむを得ん。向こうもその気でいるさ」

「こわいなあ、私はまだ人を斬ったことがないから」

「思ったより簡単に死ぬものだぜ」

土方はそううそぶいた。本当は最初に人間を斬った夜、――無論そのまさにという瞬間は感情など空っぽだった――手が震えて筆が持てなかった。女へ恋文を返そうにもできなかったのだ。

それでも、いまはもう腹を決めている。

もうああはなるまい。なったとて、この隣の男の手本にならなくてはという彼独特の責任感のせいで、それを微塵とも見せることを許さなかった。

「初めて人を斬ったときのこと、聞かせてください」

土方は何も答えずに空を見上げた。本当のところ、逃げる背中を何度もなんども追っては斬った。上手く斬ることができず、一太刀で絶命させてやれなかったから、相手もよほど苦しんだだろう。

それを思うと、この男でも持ち合わせるはずのない武士の情けというものがひりりと鳴った。


「あっという間だよ。やる瞬間のことは何も覚えちゃいない。ただ、終わったあと着物がひどく血で汚れている。それだけさ」

「血で汚れるのはよかないですね」

沖田は困った様子で想像をかき消した。まだ血のぬめりや生温かさをこの青年は知らない。

肉に刺した刃を抜く独特の抵抗も、血に光る剣の色も。

「……悪かったな」

「何がです?」

「……こんなことに、連れ出しちまって」

土方はそう言いながら自分の吐息を見つめた。沖田は何も言わずに笑んだまま首を傾げている。

「いや、気にしてないならいいんだ」

「私は出掛け稽古だと思っていますから」

その道中については、何も考えないことにしている、とその口ぶりが語っていた。

「それよりも土方さん、笠にどっさり雪がのっていますよ、だから耳が冷たいんだ」

沖田の目はいつもよく澄んでいる。いつでもそうだ。汚れも罪も背負えない。自分の胸の内を他人に明かすことは滅多になく、ただいつも誰より無垢な瞳で心を覗く。

土方は言われた通り笠の雪を払った。笠の鍔から解けた水が滴って、耳を冷やしているのは確からしい。

何気なく笠を戻すと、そのとたんにぽっと句が浮かんだ。


白雪や 見える玉の緒 煤帯びて 水にさらして 天に干さなむ


沖田の純真を雪白に喩えてこんな下手な歌を詠んだ。お前のその目にこの心臓が汚れて見えるのならば、空に干してくれないかと問うているのだ。

「雪で洗ったからといって白くなるわけではありませんよ」

何を勘違いしたのか、沖田はそう言いだした。吟じたそばから揶揄うのは常だったけれども、それでもこの男の前で詠んだり、句帳を見せたりするのはその感性に鳴るものがあると思うからだろう。

「ねえ、土方さん。その下げ緒、近藤先生から貰ったものじゃないですか」

「今更か」

「やだな、暗くて見えなかったんです」

「貰ったんじゃない、貸してくれたんだ」

「そうでしたね」

沖田は気を悪くした風でもない。右の腰にじゃれつく。土方は眉を寄せたが何も言わず見せてやった。


「ああ、土方さんには少し余るかと思ったのに、そうでもないのか」


どう捉えて良いのかわからぬ沖田の言葉に、ただ土方は黙っていた。

「京に上る話、お前はどう思う」

検分するかのように下げ緒を見つめる沖田に、土方は聞いた。

「いきなりだなあ」

沖田はそういって笑ったが、土方は笑わない。沖田はようやく土方の下げ緒を解放した。

「私には、さっぱり。そういうのを考えるのは、土方さんの領分でしょう」

「お前は、おれたちが行くと言ったら行くのか」

「それ以外が、ありますか」

夢から覚めたようなはっきりした眼差しの沖田に、土方は虚を突かれた。いつもゆりかごに揺られている赤子のように安らかで、罪を背負えない性分のこの男の顔に、こんなはっきりとした決意が見えたことがかつてあっただろうか。

「そうか」

「私は、土方さんと近藤さんの行く末なら、冥土にもお付き合いしますとも」

土方は己が左手を強く握った。

「……住む場所がなくなるからかね」

「ひねくれ者だなあ」

またそういって笑う。土方の考えは脳の断片を切ったようにわかっている。信じたくても手放しで信じることはできない。他分子を取り除いて純粋になったものしか信じられないたちなのだ。

「土方さんがそう思いたいんなら、それでいいです」

そろそろ陽が昇ろうとしている。空が白み始め、紅藤色の雲がたなびく。いつの間にか雪はやんでいた。もう降らないのだろう。

「やっと夜明けか」

「ええ、少しは暖かくなるといいな」

そう呟く声が、雪原にぽとりと落ちて消えた。

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