夏の月

「起きていていいのか」

「嫌だな、そんな病人みたいに。大したことはありませんよ」

襖が開いて声がかかったのにすぐに応えることができたのは、隣から近藤と土方が話しているのがよく聞こえていたからだ。

土方は後ろを振り返り、目配せで近藤を呼んだ。土方の背中から近藤が顔を出す。

「おお、随分顔色もよくなったな」

「近藤さんはいつも大袈裟です」

土方も近藤も、沖田の寝床の隣に腰を下ろした。それがいよいよ病人を囲むようで、沖田は居心地悪そうに布団を脱いで、脇へかためた。

「井上さんは?」

「総司と同室だと気を使うだろうから、違う隊士のとこへ行ってもらったよ」

近藤が怏々と答える。土方はその隣で、死体でも検分するかのように執拗なほどの眼差しで沖田の様子を見ていた。容態を疑われているのだろう。

「あれから何日過ぎましたか。私は何日寝ていました」

「たった昨日のことだよ。普通の隊士が寝て起きてするのと同じくらいだ。時間が狂っちまってるだけでな」

土方は腕を組みながら言った。蝉の声が少なくなっていて、夏の夜の匂いがした。暗いから朝方か夜か迷ったが、今は夜の方らしい。近藤は何かを言おうとしているのか、黙って目を閉じ、土方の言葉に頷いている。

池田屋事件、のちにそう呼ばれる池田屋討ち入りは、昨日の日付で歴史に刻まれた。闇討ちを避けて朝帰ってきたから、時間が狂ったらしい。

「昨夜のことを詳しく聞かせてくれ」

土方が、声音を落として沖田に言う。

「ああいや、そう急ぐこともなかろう。まだ総司は起きたばかりだし、せめて支度をさせてやらんか」

「あんたはいつも悠長すぎる。昨日の討ち入りでわかった内容があれでなきゃそれでいいが、今は状況が違う」

土方はため息をつくように言った。それから着物の袂を探り、一枚の紙を取り出す。

「監察方に調べさせた。お前が見た奴だけで構わん」

そこには昨日池田屋にいたらしい人物の名前と、人相が書き連ねてあった。

「土方さん、いらっしゃいませんか。尾形です」

土方が言葉を続けようとして息を継いだ瞬間、鋭い尾形の声が少し遠くから響いた。恐らく隣の土方の部屋の襖に問いかけているのだろう。

土方は立ち上がり、襖を開けた。

「すまない、こっちだ。どうした」

「昨日言っていた、吉田の件で」

尾形は身を翻して土方の前まで来た。土方は二人に遠慮したのだろう、尾形を連れて部屋を出ていった。何も話さないわけにもいかなくて、沖田は近藤に問いかける。

「一番隊の隊士たちはどうしてますか」

「ああ、永倉君が見ることになっている。そんなことより、腹は減ってないかね。茶菓子でも持ってこさせようか」

近藤は、言い終えるより先に立ち上がっていた。袴の尻に皺が付いているところを見ると、土方の部屋で夜中話をしていたものと見える。妾の元へ帰らなかったのは、自分を心配したのだろう。沖田に妙なおかしみがこみ上げた。茶菓子で腹は膨れませんよ、と言おうとしてやめた。

「ありがとうございます」

近藤を見送ると、総司は立ち上がって土方の部屋へ繋がる襖を開けた。まだ人のいた気配がある。座布団が二枚、近いところに置いてあり、今まで始終二人が何かを話していた形跡を残していた。

それから部屋へ戻り居住いを元の通りに戻して昨晩のことを回顧する。


――階下を近藤に任され、残りは皆二階へ上がった。近藤に続き永倉が二階へ、藤堂も行ったと思ったが、事実は額を斬られ倒れていたという。

沖田は土間から進み、向かってくる敵を平晴眼で待ち受け、廊下では剣で敵を突いた。高さの決まった家屋の中では、剣の先は自由を失う。沖田は室内の敵を斃した後、裏庭へと逃げる影を見つけた。逃げるのは隊服を着ていないから仲間ではないと勘づき、広間らしいのを横切って縁側に出、そこで敵を見た。

(まだいたか。)

それを追おうと蹴り出した瞬間、暗がりで足元が見えず、沖田は転がしてある何かに足を取られた。水がはねたと思ったが、においで血だと知ったので、転んだのは死体のせいだろう。転んだ瞬間、むやみに咳が出て地面に手をついたまま咳き込んだ。

何回かむせこむうちに、腸が出てくるかというほどの異様な不快感が気道を通った。左手にぬめりを感じるより先に、持っている刀を地面に刺してその柄を逆手に握ると倒れそうな体の支えにした。その左手に出たものに違和感があって、沖田はなめた。血だと悟るのに時間は必要なかった。

その刹那、闇を割いて刀を振るう音がした。もしかしたらこの時、自分は死んでいたかもしれないと思う。

沖田はいつもの身ごなしで殺気の持ち主と対峙した。

この闇に紛れた男の正体を、生涯沖田は知ることなどなかった。ただ斬り捨てた敵の中、誰より鋭い太刀筋で、この身体の不具合とあわせるとどうも命が危ないらしいと悟る。

「新選組の沖田だな」

男は刀を構えた。手負いだが、死力を尽くすつもりはあるらしい。沖田も平晴眼で構えた。

唇の端から零れた血のことなど、すでに沖田の意識にない。

男は左足で大きく踏み込むと、そのまま上段から打ち込んできた。それを沖田は左に避けた。その瞬間庭にあったらしい石の行灯に、激しく身体をぶつける。

(――っ。)

肺をぶつけたようだ、呼吸が詰まる。その隙を敵が見逃すはずがなかった。

踏み込んでくる気配がして、沖田は行灯の台座に乗っていた石を思い切り左手で押した。

それが幸いにして狙い通りに敵の足元に落ちたのだろう、どさりと人が倒れる音がしてその上から沖田は刀を振り下ろした。――


これから記憶が無いということは、ここで自分の意識も絶たれたのだろう。

沖田は左手で、自分の喉に触れる。せり上がってきたあの感覚、あのときの腹の具合を思い出す。

(どうも自分は死ぬらしい。)

あの時どうして刀を振れたのか、土壇場の力でも出たのだろうが、今にして思うと不思議だった。

これは、どう考えても良からぬ前兆に違いない。しかし、そのことに自分以外誰が気付いているのだろう。

沖田は思案した。こういうことを考えるのは得手としていないが、近藤に知らせるのだけは躊躇う内心に聞く。

(もし隠し立てできぬようなら。)

そう考えたところで、廊下がわずかに軋む音が耳に入った。その音が居室の前で止まる。

「総司、入るぞ」

「ええ」

近藤は自ら茶菓子を持ってきた。

誰かに持ってこさせるのだろうと思っていた沖田が、慌てて立ち上がりそれを受け取ろうとすると、近藤は座っていなさいと叱った。そして沖田のいた近くの畳にそれらを置き、自分も腰を落ち着かせる。

「裏庭で人を斬ってから後のことを、覚えていません」

「そうだろうとも。裏庭でひっくり返っていたんだ。帰り道も歩いちゃいたが、歳に肩を貸されてあまり意識がなかったようだしな」

「世話をかけました」

「それは私ではないさ。後から来た隊士たちに言いなさい」

近藤の首筋を、汗が垂れる。もしかしたら持ってきた茶も、自分で沸かしたのかもしれない。

「近藤先生は、もう寝ますか」

「いや、どうだろう。歳から話を聞かぬまま寝るのは、落ち着かんしな」

先ほど尾形と連れ立った土方のことを気にしているようだ。

「なあ総司、歳は隊士たちに怖がられているだろう」

「そうでしょう」

「時々思うよ。歳はさんね、新選組を私のものにしたいと言ったんだ。それで、こう鬼の魂とすり替えられたように働いているだろう。それが歳さんを苦しめているんじゃないかとね」

近藤は時々、歳さんと呼ぶ。畏敬の念を払っているのだろう。沖田が時々近藤先生と呼ぶそれとどこか似ている。

近藤からしてみれば、土方は迂闊な自分の分まで気を尖らせているようにみえるらしい。しかしとて、土方に肝を据えて座っているだけであんたはいいんだと言われた時のことを思い起こすと、どうもこれ以外に為す道がないと、沖田に打ち明けたことがある。

「近藤さんが気にすることはないでしょう。そのために私が隣室に置かれているようなものです」

隊士の不満を一斉に引き受けている土方だから、寝首をかかれることもあるやもしれない。

別にそういう理由で隣室に置かれたわけではないだろうが、それを案じている近藤にはそう言って言い聞かせるのがいいと沖田は決心した。

「部屋の並びにも気を遣ったのか」

「近藤先生、さっきのは良くない話でした。そんなことは聞いていませんから、こう並んだのは偶々です」

土方だから迂闊なことはしないだろうということは、近藤も知っている。

それでも隣室に沖田を置くくらいにはそれを恐れているのではないかと、近藤は沖田の思惑とは逆にとらえたらしい。沖田は困ったふうに眉を寄せて先ほどの言葉の撤回を求めた。それでも近藤は、鬱蒼とした面持ちで俯いたままである。

沖田は立ち上がって襖を開け、縁側に出た。

「近藤先生も、来てください。いい月が出ています」

「俺は総司の見張りも兼ねているのだ。よしなさい」

「少しこうして見るぶんには、土方さんも怒らないでしょう」

沖田は縁側にあぐらをかいて月を見上げた。近藤は沖田のこういうときの頑固さを知っているのである。立ち上がって沖田の隣まで来た。

「なあ総司」

「はい」

「君の目から見て、歳はどうかね」

近藤は縁側から膝足を垂らした。そして優雅に姿勢を倒し、後手をついて体勢を構える。

「どうって、土方さんは土方さんでしょう」

「いや、そうではないのだ。江戸にいた頃と、変わったか」

江戸にいた頃、確かに近藤の道場が近所に名を知らしめたのは、土方のおかげだと言ってもいい。だからその時の情熱を持って、今も新選組を近藤のものにしたがっているのだろうと沖田は考えていた。近藤の人柄に、幕府と命を賭ける価値があるとみたから、土方は執着している。

土方は既存の理論に縛られない、思考だけは殊に自由な男だった。場所が変われば人もやり方も変える。その手管はどれを取っても一級だった。今は、それが鬼を演じることなのである。そして近藤の逸話を平隊士に噂させては、その信仰を集めていた。

「そうですね、少しは変わったかもしれませんが。土方さんがそれを、一番知っていると思います」

だから近藤が気にすることではないと、沖田は言いたかった。しかし近藤は、細かい行間の読める男ではない。

「だがな、俺は歳に背負わせすぎていると思っている。それでもそのために為すことがなくてね。このままでいることが、新選組のためにも最善だとは心得ているはずなんだが」

一つ下の土方への遠慮だろう。もう何年も一緒に生きて互いを知り尽くしているはずなのに、こういうところだけは互いに律儀なのだ。

近藤が土方にだけ見せる態度は、そういう義の上に成り立つと言ってもいい。

「私には分からないな。土方さんは、近藤さんになんとも言わないのですか」

「言わんだろう。あいつはそういう男だ。俺の肚のうちはすっかり見ておいても、自分の肚積りは俺に見せられないのだよ」

「存外土方さんは、不器用なのかもしれませんね」

見せないのではないのだ。土方が近藤に隠すことは、新選組内の政治については何もないと言っていい。

それでもその気負いを近藤に吐露しないのは、彼なりの配慮である。しかしそれを近藤に悟らせているところが、沖田からすれば不器用だった。

「そうだね。私から見れば君も不器用に見える」

「私ですか」

「ああそうさ」

近藤はそう言って空を仰いだ。近藤の目にそう見える覚えは沖田にはない。しかし近藤にこれ以上何か言わせることもできなかった。

「歳にも君にも、大変な思いをさせているだろう」

「いいえ。そのように思ったことはありません。土方さんもこれには頷くでしょう」

沖田はからりと笑った。近藤はその横顔を見てもう一度空を見上げた。

「昨晩のことを容保公は、お褒めくださるかもしれん。そうしたら、新選組は今よりもっと大きな力となる。人の世はいつも、先のことなど分からんから、まあなんとも言えまいが、これまでかけてきた苦労と、それよりももっと多くの心労を掛けるかもしれない。それでも君や、歳さん、井上さんたちは、私についてきてくれるのだろうか」

「私は近藤先生に貰ったものは何でも大切にしておきたいたちらしいので、苦労でも心労でも何でももらえるならもらっておきます」

沖田の言葉に、近藤は眉を寄せて笑った。複雑な心境ではあるのだろうが、少しそのまま笑った後、安堵したような息を落としてから月を見据えた。

少しの間、虫の音がその場を支配する。だがすぐに近藤は思い立ったように後ろを振り返った。

「歳はあの茶菓子、食べるかね」

「置いておけば、手を伸ばすのではないでしょうか」

「そうか、ではまた持ってこなくては」

そう言って近藤は立ち上がった。そして座ったままの沖田を振り返る。

「そこで少し待っていてくれたまえ。すぐに戻る」

「近藤先生、台所にはあちらからの方が」

沖田がそういうのを聞かずに、角部屋である沖田の部屋の前の廊下を曲がるところまで行ったが、そこで近藤はおおと声を上げた。

二人のことを思って近藤に台所への近道を教えてやろうとしたのに、失敗に終わった。沖田は土方がそこにいるのに、少し前から気付いていたのだ。

「いたのかね、歳」

「いや、つい今来たところなんだ」

「私は少し、厠へ行こうかとね」

沖田はすぐそこで交わされている会話に、むず痒い思いをした。どちらともが相手に気を遣って空音をはいている。

近藤は気付かなかったようだが、土方は二人が縁側に出てほどなくして、そこに来た。だが二人が自分の話をしていると知って、出て行き辛くなったのだろう。

土方にしては珍しく、近藤が来る前に隠れることもできなかったらしい。それほど動揺したようだ。

「そうか。おれは戻ってるよ」

「総司がそこにいる。一緒に月でも眺めるといい」

「今宵は明かりが冴えているからね」

風流人らしいことを言って近藤とすれ違った。こちらにやってくる土方の顔は、あからさまにしまったという様子だ。

「お前寝ていろと言ったろう」

「これくらいは許してください」

如何ともし難い感情を、土方は沖田を叱る形でぶつけた。沖田もそれを分かっていて、川のせせらぎのように流す。

「熱にやられたのか。昨日の夜は大層暑かったからな」

「ええ、きっとそうです」

沖田ははっとした。土方は沖田の具合を探りに来ている。

「かなり服に血がついていたが、喀血したわけではあるまいな」

「まさか。それならこんなに元気なものですか」

「……そうだな」

隣の男の横顔を、沖田は尻目で見た。どうやら心底頷いたようだ。感付かれていない。

「近藤さんは、あなたのために茶菓子を用意しに行きましたよ」

「そうらしいな。小姓にでもやらせればいいものを」

「本当にそうです。おかしな人だ」

二人は同時に笑った。どうしてみてもやめられず二人は笑い続けた。

その笑いが落ち着く頃に近藤がやってくる足音がして、二人は姿勢を正した。

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